第4代 懿徳天皇(畝傍山南纖沙溪上陵)・奈良県橿原市西池尻町




第4代 懿徳天皇(畝傍山南纖沙溪上陵)・奈良県橿原市西池尻町

奈良県橿原市西池尻町

第4代 懿徳天皇(いとくてんのう)「日本書紀では大日本彦耜友天皇」

畝傍山南纖沙溪上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)

俗称「マナゴ山」

欠史八代の一人で実在性については諸説あり。

畝傍山南麓の遊歩道を抜けて少し南へ進むと、

第4代 懿徳天皇(在位:前510年~前477年)の御陵である

畝傍山南纖沙渓上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)があります。

第3代 安寧天皇陵からは約300m離れた所にあります。

古事記によると懿徳天皇は、

その名を大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)といいます。

第3代の安寧(あんねい)天皇の第2皇子で、45歳で亡くなったとされています。

第4代 懿徳天皇

異称 大日本彦耜友天皇・大倭日子鉏友命

誕生 綏靖天皇29年

崩御 懿徳天皇34年9月8日 77歳

在位 懿徳天皇元年2月4日 – 懿徳天皇34年9月8日

続柄 (父)安寧天皇(母)渟名底仲媛命(阿久斗比売)

皇室系譜に第4代と伝える天皇。『日本書紀』によれば、国風諡号(しごう)は大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとものみこと)、安寧(あんねい)天皇の第2子で母は渟名底仲媛命(ぬなそこのなかつひめのみこと)、安寧天皇11年に立太子、懿徳元年即位、同2年に軽(かる)(橿原(かしはら)市大軽町付近)の曲峡宮(まがりおのみや)に遷都して天豊津媛(あまとよつひめ)命を皇后とし、同34年に没して畝傍山南繊沙渓上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのかみのみささぎ)に葬られたという。『古事記』は母を阿久斗比売(あくとひめ)命、皇后を賦登麻和訶比売(ふとまわかひめ)命とし、45歳で没したと伝える。

欠史八代の一人。

第四代天皇。第三代・安寧天皇の第二皇子。 母は『古事記』では河俣毘売の兄・県主波延の娘、阿久斗比売、 『日本書紀』では渟名底仲媛命。

軽の境崗宮(曲峡宮)にて統治された。

『古事記』では、懿徳天皇は師木県主の祖・賦登麻和訶比売(飯日比売命)を娶って、 御真津日子訶恵志泥命(のちの第五代天皇・孝昭天皇)、多芸志比古命をもうけた。 多芸志比古命は血沼之別、多遅麻の竹別、葦井の稲置の祖。

『日本書紀』では、懿徳天皇は息石耳命の娘・天豊津媛命を皇后として、 観松彦香殖稲天皇(のちの第五代天皇・孝昭天皇)をもうけた。

御陵は、『古事記』では畝傍山の真名子谷。『日本書紀』では畝傍山の南の繊沙谿上陵。

懿徳天皇(畝傍山南纖沙溪上陵)

代数
第4代
天皇名
懿徳天皇(いとくてんのう)
御父
安寧天皇
御母
皇后渟名底中媛命
御陵名
畝傍山南纖沙溪上陵
(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)
陵形
山形
所在地
奈良県橿原市西池尻町

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