三河 山中城(城山) 196m・愛知県岡崎市




三河 山中城(城山) 196m・愛知県岡崎市

山中城というと、静岡県三島市の北条氏による山中城が最も有名ですが、

こちらは愛知県岡崎市にある「三河 山中城」です。

城山は通称、別名「岩尾山・医王山」とも呼ばれる

標高約195m (標高差 約100m・東西 約400m・南北 約250m)の城で、

戦国期における愛知県内最大級の山城です。

旧東海道を北に、鎌倉街道(吉良道)を南に見下ろす要所で、

当初は三河の国人「西郷氏」によって築かれ、その後「松平氏」から「今川氏」、

再び徳川氏(松平氏)の所有となり、三河一向一揆の際には一時的に占領されたりと

東西三河の境として忙しい経緯を持つお城です。

徳川家康の関東移封により廃城、当時の遺構をよく残しています。

愛知県道324号、羽栗病院近くに専用駐車場があります。

駐車所近くの登城口(舞木口)から南にある登城口(羽栗口)まで

山中城跡遊歩道が整備されています。

山中城 (城山・岩尾山・医王山)

標高 196m 登山日 2023年5月28日
三河国最大の山城
所在地  愛知県岡崎市

難易度 ★     オススメ ★★★ 登山口(ナビ検索) 山中城駐車場
スタート地点(11:50)→山中城(城山) (12:03)→ゴール地点G(12:31) 所要時間 40分 累積標高 122m / 123m 距離 2.1km
■山中城(やまなかじょう)は、三河国額田郡山中(現在の愛知県岡崎市舞木町・羽栗町)にあった戦国期の愛知県内最大級の山城。山中城は鎌倉街道(旧東海道)を北に見下ろし、舞木、山綱の両方から南行分岐する鎌倉街道(吉良道)を南の眼下に見下ろす、通称城山、岩尾山、医王山とも呼ばれる標高約195m(比高約100m)の山上一帯に築かれている。現在残る遺構は、徳川家康の関東移封当時のままの姿をとどめ、東西約400m、南北約250mで、愛知県内の戦国期山城の中で最大級の規模である。

山中城駐車場より

白の東側からは遊歩道が整備されています。

愛知県道324号沿い、羽栗病院近くには専用駐車場があります。

登城口

厭離穢土欣求浄土の旗

右の登城口(舞木口)から南にある登城口(羽栗口)まで山中城跡遊歩道が整備されています。

史跡 山中城跡 

指定面積:頂上部の565㎡

岡崎城主 西郷信貞の居城であったが、大永四年(1524年)安祥に居城した松平清康の奇襲を受け、一夜にして落城した。その結果、信貞は清康に属し、岡崎城を明け渡すこととなった。 その後、駿河今川義元の西三河進出、徳川家康の東三河進出の拠点となった。 この城跡は、標高196mの山頂(主郭)を中心として、東・東北・西北に延びる尾根筋に曲輪を重ねた連郭式の構造で、東西400m、南北200mという県下最大級の規模をもつ山城である。この地方に現在残されている山城の中でも、その遺構をよくとどめており、貴重な史跡である。

山中城址縄張図

1.曲輪

現在残っている遺構は、徳川家康の関東移封当時のままの姿をとどめています。

2.曲輪

整備されている「山中城遊歩道」は往時の城道ではなく、

大正13年(1924年)5月の「岡崎開市400年祭」の際に整備されました。

各曲輪間の城道は少なからず破壊されたり、短絡されたりしています。

3.堀切

4.曲輪

晴れていれば御嶽山の展望

5.馬出

馬出とは城の虎口(こぐち)や城門を守るために築かれた土塁や石塁のこと。

甲斐 武田氏の城ではよく見られますが、武田氏が関連していない城で見られるのは珍しい。

25.東郭

ここから山中八幡宮経由のルートもあります。

23.主郭(本丸)

城山(山中城跡)196m

別名(岩尾山・医王山) 「三河・遠州の超低山」の一座

桑谷山方面

東海道方面の展望

眼下に鎌倉街道(吉良道)

石碑

主郭(本丸)の広さは、東西約40m、最大幅約18m程、中央に城跡碑が建っています。

岡崎市指定史跡 山中城跡

山中城は県下最大級の城域を誇る山城であり、東海道と吉良道との分岐点を見下ろす標高約200mの山上に立地し、軍事上の要地であった。 築城は西郷氏、あるいは西郷氏の所領を引き継いた岡崎松平家とも伝わる。大永4年(1524)、岡崎松平氏の詰城であった山中城を安城松平清康が風雨を衝いた夜製により挙握した。清康はついで明大寺の岡崎城も握し、松平家の本拠を安城から現在の岡崎城へ移すなど、山中城奪取は安城松平家の結束と一門の再集結をはかることとなった。 天文17年(1548)の小豆坂合戦時には今川氏の重要拠点となり、「医王山」の名前で史料上の確認ができる。永緑3年(1560)桶狭間の合戦後には松平元康(徳川家康)が専取し、徳川氏の支城となった。 西郷氏時代の城域は主郭・二の曲輪・常曲輪付近と想定され、今川氏がこれを大改修し、その後さらに徳川氏が改修したことで、現況のような大規模な連郭式山城となった。 縄張りとしては、山頂に築かれた主郭・二の曲輪を中心に尾根上に曲輪を配置し、北側の谷筋斜面には竪堀がみられる。また、各尾根の先端には堀切が設けられ、敵の優入を阻止している。小規模ながら初期的な馬出しもみられるなど、西三河を代表する戦囲時代の山城である。

24.二の郭

本丸より一段低い場所に二の郭(二の丸) 広さは北西約45m、最大幅約20m。

二の丸には小さな社があります。

浅間社

祭神木花咲耶姫命

此の御祭神は安産御子育の大神であります。婦人の亀鑑貞操の守護神であらせられ、家事諸々の事をお守り下さる大神様であります。富士浅間さんは大正の始め富士山より拝受して羽栗の里にお祀りしてありましたが或る夜どこからともなく大きな音がして急にランプの灯が暗くなり皆んなでこの不思議な出来事に驚いてその一夜を明かした昭和五年の春のお彼岸に「センゲン様」のお告げにより此の山頂にお祀りいたしました。大永四年五月二十八日此の城山で討死した武将の例を慰め祀るため桜精香之碑とともに建立する。

昭和四年三月吉日 山中稲荷神社

18.一段目 腰曲輪

19.二段目 腰曲輪

20.三段目 腰曲輪

その下に大小二つの堀切を経て 南側の登城口(羽栗口)へ

岡崎市指定文化財 史跡 山中城跡

指定面積:頂上部の565㎡

岡崎城主西郷(松平)信貞の居城であったが、大永四年(1524年)安祥に居城した松平清康の奇襲を受け、一夜にして落城した。その結果、信貞は清康に属し、岡崎城を明け渡すこととなった。その後、駿河今川義元の西三河進出、徳川家康の東三河進出の拠点となった。 この城跡は、標高196mの山頂の主郭を中心として、東・東北・西北に延びる尾根筋に曲輪を重ねた連郭式の構造で、東西400m、南北200mという県下最大級の規模をもつ山城である。この地方に現在残されている山城の中でも、その遺構をよくとどめており、貴重な史跡である。

麦畑

帰りは南の登城口(羽栗口)から登城口(舞木口)まで農道を戻ります。

一面、黄金色の麦畑が広がるのどかな道です。

岩肌の露頭部分に歌碑と石仏

灸寺 光明山順因寺

少し寄り道をして順因寺へ 駐車場近くにある羽栗病院は、

光明山順因寺での灸・漢方薬治療が行われてきたことに端を発するそうです。

羽栗病院の歴史は鎌倉時代まで遡ることができます。
1394年、当院に隣接する光明山順因寺(羽栗の灸寺)では、 灸と漢方薬による精神科治療が開始されておりますが、 これが当院の精神化医療の源です。以来代々の順因寺の院主により受け継がれていましたが、 1946年、第29世・粟生敏春により羽栗医院が開設され、 近代医療と並存するかたちで伝統の灸・漢方治療は行われるようになりました。そして1956年同院は羽栗病院となり、今日に至っております。

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