第21代 雄略天皇(丹比高鷲原陵)・大阪府羽曳野市島泉8丁目
大阪府羽曳野市島泉8丁目
第21代 雄略天皇陵(ゆうりゃくてんのう)
丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)
遺跡名「島泉丸山古墳(高鷲丸山古墳)」・「島泉平塚古墳(高鷲平塚古墳)」
2基の古墳が治定されています。
それぞれ直径75メートルの円墳と、一辺50メートルの方墳です。
古墳は世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」の構成資産とされています。
雄略天皇は、埼玉県の稲荷山古墳より出土した鉄剣の銘文より、
考古学で存在が確認された最古の天皇であるとされるとされています。
また、葛城一言主神社では、一言主とともに御祭神として祀られています。
第21代 雄略天皇
別名 日本書紀 大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)
大泊瀬天皇・大泊瀬皇子・大悪天皇・有徳天皇(日本書紀)
大長谷若建命・大長谷王(古事記)
誕生 允恭天皇7年12月
崩御 雄略天皇23年8月7
在位 安康天皇3年11月13日 – 雄略天皇23年8月7日
続柄 (父)允恭天皇(母)忍坂大中姫(応神天皇皇孫)
雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)の第五皇子。母は誉田天皇(応神天皇)の孫の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)。木梨軽皇子・穴穂天皇(安康天皇)の同母弟。「記紀」によれば反抗的な地方豪族を武力でねじ伏せて帝権を飛躍的に拡大させ、強力な専制君主として君臨したとされる。養蚕の推奨、新羅への出兵、呉への遣使などの政策を積極的に実施した。
兄である穴穂天皇(安康天皇)の崩御後、帝位継承の邪魔となる兄弟や従兄たちを粛清した後即位した。このとき誅殺した葛城円大臣の娘の葛城韓媛を妃とし白髪皇子(清寧天皇)を得た。また吉備上道臣田狭から妻の吉備稚媛を奪い磐城皇子・星川稚宮皇子を得た。皇后は大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の皇女である草香幡梭姫皇女で血縁上は伯母にあたり、間に子はない。
『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭にその名が掲げられていることから、雄略天皇の時代が歴史的な画期であったと古代の人々が捉えていたことが窺える[1][2]。それまでの日本列島は各地の有力豪族による連合体であったが、雄略天皇の登場により大王による専制支配が確立され、大王を中心とする中央集権体制が始まったとする見方もある[3]。
埼玉県の稲荷山古墳より出土した鉄剣の銘文にある「獲加多支鹵」(ワク(カク)カタキ(シ)ル(ロ))が『古事記』にある名称「大長谷若建」の中の「若建」(ワカタケルとしている)と『日本書紀』の名称「大泊瀬幼武」の中の「幼武」(これもワカタケルとしている)と類似しているとされていることから「考古学で存在が確認された最古の天皇」であるとされる