第15代 応神天皇(惠我藻伏崗陵)・大阪府羽曳野市誉田




第15代 応神天皇(惠我藻伏崗陵)・大阪府羽曳野市誉田

大阪府羽曳野市誉田6丁目

第15代 応神天皇 陵(おうじんてんのう)

惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)・遺跡名「誉田御廟山古墳

墳丘長約420メートル・体積143万3960立方メートルの前方後円墳で、

大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)に次ぐ日本第2位の大王陵です。

古墳は世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」構成資産とされています。

世界文化遺産としての登録

2008年9月26日、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)を含む百舌鳥古墳群、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)を含む古市古墳群が世界遺産の国内暫定リストに追加されている。2019年5月14日にユネスコの諮問機関「イコモス」は前年9月に行った現地調査などの結果、世界遺産への「登録が適当」とする勧告を提出した。2019年6月30日からアゼルバイジャンで開かれる予定の世界遺産委員会で正式に登録が決定する見通しとなった。

ユネスコの世界遺産委員会は7月6日、アゼルバイジャンの首都バクーで行われている新たな世界遺産を決める会議において日本が推薦する大阪府の大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)を含む「百舌鳥・古市古墳群」の世界文化遺産としての登録が正式に決定した。

史跡古市古墳群

史跡 応神天皇陵古墳外濠外堤
所在地:羽曳野市誉田3丁目・5丁目
指定:昭和53年10月30日
古市古墳群最大の応神天皇陵古墳(全長425m)は、百舌鳥古墳群(堺市)にある日本最大の仁徳天皇陵古墳(486m)に次ぐ巨大な前方後円墳です。3段に築かれた墳丘の高さは36mで、積み上げた土の量は約143万㎥と推定され、仁徳天皇陵古墳を上回るとも言われています。
墳丘の周囲には2重の濠と堤が巡らされ、古墳の西側では幅50m、高さ3.5mの大規模な内堤の外側に、幅およそ60mに渡って外濠と外堤の跡がよく残っています。
外堤の外側に造られた東山古墳(方墳 一辺の長さ50m)とアリ山古墳(方墳 一辺の長さ45m)は、応神天皇陵古墳に付属する陪塚と考えられています。アリ山古墳では刀や鏃、鎌や斧など、鉄製の武器や農具、工具が多量に埋蔵されていました。
応神天皇陵古墳が築造された古墳時代中期中葉(5世紀前半頃)は、前方後円墳の墳丘がもっとも巨大化する時期にあたり、それとともに、濠や堤、陪塚などの外周施設が発達していたことがわかります。     羽曳野市

応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)

古市古墳群で最大の応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)は、墳丘の長さが425mの前方後円墳で、境氏の仁徳天皇陵古墳(大山古墳、長さ486m)に次ぐ第2位の規模をもっています。3段に築かれた墳丘の高さは36mで、盛土の量は全国一の約143万㎥と推定されます。
墳丘の周囲には濠と堤を巡らし、複数の陪塚(付属の古墳)を配置しています。
古墳時代の中期(5世紀前半)に築造されたと考えられ、規模や構造がもっとも発達した最盛期の巨大前方後円墳の姿を示しています。

誉田丸山古墳

応神天皇陵古墳の北側の外濠と外堤に接して、陪塚の一つである誉田丸山古墳が造られています。直径50m、高さ7mの大型の円墳で、円筒埴輪とともに家形、蓋形などの形象埴輪が立てられていました。江戸時代の末(19世紀中頃)に発掘された金銅製の鞍金具(乗馬の際に用いる鞍の飾り金具)は、龍の文様を透かし彫りで表した豪華なもので、国宝に指定されています。
羽曳野市

応神天皇(誉田別命)が崩御した後、欽明天皇32年(571年)、

その神霊が八幡神として豊前国宇佐に初めて示顕したと伝わります。

誉田別命を主神として、母の神功皇后・比売神(仲姫命)を合わせて

八幡三神として祀られています。

また、八幡三神のうち、比売神や、神功皇后に代えて仲哀天皇や、

武内宿禰、玉依姫命を祀っている神社も多くあります。

神仏習合が始まったのは奈良時代後期から平安時代初期と云われ、

八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称し、神社内には神宮寺が作られました。

第15代 応神天皇

別名 誉田天皇・誉田別尊・胎中天皇(日本書紀)

品陀和氣命・大鞆和気命(古事記)

品太天皇(播磨国風土記)・凡牟都和希王(上宮記)

誕生 仲哀天皇9年12月14日 -(394年?)

崩御 応神天皇41年2月15日

在位 応神天皇元年(390年?)1月1日 – 同41年(430年?)2月15日

続柄 (父)仲哀天皇(母)神功皇后(開化天皇の5世孫)

応神天皇 略歴

仲哀天皇の第四皇子。母は気長足姫尊(神功皇后)。異母兄に麛坂皇子と忍熊皇子がいる。神功皇后の三韓征伐の帰途に筑紫の宇瀰(神功皇后紀。うみ:福岡県糟屋郡宇美町)、または蚊田(応神天皇紀。かだ:筑後国御井郡賀駄郷あるいは筑前国怡土郡長野村蚊田)で仲哀天皇9年(若井敏明によると西暦367年)に生まれたとされるが、これは仲哀が崩御して十月十日後であるため、仲哀天皇の実子ではないことを示唆しているとする異説もある。応神天皇は胎中天皇とされ、異母兄たちはこれに抵抗して叛乱を起こしたが気長足姫尊によって鎮圧され排除された。摂政となった母により、神功皇后摂政3年に立太子。母が崩御した翌年に即位。

即位2年、仲姫命を皇后として大鷦鷯尊(仁徳天皇)らを得た。他にも多くの妃や皇子女がいた。即位6年、近江へ行幸。『古事記』によればこのとき宮主矢河枝比売を娶り菟道稚郎子と八田皇女を得たと言う。在位中には様々な渡来人の来朝があった。韓人には池を作らせたほか蝦夷や海人を平定して山海の部民を定めた。名のある渡来人には弓月君、阿直岐、王仁、阿知使主といった人物がおり、阿知使主は東漢氏の、弓月君は秦氏の祖である。『古事記』によると和邇吉師(王仁)によって論語と千字文、すなわち儒教と漢字が伝わったという[3]。また即位37年、阿知使主と子の都加使主は縫製の女工を求めるため呉(東晋あるいは南朝宋)に派遣されたという。即位40年、大鷦鷯尊と大山守皇子に相談の上で菟道稚郎子を立太子。即位41年に111歳で崩御。『古事記』では130歳、甲午年9月9日に崩御したとされる。

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