伯耆国一宮 倭文神社(しとりじんじゃ)・鳥取県東伯郡湯梨浜町大字宮内
鳥取県東伯郡湯梨浜町大字宮内に鎮座する「倭文神社(しとりじんじゃ)」です。
平安時代にまとめられた延喜式神名帳に名を連ねる式内社にして「伯耆国一之宮」、
近世においては官幣小社に列せられました。
機織に携わった「倭文氏(しずりうじ)」の祖神、
「建葉槌命(たけはづちのみこと)=倭文神」を祀ったのが起源とされます。
他に「下照姫命・天稚彦命・事代主命・建御名方命・味耜高彦根命」など、
出雲の神々を配神として祀っています。
戦国時代には尼子氏が社殿を再建し、藩政時代には鳥取藩主の祈願所となりました。
現在は、「安産の神」として県内外から篤い信仰を集めています。
社伝では出雲から渡った「下照姫命(したてるひめのみこと)」が、
現・湯梨浜町宇野に着船し、御冠山に登って現在地に鎮まったとされ、
大正時代までは下照姫命が主祭神であるとされていました。
その後、「式内社調査報告」で、古代に建葉槌命を祀ったのが始まりとされています。
大国主命の娘、下照姫命が女神だったこともあり、古来から安産信仰で有名で、
今も安産祈願の参詣者が多い神社です。
境内には末法思想が色濃く反映された古代の経塚も現存。
出土したものは56億7千万年後に向けて埋められた「祈りのタイムカプセル」でした。
その経塚から出土された「金銅観音菩薩立像・銅造千手観音菩薩立像・銅板線刻弥勒立像・
瑠璃玉・素文鏡・銅銭」は、「伯耆一宮経塚出土品」として全て国宝に指定されています。
(東京国立博物館蔵)
隋神門
倭文神社
住所 鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内754
電話番号 0858-32-1985
参拝時間 09:30~16:00(御祈祷受付・お守り・御朱印)
H.P http://www.sidorijinja.com/
駐車場 約20台(無料)
アクセス JR山陰本線松崎駅からタクシーで5分
鳥取自動車道鳥取ICから約36km
倭文神社 由緒
伯耆国一ノ宮倭文神社
一、通称 伯耆一ノ宮
一、祭神 建葉槌命(主神) 下照姫命 外五柱
一、例祭日 五月一日
一、由緒
伯耆国の一ノ宮として御冠山の中腹に位置し、広く安産の神として信仰されている。創立年代は不明であるが、出雲大社御祭神大国主命の娘下照姫命が出雲から当地に移住され、安産の普及に努力された。
創立当時、当地方の主産業が倭文(しずおり)の織物であったので倭文部の祖神建葉槌命に当地と関係の深い下照姫命を加えて祭神としたもので、その後倭文の織物が姿を消し、安産信仰だけが残り、安産守護として崇敬され、参道横には安産岩も伝えられている。
平安時代延喜式神名帳(西暦九二二年)には当神社の名がみえ、神階は度々昇進し、天慶三年(西暦九四〇年)には従三位から正三位に進んでいる。その後正一位に昇進されたとみえ「正一位伯州一宮大明神」と刻した勅額と称する古額が現存している。
住吉の社殿広大で、千石の御朱印地を有したと伝えられ、鎌倉時代の東郷荘絵図には、東郷湖付近に点々と一ノ宮領の文字がみえている。
然し戦国時代荒廃、天文二十三年(西暦一五五四年)尼子晴久社殿を造営神領七十石寄進。後神領中絶したが、元亀元年(西暦一五七〇年)羽衣石城主南条宗勝これを復旧した。
天正年間羽柴秀吉を迎え討つべく、吉川元春(毛利の武将)橋津の馬ノ山に在陣するや、当神も兵営とせんとしたが、元春の子元長は霊夢を感じて、兵を馬ノ山に引いている。その後御冠に入った秀吉との対陣は有名である。
羽衣石城の南条元続当社の荒廃を嘆き、神領を収め、新地を寄せ代官をして社領の監査を厳ならしめたという。
徳川時代は池田藩主の祈願所となり、天正年間の戦乱で中絶した神輿渡御を延享二年(西暦一七四五年)再興し、藩老和田氏から境内警備のため鉄砲六人を附されている。
明治以降県社であったが、昭和十四年国幣小社となった。一、安産岩
神社境内に至るまでの参道横にある。
昔常に難産に苦しむ婦人が、古来から安産の神として信仰の厚い伯耆一ノ宮に願いをかけて日参し、満願の日下照姫命の霊夢を感じ、参詣の帰途この岩で安産したので、以来安産岩と称するようになったという。一、下照姫命御着船の地
羽合町宇野と泊村宇谷の中間の御崎に、出雲より御着船されたと伝えられるが、その近くに化粧水と称し、船からおあがりになって化粧を直すのにお使いになった水が伝えられている。一、国宝 伯耆一ノ宮経塚出土品(東京国立博物館に展示されている。)
一、史跡 伯耆一ノ宮経塚
(附)馬の山古墳群は、当神社より丘続きの位置に存在する。昭和五十四年三月 湯梨浜町教育委員会
隋神門をくぐり参道を歩いていくと右手に「伯耆一ノ宮経塚」への入り口があります。
しばらく山道を登った先に経塚があります。
伯耆一ノ宮経塚 入口の案内板
この経塚は、もともとは下照姫命のお墓であると言い伝えられてきた場所でした。
大正4年(1915年)の発掘により経塚であることが判明します。
出土品の銘文から、当社が平安時代後期には既に伯耆国一宮であったことがわかりました。
また出土品である観音菩薩立像などは「伯耆一宮経塚出土品」の名称で、
現在一括して国宝に指定されています。
伯耆一ノ宮経塚
伯耆一ノ宮経塚(国指定史跡)
昭和10年12月24日指定
伯耆一ノ宮経塚 この地は、古くから伯耆一ノ宮倭文神社の御祭神・下照姫命の墳墓と言い伝えられていた場所で、発掘の結果、経塚であることが判明した。 「元日の朝に金の鶏が鳴く」という金鶏伝説のあった場所でもある。 経塚が築造されたのは平安後期の神仏混交の時代で、伯耆一ノ宮にも寺院(神宮寺)がいくつか建立されていた。 経塚から出土した国宝指定の銅経筒などは、当時の僧・京尊が埋納したものである。
手水舎
倭文神社 拝殿
機織に携わった氏族である倭文氏が祖神の建葉槌命を祀ったのが起源とされています。
しかし、社伝には下照姫命に関するものが多く、
大正時代までは下照姫命が主祭神であると考えられていました。
社伝によれば、出雲から渡った下照姫命が現在の湯梨浜町(旧羽合町)宇野に着船し、
御冠山に登って現在地に鎮まったと伝わります。
着船したと伝えられる場所には、下照姫命が化粧を直したという「化粧水」や、
腰を掛けたという「お腰掛岩」などが残っています。
元々は織物の神である建葉槌命を祀っていたのが、
当地で織物が作られなくなったことにより建葉槌命の存在が忘れられ、
共に祀られていた下照姫命だけが残ったと考えられています。
境内の塚が下照姫命の墓であると考えられていたが、
大正4年の発掘により経塚であることが判明しました。
その出土品の銘文から、当社が平安時代後期には伯耆国一宮であったことがわかっています。
倭文神社 本殿
倭文神社 由緒
伯耆一ノ宮 倭文神社
鎮座地 鳥取県東伯郡東郷町宮内754番地御祭神
健葉槌命(主神)・下照姫命・事代主命・建御名方命・少彦名命・天稚彦命・味耜高高彦命
由緒
安産の神として崇敬されている当神社は、伯耆国の一ノ宮である。創立年代は不詳であるが、社伝によれば。大国主命の娘下照姫命が出雲から海路御着船従者と共に現社地に住居を定め、当地で死去される迄、安産の指導に努力され、農業開発、医薬の普及に尽くされたという。
創立当時当地方の主産業が倭文(しづおり)の織物であったので、倭文部の祖神健葉槌命に当地と関係の深い下照姫命を加えて祭神としたもので、他の五柱の神は大国主命のお子神か関係の深い神々である。
当神社に対する安産信仰は古来からのもので、数々の霊験が伝えられているが、倭文の織物は姿を消したので、安産の信仰が残り、当神社は安産の神として、本県は勿論広く県外にも御神徳が及んでいて、安産祈願の参詣者で社頭は賑わっている。
平安時代延喜式神名帳(西暦922)には、当神社の名が見え、神階は、度々昇進し、承和4年(西暦837)従五位下、斎衡3年(西暦856)従位上、天慶3年(西暦940)には、従三位から正三位に進んでいる。
平安時代当神社にも多数の神宮寺が建立されたが戦国時代武将に社領を没収され、神社のみを残して各寺院は四散した。
当神社には勅額と称する古額が現存し、正一位伯州一ノ宮大明神と刻されている。
往古社殿広大で千石の朱印地を有したと伝えられるが、戦国時代荒廃。天文23年(西暦1554)尼子春久社殿を造営神領七十石寄進。後神領中絶したが、元亀元年(西暦1570)羽衣石城主南条宗勝がこれを復旧した。徳川時代は池田藩主祈願所となり祭日には藩老和田氏から境内警備のため、鉄砲六人を付されている。 明治以降県社であったが昭和14年に国幣小社となった。
例祭日は五月一日
・国宝・伯耆一ノ宮経塚から大正4年に発掘されたもので、東京国立博物館に納められている。
◎銅経筒(平安時代) 銘文中康和五年十月三日山陰道伯耆国河村東郷御座一宮大明神の文字がある。
◎金銅観音菩薩立像(白鳳時代)
◎その他仏像 銅鏡、銅銭。るり玉。桧扇残片。短刀刀子残欠。漆器残片。などがある。安 産 岩
神社境内に至るまでの参道横にある。昔常に難産に苦しむ婦人が願をかけ、満願の日夢に下照姫命が姿を現され、参詣の帰途安産岩で簡単に出産し爾来安産岩と称するようになったと云う。全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
倭文神社 御朱印