安房国一宮 州崎神社(すさきじんじゃ)・千葉県館山市洲崎




安房国一宮 州崎神社(すさきじんじゃ)・千葉県館山市洲崎

千葉県館山市洲崎に鎮座する安房国一宮

洲崎神社(すさきじんじゃ・すのさきじんじゃ)」です。

神武天皇の御代、安房忌部一族の祖「天富命」(安房神社の創建者)が

勅命により四国の忌部族を率いて房総半島を開拓された際に、

忌部族の総祖神、天太玉命の后神である「天比理乃咩命」を祀ったのが創建と伝わります。

延喜式神名帳には名神大社「后神天比理乃咩命神社」とあり、

元の名を洲ノ神(すさきのかみ)と称していたそうです。

鎌倉時代の治承4年(1180)石橋山の合戦に敗れ、房総半島に逃れてきた源頼朝公は、

先ず当社に参詣し源氏の再興を祈願したと伝わります。

深く尊崇した頼朝公は、横浜市に当社を勧請して洲崎大神を創建、

また、太田道灌は州崎神社を勧請して神田神社を創建したとも伝えられ、

江戸幕府からも御朱印状を受領、明治維新後の明治6年には県社に列格していました。

江戸時代後期の文化9年(1797)、房総を巡視した奥州白河藩主「松平定信」が参詣し

「安房國一宮洲崎大明神」の扁額を奉納されました。

洲崎神社

所在地   〒294-0316 千葉県館山市洲崎1344

連絡先   0470-29-0713

時間    24時間

御朱印   初穂料500円(書置き)

駐車場   10台程度(無料)

アクセス

(バス 電車)JR館山駅からJRバス洲崎方面行きで洲の崎神社前下車、徒歩5分

(車)富浦館山道路富山ICから約16.5km

千葉県館山市に鎮座する「州崎神社」

館山駅から海岸沿いの道を車で7~8Km程度進んだ所、

館山市の西の端、まさしく洲の崎という場所にあります。

鎮座地である「御手洗山(120m)」は御神体山として古代信仰の聖域もありました。

州崎神社・養老寺 案内図

州崎神社は東京湾の出入口を見下ろす場所にあることから、

古来から漁師にとって漁業神、船乗りにとっての航海神でありました。

祭神は「天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)」で、安房開拓神話に出てくる忌部一族の

祖神「天太玉命(あめのふとだまのみこと)」の后神です。

養老寺は真言宗寺院で、正式には妙法山観音寺といい、

江戸時代まで州崎神社の社僧を勤めていました。

養老元年(717年)役行者を開祖として創建されたと伝わり、

御本尊は州崎神社の本地仏である十一面観世音菩薩です。

洲崎踊り

毎年、2月の初午と8月20~22日の神社例祭に奉納されます。「みろく踊り」と「かしま踊り」の2種類からなり、地元ではこれらを「みのこ踊り」と呼んでいます。
踊り手は、基本的には小学生から中学生まで女子が中心ですが、近年は児童の減少から成人の女性が交じっています。オンドトリと呼ばれる1名の太鼓役と2名の歌役が中央に座り、その回りをお降りてたちが円形に取り巻き、太鼓と歌にあわせて踊ります。
手に持って舞う採物は、「みろく踊り」では、左にオンベ(長柄の御幣)を肩に担ぎ、右に扇を持ちます。「かしま踊り」では、扇のみを使います。初午の時に使うオンベと例祭のオンベは異なり、初午では、青竹にサカキと五色の幣束をつけたもの、例祭の時には、白い幣束と鏡をつけたものを使用します。
このふたつの踊りは、いずれも海の安全を司る鹿島の神に関係しています。「かしま踊り」は、鹿島の神人が一年の豊凶を告げ歩く「事触れ」に由来するもので、悪霊払いを目的としています。一方「みろく踊り」は、世直しを願う念仏踊りの系譜にあたり、弥勒がが遠い海の彼方から訪れ、富や豊作をもたらすという内容になっています。
「みのこ踊り」は、安房地方南部の洲崎と波佐間、南房総市千倉町川口の3カ所に伝わっているほか、関連する芸能が千葉県内にいくつか見られます。
「かしま踊り」そのものは、相模湾西岸(神奈川県小田原市から静岡県賀茂郡東伊豆町)にも分布していますが、安房地方の「みのこ踊り」と比べると、歌詞や採物などに共通点がある一方で、相模湾西岸は男性の踊り、安房地方は基本的には女児の踊りと違いがあります。
また、相模湾西岸の「かしま踊り」には方形の隊形で演じる場面があるため、踊りに参加する人数に限りがありますが、安房地方の「みのこ踊り」は円形の踊りのみであり、踊りの人数に制限はありません。
10人前後の少女が輪になって、大人の歌や太鼓などの演奏に合わせて踊る民俗芸能であることが、洲崎踊りをはじめとする安房地方の「みのこ踊り」の特色といえます。

(館山市教育委員会掲示より)

洲崎神社の指定文化財

洲崎神社自然林

洲崎神社裏の御手洗山の西側斜面は、神域として氏子の信仰が厚いため伐採されることがなく、自然林として保たれてきました。
この林が、シイが上木として目立つ下半部と、ヒメユズリハが上木として目立つ上半部にわかれています。
下半部では上の方から、第1層にスダジイが、第2層にヤブニッケイ、ヤブツバキが、第3層にトベラ、イヌビワが、第4層にテイカカヅラ、ヤブコウジなどが優位に生えていて、スダジイの極相林のかたちを保っています。極相林とは、気候などの生育条件のなかで自然のままに成長し、行き着いた林のことで、環境条件に適合した安定状態の植物群落のことをいいます。
上半部では、ヒメユズリハが優位に生えており、おおまかにススキ草原からクロマツ林、そしてヒメユズリハ林からスダジイ林という林の変遷過程をみることがえきます。

洲崎神社本殿

屋根は銅板葺の切妻造で、前方の流れを延長して 向拝屋根としたいわゆる三間社流れ造りで、柱などの軸部は朱塗りで仕上げられています。軒下の組物を、寺院建築で用いられる唐様三手先とするのは、珍しい点といえます。
社伝では延宝年間(1673~81)の造営とされていますが、三手先の形式がくずれている点や、支輪や虹梁・蟇股などの彫刻に江戸時代中期以降のものが多い点から、その後に大規模な修理が加えられていることがわかります。
しかし本殿の正面と背面には、古い社殿の部材と思われる蟇股もあります。とくに背面の竹に虎を配した彫物のある本蟇股は、江尾時代初期の寛永年間(1624~44)頃の様式に従っているもので、延宝年間の造営の際に再利用されたものと考えられています。

(館山市教育委員会掲示より)

二の鳥居

山の中腹まで延びている長い階段が印象的な境内。

150段近くもある長い階段は「厄祓坂」と呼ばれています。

こうして境内の様子を見ると、御手洗山が神域であることがわかります。

手水舎

社務所

式内大社 洲崎神社

祭神

天比理乃咩命

当社は延喜式神名帳に「后神天比理乃咩命神社大元洲名神」と記され、天太玉命の后神を祀る式内大社で、元の名を洲神と称した。

由緒

当社は宝暦三年(一七五三)の「洲崎大明神由緒旧記」によると、神武天皇の御宇、天富命が御祖母神天比理乃咩命の奉持された御神鏡を神霊として、洲辺の美多良洲山に祀られたことに始まる。
鎌倉時代の治承四年(一一八〇)安房に逃がれた源頼朝が、戦勝と源氏再興を祈念して神田を寄進、後、妻政子の安産を祈願している。室町時代には江戸城を築いた太田道灌が、江戸の鎮守として明神の分霊を勧請したと伝えている。房総里見氏も当社を尊崇して、七代義弘が神領五石を寄進し、江戸幕府もこれに倣って朱印状を下した。幕末の文化九年(一八一二)房総沿岸警備を巡視した老中松平定信は「安房国一宮洲崎大明神」の扁額を奉納している。
神位は平安時代に正一位、鎌倉時代に元寇戦勝祈願の功により勲二等に叙せられ、明治六年(一八七三)県社に列せられた。往時、別当寺は養老寺など五ヶ寺を数えた。洲崎明神は古来伝承されている数々のあたらかな霊験から、安産、航海安全、豊漁、五穀豊穣や厄除開運の守護神として信仰が厚く、現在に及んでいる。   (境内石碑より)

随身門

州崎神社に宮司さんは駐在していません。

御朱印は書置きのもので「随身門」内に無人の販売所があります。(初穂料500円)

州崎神社

神武天皇の御代、安房忌部一族の祖天富命が勅命により四国の忌部族を率いて房総半島を開拓され、忌部族の総祖神天太玉命の后神天比理乃咩命を祀ったのが当社です。平安時代の延喜式神名帳に式内大社后神天比理刀咩命神社とあり、元の名を洲ノ神(すさきのかみ)と称されていました。
鎌倉時代の治承4年(1180)石橋山の合戦に敗れ房総半島に逃れてきた源頼朝公は、先ず当社に参詣し源氏の再興を祈願し、寿永元年(1182)には奉幣使を派遣し妻政子の安産を祈願して、広大な神殿を当社に寄進されました。以降関東武士の崇敬篤く、里見家七代義弘は社領五石を寄進。徳川幕府も朱印状で安堵しています。
室町時代には、江戸城を築いた太田道灌は、鎮守として当社の御分霊を奉斎したのが神田明神の摂社八雲神社の前進と伝えられており、東京湾をはさみ湾の西海岸に位置する品川、神奈川にも御分霊を奉斎藤する神社があります。また、
成田市鎮座の熊野神社境内には、明和2年(1765)建立の「諸国六十六社」があり、四方に一宮の社名が彫られており、安房国一宮として当社の社名が彫られており、広く信仰されていたことがうかがわれます。
江戸時代後期の文化9年(1797)、房総の沿岸警備を巡視した奥州白河藩主松平定信は当社に参詣し「安房國一宮洲崎大明神」の扁額を奉納されました。

州崎神社 拝殿

正面の扁額「安房國一宮州崎大明神」は文化9年(1812年)の奉納。

房総の海岸警備の任にあった白河藩主松平定信の書です。

州崎神社 本殿

千葉県指定有形文化財の洲崎神社本殿は、

神社建築としては唐様三手先(からようみてさき)の組物を用いてるのが珍しい社殿です。

木鼻や欄間の彫刻も見事で、江戸初期の本蟇股(かえるまた)も見られます。

延宝年間(1673年~1680年)の鋳造とされるが、その後の大規模改修が見られます。

境内社 長官

豊玉彦命    海を司る神

大山津見命   山を司る神

建速須佐之男命 厄除・開発の神

大物主命    農工商・医薬の神  (案内板より)

境内社 金毘羅神社

境内社 稲荷神社

祭神は宇迦之御霊命(うかのみたまのみこと)で、五穀豊穣の神とされています。

鳥居の右手に勧請の由来を記した石碑があり、安永元年(1772年)に

伏見稲荷大社の分社として別当の吉祥院が請来したとあります。

厄払坂

148段の急勾配の石段です。

階段の中段と最上段の両脇にある2対のコンクリート柱は、御浜出する神輿が

急勾配の石段を昇降する際に、神輿を支える危険防止の支柱です。

急峻な石段を謙虚な気持ちでのぼり参詣することで、

厄落としが出来るとして名付けされました。

州崎神社 御朱印

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