大神山神社 奥宮(おおがみやまじんじゃ)・鳥取県西伯郡大山町大山
鳥取県西伯郡大山町大山、霊峰「伯耆大山」の中腹に鎮座する
「大神山神社奥宮(おおがみやまじんじゃ)」です。
式内社・伯耆国二宮で、旧社格は国幣小社に列しています。
なお、大神山神社 本社は、山麓の「鳥取県米子市尾高」に鎮座します。
冬季の厳しい積雪対策として、山麓(本社)を冬宮、中腹(奥宮)を夏宮としました。
伯耆大山は、古来から神の住む山「大神岳」と呼んで崇められ、
山岳仏教の修験場として栄えた大山信仰の中心地でした。
神仏習合の時代は大山大智明大権現といわれ、3院180坊・僧兵3000人を誇ったといいます。
この僧兵は大山衆と呼ばれ、後醍醐天皇の南朝復興に多大な貢献したと云われます。
創建は不詳ですが、奥宮は少なくとも12世紀初頭までには創建していたと考えらています。
しかし、当社の奥宮としてではなく、大山の仏徒が独自に
「大神山神(大貴己命)」を「大智明権現」として祀る祠であつたと思われます。
明治8年9月30日神仏分離により、大智明橿現より本地仏が取り除かれ、
本社御祭神大己貴命の御分霊を奉遷して、本社の奥宮と定められました。
正面に大山寺の山門が建ち、
左に折れると大神山神社 奥宮へと続く参道入口の鳥居があります。
ここから奥宮まで約700m、石畳の参道が続きます。
参道
この大神山神社 奥宮へと続く参道は全て自然石で造られており、
「日本一長い石畳の道」なのだそうです。
銅鳥居
大神山神社の3つの“日本一”
神仏習合の中で大山寺と大神山神社奥宮は勢力を拡大し、寺院僧坊が多数存在し、寺側の勢いが大きいものの祭事はすべて神職により執り行われてきました。明治初等の神仏分離令により大智明大権現の社殿を大山寺から分離し現在の大神山神社奥宮に至ります。これらの歴史を背景として大神山神社奥宮には三つの「日本一」があります。
1つ目は、大神山神社に続く道を自然石を敷きつめた参道の長さが約700mで我が国最長であること。
2つ目は、社殿が国指定の重要文化財かつ国内最大の権現造りであること。
3つ目は、奥の宮幣殿にある白檀の漆塗りが日本一規模が大きくて美しいこと。ほか西日本最大級の神輿もあります。
本坊西楽院跡
本坊西楽院跡
西楽院は慶長十年ごろより大山寺本坊となった。間口二十四間にも及び、お成り門、出家門、武家門の三門を有し壮大な建物であったが、明治八年九月三十日、大山寺寺号廃絶により建物の維持不能となり四散した。
手水舎
神門の手前には手水舎、立て札には「延命長寿・御神水・大神山神社」とあります。
大神山神社奥宮の神門は少し変わっています。
扉の向きが逆に付いているので、「後向き門」とか「逆門」とかいわれています。
神門(後向き門)
明治8年(1875)に神仏分離令により大山寺の号は廃され、
大山寺本坊西楽院の表門は大神山神社に引き渡されました。
そして現在地に移設された際、向きを変えず設置したため、
逆向きになってしまったといいます。
後ろ向き門
元大山寺本坊西楽院の表門(宮家のお成り門)であったが、明治八年寺から神社に引き渡されてこの奥宮の門に移築したが、その時そのまま移転したので後ろ向きになったと云われている。
神門をくぐり、階段の先に大神山神社 奥宮の社殿が建ちます。
この社殿は「国内最大の権現造り」で、国の重要文化財にも指定されています。
この日は残念ながら、修復工事のため目隠しがされ、
社殿の全容は見ることは出来ませんでした。
大神山神社奥宮
この壮麗な建物は大神山神社の奥宮です。
大神山とは大山の古名で、大国主命(大黒さま)が祭ってあります。社殿は文化2年(1805)の建立といわれ、神仏混淆時代の神社の特徴である権現造りという形式で、中国地方でも大きい方の神社です。
参道の途中にある神門は、門の表裏が反対になっているので「後向き門」と言われています。
いずれも国の文化財に指定されており、毎年6月初めの山開き祭はここで行われます。
国指定重要文化財
大神山神社奥宮(指定年月日 昭和63年12月19日)
本殿・幣殿・拝殿
末社下山神社本殿・幣殿・拝殿
当社は、古代、中世に修験霊場として栄えた大山寺の大智明権現社として大山信仰の中心であったが、明治の神仏分離により大神山神社奥宮となった。当地はかつて大山寺の諸堂・諸院が立ち並んでいた地域の最奥にあたり、文化2年(1805)に建てられた現在の社殿は、京都と地元の2人の大工棟梁により建てられ、同じ幅の本殿、幣殿、拝殿に長大な翼廊がとりつくのが特徴である。本殿内部は素木であるが、本殿正面の向拝や、幣殿内部の天井は、漆や金箔、花鳥絵で飾られている。左手に位置する末社、下山神社は、奥宮社殿と同時期の建築で、奥宮社殿と同様、本殿と幣・拝殿が一体化した複合社殿で、現在の奥宮社殿より古い形式を留めていると考えられている。幣殿の天井に草花の絵を描くほかは素木のままとし、本社社殿と差異をみせている。奥宮は境内の環境もよく、社殿は規模雄大な複合社殿で、意匠・技法もすぐれた江戸時代末期を代表する神社建築であり、末社もあわせて価値が高い。
県指定無形民俗文化財
大山のもひとり神事(指定年月日 平成23年11月25日)
毎年7月14日、15日に大山で行われる神事。「もひ」とは水の古語で、文字通り水を取るための神事である。14日に大神山神社奥宮で夕祭が行われた後、15日深夜1時半の派遣祭を経て大山山頂へ向かい、頂上付近の石室で神祭執行後、霊水と薬草を採取する。
江戸時代は、大山寺により写経と経筒埋納を伴う弥山禅定として行われていたが、廃仏毀釈を受けて現在の大神山神社奥宮を主体とする形に変わった。
大山山頂で霊水と薬草を採取することから大山の原初信仰を残している点、廃仏毀釈という大きな変化を受けながらも行事が続けられている点で、貴重な無形民俗文化財といえる。
大神山神社
旧国幣小社
(本社)西伯郡伯仙町尾市 山陰本線 伯耆大山駅より四粁
(奥宮)西伯郡大山町大山 山陰本線 伯耆大山口駅より四粁祭神 大己貴命
例祭 (本社)一〇月九日 (奥宮)九月二四日
神紋 二重亀甲劔花菱
本殿 (本社)大社造 二・五坪 (奥宮)権現造 二〇・五坪
境内 (本社)一八一七坪 (奥宮)一五、七一八坪
摂末社 二社
宝物 短刀一口(長船住兼光・重文) 本社及末社下山神社社殿(県文化財)
氏子 本社 二百戸
崇敬者 奥宮 三千人
神事と芸能 奥宮 古式祭(神水汲取神事)七月一四日・一五日、山開き祭(六月上旬)、スキー祭(一月上旬)、春季祭(五月二四日)
由緒沿革
大神山は延喜式神名帳に「おおみ わのやま」と訓じ小社に列している。承和四 年従五位下を授けられ斉衡三年従五位上に、 貞観九年正五位下を陞叙せられた。後当国ニ の宮と称した。初め大山の麓の地に鎮座して いたが、後現在の地に奉遷した。後醍醐天皇 船上山に後遷幸の御時、朝敵退散の御祈祷を 籠めさせられた。是より先、仏徒の修験場と なり盛に堂舎僧坊等を建て、近世僧坊四二 院、社領三千石と称した。天文二四年尼子晴 久社殿の造営をなし、天正一〇年毛利氏また 社殿を修築し一千貫の社領を寄せた。次に領 主吉川氏社領八百石、元和二年津和野藩主亀 井政矩が末社を造営、寛永九年池田光仲因伯 二国の藩主たるに及び社領を寄せ社殿の造営 をなした。明治四年五月国幣小社に列した。 国立公園大山として世に知らる。(神社本庁別表神社)
大神山神社
大山は、『出雲国風土記』に伯耆の国の「大神岳(おおかみたげ)」として出て来ます。
そして、この「大神岳」は、別に「大神山」ともいわれ、この「大神山」の「神」が省略されて、平安時代には、現在の「大山」になったといわれています。
さて、この大山は、古くから中国地方第一の高さ(1711.9m)を誇る霊峰で、その姿が雄大かつ神々しいところから、人々は「神のいます山」「神の宿る山」として崇敬してきました。そして、いつのころよりか、修験の徒が大山の中腹、海抜998mの地(大山町大山字中門院谷)に登り、修験の道場としての簡単な遙拝所を設けるようになりました。これが大神山神社のそもそもの始まりです。
修験の徒や、信仰厚い人々がここまで登って来て、間近に見える大山の頂上を直接遙拝し、大山そのものを御神体として崇(あが)めたのでした。 それが神社らしくなるのは平安時代になってからで、このころすでに大神山神社といわれていたようです。
ところが、この大神山神社は夏季にはともかく、冬季の積雪の折りには祭りを行うこともきわめて難しぐ、「麓に近い平地に冬場の神社を建てて、これを冬に奉仕する神社という意味で大神山神社の「冬宮」といい、それに対して大山中腹の大神山神社は「夏宮」と呼称しました。
そのころは神仏習合の時代で、神職のほかに別当職の社僧が神社に入って来て、同時に奉仕するという時代でした。大神山神社でも、僧侶たちは大山中腹の「夏宮」に大己貴神の本地仏として地蔵菩薩を祀って「大山権現」あるいは「大智明権現(だいちみょうごんげん)」と呼称し、その近くに数多くの寺院・仏閣を建てました。したがって、平安・鎌倉時代の大山は「三院百八十坊(寺)僧兵三千名」の一大盛況をきたしました。 そこで、大神山神社の神職たちは、それまでの岸本町丸山の「冬宮」をひき払って、福万原(現在の米子市福万)に移転しました。
ところが、福万原の「冬宮」大神山神社は、天正年間になって衰微したため、伯耆三郡の領主であつた吉川広家が大本坊の地(現在の米子尾高)に広壮な社殿を新築し、社領一千石を寄進しました。
この大本坊の「冬宮」も、広家が周防岩国へ転対後は、壮大な社殿であっただけに維持することが難しく、次第に荒廃してきました。そのとき、氏子の豪農郡八兵衛という者が不思議な夢を見て、その神夢に従って、もう一度場所を近くに替えて米子市尾高に遷宮したのが、現在の大神山神社の「冬宮」でした。承応2年(1653)のことです。
その後、明治政府は神仏分離政策をとったため、明治4年、この大神山神社は「冬宮」を本社とし、国弊小社に列せられました。次いで明治8年には、大山中腹の中門院谷に鎮座する大智明権現社から地蔵菩薩を取除き、大日堂(現在の角磐山大出寺)に移したので、今までの大智明権現社は、大己貴神を祀る大神山神社として復活し、その名も「奥宮」と名乗ることになりました。
こうして長い間、大山町大山の「夏宮」は社僧の管理する大智明権現社、数か所を点々とした「冬宮」は神職が主として奉仕する大神山神社の時代が終わり、「夏宮」「冬宮」ともに純然たる神職が奉職する大神山神社となり、このとき、「夏宮」を「奥宮」といったのに対して、本社の「冬宮」は「里宮」ともいうようになりました。
そして、この二つの大神山神社の祭事暦は、あとに記すとおりですが、たとえば長らく僧侶たちの務めていた大智明権現社の仏事「弥山禅定(みぜんぜんじょう)」は、再び神職が奉仕することになり、現在「古式祭」の「もひとりの神事」として、大神山神社の奥宮において神職・信者たちにより、毎年厳粛に執行されています。
また、大神山神社の本社では、六干坪の広大な境内に湧水を利用した小川や池を造り、色とりどりの鯉を泳がせています。
また、大神山神社の奥宮には.「日本一」が三つあります。一つは、自然石を敷きつめた参道の長さが約700mで、わが国最長であること。二つは、国の指定する重要文化財クラスで、国内最大の権現造りの社殿であること。三つは、奥宮弊殿にある白檀の漆塗りが日本一壮麗であることです。
大神山神社奥宮の概要
伯耆大山は、天平5年(733)に成立した「出雲国風土記」に火神岳(大神岳)として見え、平安時代の「続日本後記」や「日本文徳天皇実録」、「日本三代実録」にも「伯書国大山神」と記録されていることからも、大山が古代から神の宿る山として信仰されてきたことがうかがえる。
『大山寺縁起』によれば、修験の地として始まった大山の山腹に金蓮上人によって寺が建てられるようになったのは、奈良時代の頃とされる。その後、天台宗の影響を受けて天台寺院となった。また、中門院、南光院、西明院の三院が12世紀までに成立した。伯耆大山寺として、この三院を総称して呼ぶようになったのは室町時代以降のことである。各院は大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来を信仰し、三院の中心理念として地蔵菩薩が祀られた。その地蔵菩薩が大智明権現という称号を受け祀られた社が大智明権現社であり、現在の大神山神社奥宮である。
伯耆大山寺が、寺と神社に分かれるようになったのは、明治8年の神仏分離政策による大山寺号の廃絶によるもので、この時に伯耆大山寺から大神山神社へと名称が変えられることになった。明治36年には大山寺号の復興が認められたが、大智明権現社(奥宮)と下山社(下山神社)が神社名義のまま残ることになり、現在に至っている。
大神山神社奥宮は、承応2年(1653)に建立されたが、寛政8年(1796)年に火災で焼失し、文化2年(1805)に京都の大工、三輪平太によって社殿再建がなされた。壮大な権現造で、拝殿・本殿2棟の建造物を幣殿で結び、拝殿の両側に長い翼廊をつける。屋根は、総檜皮葺、入母屋造である。また、拝殿は壮大な唐破風をつけ、柱間は3つあり、中央入口の柱間は内側より広く、柱は円柱で50cm近くある。幣殿内の格天井には美しく彩色された234枚もの花鳥人物が描かれており、豪華を極めている。
大神山神社
伯耆大山は、天平5年(733年)に成立した「出雲國風土記」に火神岳(ほのかみのたけ:大神岳)として見え、平安時代の「続日本後記」や「日本文徳天皇実録」、「日本三代実録」にも「伯耆國大山神」と記録されていることからも、大山が古代から神坐す山として信仰されてきたことがうかがえます。
「大山寺縁起」によれば、修験の地として始まった大山の山腹に金蓮上人(きんれんしょうにん)によって寺が建てられるようになったのは、奈良時代の頃とされます。その後、天台宗の影響を受けて天台寺院となりました。また、中門院(ちゅうもんいん)、南光院(なんこういん)、西明院(さいみょういん)の三院が12世紀までに成立しました。伯耆大山寺として、この三院を総称して呼ぶようになったのは室町時代以降のことです。各院は大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来を信仰し、三院の中心理念として地蔵菩薩が祀られました。その地蔵菩薩が大智明権現(だいちみょうごんげん)という称号を受け祀られた社が大智明権現社であり、現在の大神山神社奥宮です。
伯耆大山寺が、寺と神社に分かれるようになったのは、明治8年の神仏分離政策による大山寺号の廃絶によるもので、この時に伯耆大山寺から大神山神社へと名称が変えられることになりました。明治36年には大山寺号の復興が認められましたが、大智明権現社(奥宮)と下山社(しもやましゃ:下山神社)が神社名義のまま残ることとなり、現在に至っています。
大神山神社奥宮は、承応2年(1653年)に建立されましたが、寛政8年(1796年)に火災で焼失し、文化2年(1805年)に京都の大工、三輪平太によって社殿再建がなされました。壮大な権現造で、拝殿・本殿二棟の建造物を幣殿で結び、拝殿の両側に長い翼廊を設け、屋根は柿葺、入母屋造です。また、拝殿は壮大な唐破風をつけ、柱間は三つあり、中央入口の柱間は内側より広く、柱は円柱で50cm近くあります。幣殿内の格天井には美しく彩色された234枚もの花鳥人物が描かれ豪華を極めており、国の重要文化財に指定されております。公式HPより
奥宮大神輿
奥宮大神輿
西日本一の大神輿
八角神輿では、西日本一の大きさといわれている。
平安時代から「大山神幸行列」が行われ、常に七基が繰り出されていた。その中でもこの神輿が最大のもの。担ぎ手が4、50人は必要。明治18年まで神幸行列が行われたがその後は行われていない。
平成14年10月、復元修理。
形式 両部神道式
高さ 3.2メートル
重さ 1トン
担ぎ棒 5.6メートル
大神山神社奥宮略由緒
主祭神 大己貴神(大国主命)
大山は太古より大己貴命が鎭り坐すお山として大神岳又は大神山と呼び此の所を神祭りの場として居ました。
奈良朝時代より修験道、更に仏教が入り神仏習合説のもと大神に大智明権現の偁名を奉り神官社僧により奉仕し平安時代には此の奥の宮を中心として三院百八十坊僧兵三千の西日本一の霊山となり以来時勢により盛衰を重ねて居ましたが明治八年神仏分離令に依り大神山神社奥宮となり元の様に純然たる神社となりました。
現在の社殿は重要文化財に指定され文化二年(一八〇五)の建築で日本最大級の権現造り、内部には彩色豊に長大な柱や長押の白檀塗は日本一と云われて居ります。
正面の社号額は明治維新政府の総裁であった有栖川宮熾仁親王の揮毫である。