比婆山(320m) 比婆山久米神社(伊邪那美命 御神陵)・島根県安来市伯太町




比婆山(320m) 比婆山久米神社(伊邪那美命 御神陵)・島根県安来市伯太町

島根県と鳥取県の県境に近い「比婆山(ひばやま)標高320m」へ

ここは古事記において、「伊邪那美命(いざなみのみこと)」の墓所の伝承地

と考えられている山の一つです。

登山口がある、島根県安来市伯太町には、「比婆山久米神社(ひばやまくめじんじゃ)」

の里宮(熊野神社)が鎮座、山頂には伊邪那美命を祭神とする久米神社奥宮と、

御神陵と伝わる古墳があります。

古くより各地の豪族の崇拝が厚く、その後尼子氏や母里藩の祈願所として栄えました。

現在も、安産の神様として多くの参拝者が訪れています。

比婆山(ひばさん)

標高 320m 登山日 2024年9月6日
比婆山久米神社奥の宮(熊野神社)・伊邪那美命 御神陵
所在地  島根県安来市伯太町横屋

難易度 ★      オススメ ★★★ 登山口(ナビ検索) 峠之内参道口
スタート地点(16:53)→比婆山(17:21)→ゴール地点(17:39) 所要時間 45分 累積標高 219m / 220m 距離 2.5km

比婆山横屋登山口 駐車場

伯太川沿いを走る、県道9号「安来伯太日南線」

伯太庁舎から約5kmほど南下すると「比婆山横屋参道入口」の案内があります。

県道の右側には、2~3台程度駐車可能な登山者駐車場が用意されています。

駐車場と宮乃前橋を渡った先に比婆山に関する案内板があります。

比婆山 由緒

比婆山は日本で一番古い歴史書「古事記」に、日本の国をつくられた女神(伊邪那美命)を葬られた場所として記されている由緒ある山です。

古事記原文
「故其所神避之伊邪那美神者葬出雲国境比婆山也」、抄訳(その神避りし伊邪那美の神は、出雲の国と伯伎の国との境の比婆山に葬りき)

標高は約300mあり、伊邪那美命を祀る御陵峰、御陵を崇拝する社祠峰、夫の伊邪那岐命をみたてた妙見峰の三つの峰からなっています。
山頂には神事に用する浄水の湧く井戸や供饌米を自給した献穀田の跡があり、久米神社が祀られています。この「久米」の語源は「コムル(隠し奉る)」の意で伊邪那美命の霊をお祀りしたと伝えられています。
月山富田城を拠点に、中国十一州を統治した尼子氏が、守護の祭神として篤く崇拝したここ比婆山には、随神門をはじめとした社殿や五坊、鐘楼など整え神仏習合一山の隆盛を極めた跡をうかがい知ることができます。
また山頂から麓にかけて、陰陽竹(島根県指定天然記念物)や玉抱石、神龍石、玄武岩柱状節理の奇勝もあります。
安来市 平成24年3月

比婆山 略記

比婆山(標高三二〇米)は古事記に「かれ神さりましし伊邪那美の神は出雲の国と伯耆の国との境なる比婆山に葬しまつりき」とあり、国生みの女神 伊邪那美命が葬られた処で、山頂には御神陵と、安産、子授け、子育ての久米神社があり遠く能義平野、大山、島根半島まで眺望でき、また珍しい玉抱石やこの山にしか自生してしていない島根県の天然記念物である陰陽竹の群生地があります。

比婆山久米神社(里宮) 熊野神社

駐車場より、伯太川に架かる宮野前橋を渡ります。

橋の先の左側には比婆山久米神社の里宮(熊野神社)が祀られており、

境内に比婆山への登山口があります。

比婆山久米神社は、ここ麓の里宮と、山頂の奥宮の2社制です。

イザナミを含む熊野三所権現を祀る神社のため、里宮は「熊野神社」とも呼ばれています。

比婆山久米神社(熊野神社)拝殿

拝殿には書置きの御朱印(里宮・奥宮)や由緒書きなどが置かれていました。

比婆山久米神社(熊野神社)本殿

【由緒】

天平5年(733)2月30日「久米社」『出雲国風土記』
天文3年(1534)火災焼失
永禄年間(1558-70)兵火全山灰燼
寛文13年(1673)比婆山山麓に社殿を遷
正徳3年(1713)元の比婆山山頂へ奥宮を再建
明治4年熊野神社と称

下宮(里宮)
昭和13年火災全焼
昭和19年再建

比婆山は日本で一番古い歴史書「古事記」に、日本の国をつくられた女神(伊邪那美命)を葬られた場所として記されている由緒ある山です。

古事記原文
「故其所神避之伊邪那美神者葬出雲国境比婆山也」、抄訳(その神避りし伊邪那美の神は、出雲の国と伯伎の国との境の比婆山に葬りき)

標高は約300mあり、伊邪那美命を祀る御陵峰、御陵を崇拝する社祠峰、夫の伊邪那岐命をみたてた妙見峰の三つの峰からなっています。
山頂には神事に用する浄水の湧く井戸や供饌米を自給した献穀田の跡があり、久米神社が祀られています。この「久米」の語源は「コムル(隠し奉る)」の意で伊邪那美命の霊をお祀りしたと伝えられています。
月山富田城を拠点に、中国十一州を統治した尼子氏が、守護の祭神として篤く崇拝したここ比婆山には、随神門をはじめとした社殿や五坊、鐘楼など整え神仏習合一山の隆盛を極めた跡をうかがい知ることができます。
また山頂から麓にかけて、陰陽竹(島根県指定天然記念物)や玉抱石、神龍石、玄武岩柱状節理の奇勝もあります。

比婆山登山口

境内の向かって左側に比婆山登山口の案内があります。

案内板には山頂まで1050mと書かれています。

登山道

伯太川沿いに整備された道が続き、すぐに大きな溝の登山道となります。

「霊社さん」の案内を過ぎると、鎖が掛けられた岩場に変わります。

岩場が過ぎると、「山頂まで700m」の案内板、さらにその先に「山日社」の案内があり、

右上に続く階段を登ると広場のような展望地に出ます。

広場の中央には、上半分が折れた五角形の塔が置かれています。

展望地から先、「玉抱石」の案内板に従い、主路を外れる少し下ります。

霊石「玉抱石」

山頂直下には火山活動により小さな穴が空いた玉抱石と呼ばれる石が複数あります。

石に触れてからイザナミ御陵へお参りをすると、

子宝と安産の御利益を受けられると伝わるそうです。

玉抱石から主路へ戻り、少し登ると鳥居があります。

この辺りは、元の本社があった「社祠峰」と呼ばれるピークです。

社祠峰

比婆山は現在とは地磁気が反転していた時代とされる「松山逆磁極期(70万~240万年前)」

の火山活動によって形成された玄武岩を主とした山であり、

一帯の強い磁場によってこの辺りでは方位磁石がでたらめな方位を示すそうです。

天然記念物

陰陽竹(いんようちく)

陰陽竹はここにしか繁殖していない珍しい竹で、男竹に女性的なササがついているため「陰陽竹」と名付けられた。今まで学会で竹の茎とササの葉の結合体を説明する決定論が出ず、四回学名が変わったが、昭和四十六年夏、花が咲き、学名を研究してきた丸山巌氏・岡村はた氏によって業平竹とササ両属の雑種で、進化の中間過程にある「雑種起源」として「ヒバノバンブーサ・トランキランス・マルヤマ・オカムラ」と命名された。学問上貴重な竹であり、保護しないと絶滅のおそれがあるとして今は県の天然記念物に指定されている。

勝手に持ち帰る事は禁止されている。

社祠峰から、緩やかに下ると「陰陽竹」や「比婆山」に関する案内板、

再び登った先が比婆山の山頂にあたり、久米神社の奥宮が鎮座します。

比婆山(320m) 

案内板によると御陵峰とも呼ばれているそうです。

広い山頂には比婆山久米神社(奥宮)の社殿が建ち、

御本殿の背後にある古墳が、伊邪那美大神の御神陵とされています。

比婆山久米神社(奥宮)

比婆山久米神社(奥宮)拝殿

比婆山久米神社(奥の宮)(式内 久米神社)

概 要

社号 熊野神社 比婆山久米神社
式内社 出雲国意宇郡 久米神社(延喜式神名帳)
出雲風土記には久米神社・熊野神社とも記されている。
江戸時代は「熊野神社」と称していた。
地元の人は下の宮に対して上の宮という。
鳥居扁額には「比婆山大宮」と記されている。

所在地 島根県安来市伯太町横屋486
久米神社奥の宮 安来市伯太町横屋字比婆山611-1
旧地名 出雲国意宇郡
御祭神
伊邪那美之尊(いざなみのみこと)
例祭日 伊邪那美祭(5月6日)

社格等

『延喜式神名帳』(式内社)
出雲国:大2座・小185座
意宇郡(オウ):48座(大1・小47)

『出雲国風土記』「久米社」

近代社格制度

創建
本殿様式    流造 妻入り 曽木葺
鳥居      両部鳥居(主柱を4本の稚児柱で支える)

比婆山久米神社 祭神

祭神伊邪那美之尊は子授かり・安産の守護神として、参拝者が多い。 参拝にはかなり困難な、1kmほどの坂道である。ここを辿る妊婦が「苦しい」「辛い」などの語を発すると、難産すると言い伝えられ、身重なる婦人は、殊更に平気を装って参詣するので習わしである。 御陵峰はかつては禁足地として入山することができなかった。そのため社詞峰か、比婆山と対峙する山の上の台から遥拝していたと言い伝えられている。 Wikipediaより

比婆山久米神社(奥宮)本殿

伊邪那美大神 御神陵

比婆山久米神社 歴史

古事記において「かれその神避りし伊弉那美の神は、出雲の国と伯伎の国(伯耆の国)の堺、比婆の山に葬りき」と記されている通り、国生みの母神は現在の島根県安来市伯太町横屋にある比婆山の山頂に埋葬され、現在も御神陵と言い伝えられる古い塚がある。

現在は、山頂に奥ノ宮、山麓に下ノ宮の社殿が建てられている。雲伯国境、山陽への要路に位置する要害の地であり、多くの受難の歴史に耐えた山でもある。

奥宮

天平5年(733年) 2月30日「久米社」『出雲国風土記』

天文3年(1534年) 火災にて焼失

永禄年間(1558年~1570年) 兵火全山灰燼

寛文13年(1673年) 比婆山山麓に社殿を遷す

寛文13年(1673年) 比婆山山麓に社殿を遷す

正徳3年(1713年) 元の比婆山山頂へ奥宮を再建する

明治4年(1871年) 熊野神社と名称を変更

下宮

昭和13年(1938年) 火災全焼

昭和19年(1944年) 再建

比婆山久米神社 施設

社殿の後方に、高さ一丈五尺、幅六間四方の封土があって、内廟は石瑞垣を環らし、外廟は木柵が設けてある。柵内は松樹森々として繁茂している。戦国時代の尼子経久は比婆山の崇敬が殊に厚く、冨田より道路を通じ、比婆山に奉行を置いて統括、山嶺に本社三殿及び四間華衣、鐘楼、仁王門を造営し、神領として日次、横屋、峠の内より十数丁歩の土地を附し、神主一人、神官二人、社家五人を置き二社一寺五坊を手厚く保護していた。信仰の山であると同時に冨田城の兵站基地としても重要視していた。尼子氏最盛期の尼子経久は、馬に乗ってこの道を通り参詣したと伝えられている。又、尼子時代末期冨田城籠城の際は、武器兵糧などの輸送に重要な役割を果たしたと伝えられている。しかし、戦乱の兵火により全て荒發に帰した。江戸時代に入り、寛文四年、松平氏が支封を母里に置くや、社領米を附し、社殿を造営し、寛文十三年、社殿を山麓に移した。その後再び山上に社殿を建立して、今日に及んでいる。

Wikipediaより

伊邪那美大神 御神陵

比婆山久米神社(里宮) 熊野神社 御朱印

比婆山久米神社(奥宮) 御朱印

  • このエントリーをはてなブックマークに追加