尾張国一宮 真清田神社・愛知県一宮市真清田

愛知県一宮市真清田に鎮座する「真清田神社(ますみだじんじゃ)」です。
「尾張国一宮」「式内社(名神大社)」、旧社格は国幣中社で、
現在は神社本庁の別表神社、御祭神は「天火明命」を祀ります。
かつては「真清田大明神」「一宮真清田大神」 「一宮大明神」等、呼ばれていましたが、
明治に現在の社名「真清田神社」に統一されました。
御祭神は元々ははっきりせず「国常立尊」・「大己貴命」など諸説ありましたが、
室町時代末頃に記された「真清田神社縁起(古縁起)」より、
「天火明命」とされています。
大鳥居・社号標
昭和4年7月、旧社号標の倒壊により翌年8月篤志家により奉納再建されました。
社号標の揮毫者は大島君川、名古屋に生まれ、
県官吏として長く務め書家として県内の碑文揮毫を多く手掛けました。
由緒書き
真清田神社の社伝によると、神武天皇33年(紀元前628年)、
大和国の葛城地方から来た天火明命を当地で祀ったのを創始としています。
史書の上では、847年が初出で「真清田天神」として登場して神階が叙された。
その後もたびたび社格を高め、多くの社領を得て、
927年の『延喜式』では名神大社に列しています。
1165年の文献では、神階格式の高い熱田神宮をさしおいて、
「尾張国一宮」とされていることが確認できます。
しかし1584年、大地震があって社殿が崩壊した上、豊臣秀吉に社領を没収され、
勢いがおとろえたといいます。
江戸時代には徳川幕府から庇護を受けて復興を果たします。
尾張藩主の松平忠吉や徳川義直に社領の寄進を受け、
1665年には 4代将軍徳川家綱から朱印状がくだされました。
太平洋戦争時の1945年、一宮空襲で社殿が焼失し、
現在の境内は1951年から57年にかけて再建されたものです。
空襲で建物は大きな被害を受けましたが、多くの宝物が現存し、
鎌倉~南北朝時代に彫られた木造舞楽面12面、
室町時代の朱漆の角切盤などが国の重要文化財に指定されています。

楼門
楼門は真清田神社の戦後復興の第二の鋳造事業として、昭和32年より計画され、
氏子崇敬者の奉賛により、昭和36年に11月に竣工しました。
楼上南側に掲げる扁額は、伝聖武天皇ご宸筆の旧額を模して
人間国宝平櫛田中氏が彫刻を施した。
境内
拝殿
御本殿と拝殿は昭和32年10月に竣工、同年11月1日に本殿遷座祭が斎行されました。
ご用材は名古屋営林局より払い下げの木曽檜が充てられています。
御本殿内陣中陣の御扉や柱桁などは、伊勢の神宮から下賜された古材が使用されています。

真清田神社
社名・祭神・歴史
真清田(ますみだ)という社名は太古の御世、当地において木曽川の清く澄んだ水による水田地帯が形成されていたことに由来しています。
祭神は伊勢の神宮におまつりされている天照大御神の御孫である天火明命(アメノホアカリノミコト)。摂社・服織神社の祭神・萬幡豊秋津師比売命(ヨロズハタトヨアキツシヒメノミコト)は天火明命の御母神で伊勢の内宮御正宮に相殿の神としておまつりされています。天火明命は尾張地方の開拓に力を尽くされた尾張氏の祖先神として、その御神徳は木曽の水流のごとく清らかにあまねく澄みわたり、当地の今日の隆昌を招かれた貴い神様であります。
当社は平安時代に国から大社と認められ、尾張国随一の鎮守様として地域住民から厚い崇敬を集め、尾張国一宮としてゆるぎない社格を誇るようになりました。
初代尾張藩主・徳川義直は寛永8(1631)年に社殿の大修復を行い、4代藩主・吉通は元禄15年(1702)に本殿を修造、宝永4(1707)年に楼門を再建。延享4(1747)年に8代・宗勝が、また寛政4(1792)年に9代・宗睦がそれぞれ本殿の修造を行うなど、時の為政者が当社に寄せた並々ならぬ信心がうかがえます。
昭和7年(1932)に大規模な社殿修理、境内整備が施されたもののl昭和20年(1945)7月28日夜の空襲によってごくわずかな建物を除いて焼失してしまいました。
戦後、昭和26年に造営奉賛会が結成され、6ヵ年の歳月を要して約300坪の本殿以下拝殿と145坪の社務所が完成。昭和32年11月1日に本殿遷座が斎行され、昭和36年11月に楼門、東神門、東手水舎、鳥居が、昭和43年には神楽殿、斎館、昭和59年には参集殿、平成元年には宝物館が竣工し、今日に至っております。
これらの復興造営事業はすべて巨額の浄財によって賄われました。
「一宮市」の名称は当社が尾張国一宮であることに由来しており、全国で「一宮」の名称を冠する自治体は一市六町に及びますが市制が施行されているのは当社が鎮座する一宮市のみであります。

真清田神社の歴史
当社の鎮座は、社伝によれば神武天皇33年。
当社は、平安時代、国家から国幣の名神大社と認められ、神階は正四位上に叙せられ、尾張国の一宮として、国司を始め人々の崇敬を集めました。鎌倉時代には、順徳天皇は当社を崇敬され、多数の舞楽面をご奉納になりました。
その舞楽面は、現在も、重要文化財として当社に保存されています。江戸時代には、徳川幕府は神領として、朱印領333石を奉りました。また、尾張藩主徳川義直は、寛永8年(1631)当社の大修理を行う等、崇敬を篤くしました。
明治18年には国幣小社、大正3年に国幣中社に列し、皇室国家から厚待遇を受けました。戦後は、一宮市の氏神として、一宮市民はもちろん、尾張全体及び近隣からも厚い信仰心を寄せられ今日に至っています。 尚「一宮市」の名称も当社が尾張国一宮であることに由来しており、全国で「一宮」の名称を冠する自治体は1市6町に及びますが、市制のひかれている自治体は当社の鎮まります一宮市のみとなります。 H.Pより

吐水龍の記
尾張国一之宮に鎮り座す真清国の大神は、濃尾平野開拓の祖神であり、庶民産衆の守護神であります。
古来旱天、驟雨には、毎時熱烈なる祈雨祈晴の祈願が籠められ霊験あらたかな宮として諸人渇仰の的であった。「臥雲日件録」によれば、畏くも醍醐天皇は、その御宇大旱に際し、弘法大師をして雨乞の祈祷をなさしめられ、大師は龍神に祈って大雨を得たが、この龍神は真清田神社の森林中に鎮つたと伝え「塩尻」には大龍命、姫龍命を配祀すると記し、「真清深桃集」には尊神鎖座のとき八頭八尾の大龍に乗りたまふと見え、「一宮伝記」には下馬橋辺に於て夜毎龍灯が顕れたことを記された等、当社の境内に龍神がましますという信仰は、古くから広く民衆の間に語り継がれている。寛永8年(1631)尾張藩祖徳川義直社殿(源敬公)は、当社の社殿を悉く修造せられ、祈雨祈晴の龍神の象徴として、古代の名作青銅の吐水龍を奉納し、永く五毅豊穣、天下泰平を祈祷せられた。
以来歴代の藩主は、当社を尊信すること厚く屡々晴雨の祈祷を籠められた。藩祖奉納の吐水龍は、現に手水舎□□の上に厳めしい顔を掲げ、日夜滾々として清冽の麗水を吐いて賽□の身魂を清めている。

真清田神社
天 火 明 命 (御本社)
三 明 神 社 (別宮)
愛知県一宮市真清田1丁目2番1号
御本社 4月3日(桃花祭)
別 宮 3月24日(御本社荒魂奉齋)境内は一宮市の中心、本通りの正面目抜きにあり、一宮市が、神社を中心として発達した町であることが分かります。 面積は約30,090平米(約9,119坪)あり。その周囲には古来、土塀をめぐらしていました。その辺りを馬道具の飾立場とすると共に出店を設け、門前市も盛大に開かれていました。
古い御社殿は特有の尾張造りの形式を備えた神社でしたが、昭和20年戦災で焼失。その後、昭和32年に本殿以下諸社殿、同36年に楼門が再興されました。現在は、正面参道の楼門を入って正面に拝殿(切妻造)、祭文殿(切妻造)、渡殿(切妻造)、本殿(流造)を、連接した新しい真清田造りの華麗雄大な御社殿です。
昭和40年、御本殿向かって右に摂社として、服織神社が造営され、真清田の御神徳を象徴しています。又末社としては、境内に神明社、天神社、犬飼社、愛鷹社、愛宕社、厳島社、八龍神社、秋葉社、須佐之男社、稲荷社、三八稲荷社、神水舎井館(彌都波能賣大神齋)等があります。
御本殿の向かって左には社務所、その北には昭和43年秋に竣功した神楽殿並斎館があり、諸祭事、諸儀式が行われています。
平成5年には境内裏山に別宮三明神社を御造営し、荒魂を御奉齋しています。
当社の鎮座する一宮市は、古くは木曽川の流域に沿っていました。流域は常に文化の形成に大きな役割を果たします。一宮の発展にも、木曽川の恩恵があります。今でこそ、繊維の街として有名ですが、もともとこの地域は、木曽川の灌漑用水による水田地帯として、清く澄んだ水によって水田を形成していたため、真清田(ますみだ)と名付けられたといわれています。
当社の鎮座は、社伝によれば神武天皇33年。古代悠遠の当国の開拓と日を同じくするものと伝わっています。文化は古来、大河の流域に発達するといいますが、尾張国一宮の文化も、木曽川の流域とその開拓によって開けたものです。
当社は、平安時代、国家から国幣の名神大社と認められ、神階は正四位上に叙せられ、尾張国の一宮として、国司を始め人々の崇敬を集めました。鎌倉時代には、順徳天皇は当社を崇敬され、多数の舞楽面をご奉納になりました。その舞楽面は、現在も、重要文化財として当社に保存されています。
江戸時代には、徳川幕府は神領として、朱印領333石を奉りました。また、尾張藩主徳川義直は、寛永8年(1631)当社の大修理を行う等、崇敬を篤くしました。明治18年には国幣小社、大正3年に国幣中社に列し、皇室国家から厚待遇を受けました。戦後は、一宮市の氏神として、一宮市民はもちろん、尾張全体及び近隣からも厚い信仰心を寄せられ今日に至っています。
尚「一宮市」の名称も当社が尾張国一宮であることに由来しており、全国で「一宮」の名称を冠する自治体は1市6町に及びますが市制のひかれている自治体は当社の鎮まります一宮市だけです。宝物館
当社に古来、神宝として保存されている文化財の数は、数百点の多きに達し、幸いにも先の戦災に難を免れ、貴重な史料として神社の歴史を物語っています。その代表的なものを次に掲げます。
色付の文字の行事はクリックすると詳しい内容がご覧になれます。指定別 名称 個数 種別 内訳
国重文 舞楽面 12面 彫刻 陵王1、納曽利1、崑崙八仙3、抜頭1、二ノ舞2、遷城楽1、童舞2、貴徳1
承元5年(1211)の調進、その内2面(崑崙八仙)は、延文5年(1360)の調進にかかるものです。いずれも鎌倉時代及び南北朝時代の優秀なものです。
御膳台盤 20枚 工芸 朱漆切角盤8枚、朱漆入角盤、根来(ねごろ)塗 長禄元年(1457)調進。
銅碗・銅皿 22枚 工芸 天正2年(1574)調進。
朱漆擎子 5枚 工芸 長禄元年(1457)調進。
県文 獅子頭 1面 工芸 文明3年(1471)調進。
舞楽面 7面 彫刻 納曽利3、散手2、崑崙八仙1、抜頭1
市文 金銀釣灯龍 2基 工芸 永正15年(1518)作。
能面 3面 彫刻 翁1、尉2
宗教面 3面 彫刻 鬼1、女神1、鬼神1
真清探桃集 8巻6冊 書跡 享保18年(1733)佐分清円作。
銅鈴 1口 工芸 建暦元年(1211)調進。
神頭矢 1手 民俗資料 永正7年(1510)銘。
真清田神社
本殿出土鎮物 1括 考古資料 平安時代及び室町時代の作。
紙本著色
真清田神社古絵図 1幅 絵図 承応2年(1653)修補銘。
聖武天皇勅額 1面 額 [真清田大神]の5字。
菊紋散双鶴鏡 1面 工芸 享禄2年(1529)銘。
享徳勧進牒 享徳4年(1455)勧進聖「増真」著
八稜素紋鏡 1面 工芸 文明12年(1480)銘。
狛犬 1体 工芸 建長6年(1254)銘。
古縁起 2巻 書跡 応永年中正徹作と伝える。
制礼 4枚 永正13年(1516) 足利義植
慶長16年(1611) 法慶
寛永8年(1631) 徳川義直
承応2年(1653) 徳川光友
北白川房子 歌碑
右に見えるのは、北白川房子の歌碑
昭和47年4月斎行の御鎮座2600年記念大祭に際し賜った御歌で、
翌年4月25日歌碑として拝殿横に建立されました。
社務所
お守り・御朱印等は授与所にて(受付時間 9時~16時)
昭和32年9月、第1期造営事業として御本殿とともに竣工されました。
神水舎
神水舎では龍の吐水龍から霊水をいただけます。
左側に霊水、中央には無病息災を祈る井戸、そして右側にはおもかる石があります。
明治天皇が真清田神社に来られた際、この井戸水を御膳水として奉られたそうです。
服織神社
服織神社の御祭神は「萬幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)」
別名を「栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)」ともいい、
天火明命(本宮主祭神)の母神にあたります。

一宮市が織物産業で栄えたことから、
昭和40年(1965年)に織物の神社として創建されました。
7月第4日曜前後の5日間の織物感謝祭は、昭和31年(1956年)に始まるもので、
現在は「一宮七夕まつり」として知られています。
例祭:11月2日、月次祭:毎月15日

真清田神社では祈祷を執り行っていただけます。
安産・命名・初宮詣・七五三詣・家内安全・厄除・災難除など。
事前の予約は不要で、授与所にての受付となります。(毎日 9:00~16:00)
また祈祷料は願意によって異なり、6,000円~となります。
神池
神池の中心には「厳島社」と「八龍神社」
神池は神社の宝物「真清田神社参詣曼茶羅」(安土桃山~江戸初期)にも描かれています。
厳島社・八龍神社
厳島社は境内南東の神池に鎮座。御祭神は市杵島姫神。
一宮七夕まつり期間中7月最終金曜日に提灯祭りが斎行される。
八龍神社は元々、厳島社内に奉祀されていましたが、
明治初年神仏分離の際御神体の龍神石が名古屋の日泰寺に流出、
近年当社に還り改めて奉祀されました。
三末社
三末社は「愛鷹社」・「天神社」・「犬飼社」を奉祀。
昭和32年8月社務所南側から現在地に遷座されました。
御朱印
真清田神社
H.P http://www.masumida.or.jp/
所在地 〒491-0043 真清田1丁目2-1
営業時間 9:00~16:00(社務所)
定休日 無休
料金 参拝無料(ご祈祷は有料)
駐車場 専用駐車場有り
神社西より入場 ・御祈祷など神社に御用の方は受付でその旨お申し出下さい。
普通車: 1時間100円 80台 バス: 2,000円 5台

