浜松城 (作左山) 42.2m 濱松城・静岡県浜松市
徳川家康が17年間在城し、歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したことから
「出世城」とも呼ばれている「浜松城 (濱松城)」へ
浜松城の前進は、現在浜松城公園のある場所から国道152号線を挟んで向かいにある
浜松市元城町東照宮「曳馬城(引馬城、引間城)」になります。
1570年、徳川家康が曳馬城に入城し、引く馬は縁起が悪いと浜松(濱松)に改名します。
浜松城は、明治の廃城令により、ほとんどの建物が取り壊されましたが、
天守台と本丸の石垣が築城時のままに残っています。
浜松城は野戦の拠点として想定されたため築城が急ぎ行われ、
石垣を築くのも突貫工事で進められました。
そのため、採石時の形のままの粗削りな岩を積み上げた「野面積(のづらづみ)」
となっており、荒々しい迫力に溢れています。
また、浜松城公園の西北の小高地は「作左山(さくざやま)」と呼ばれていたそうで、
現在も「作左の森」の名所が残っています。
訪れた日は、NHKの大河ドラマ「どうする家康」の浜松 大河ドラマ館が開設されており
多くの人で賑わっていました。
どうする家康 浜松 大河ドラマ館
浜松城
住所 〒430-0946 静岡県浜松市中区元城町100-2
交通案内 JR浜松駅から車で約5分
バス停 「市役所南」(遠鉄バス)から徒歩6分
駐車場 浜松城公園駐車場が有り
浜松城 本丸北東隅石垣
上部が失われて下部は地中に埋もれていたため、
令和2年の調査で発見されるまで絵図から存在を確認するのみでした。
浜松出世パークから ホテルコンコルド浜松
引間城・元城町東照宮
この看板の先(北東)にある林の中には、元城町東照宮が鎮座する。 元城町東照宮とその周辺は、浜松城の前身である引間城があり、江戸時代の浜松城の絵図では4つの曲輪が連なり、古城と記載された部分にあたる。引間城築城時の城主は明らかでないが、16世紀前半には今川氏の家臣・飯尾氏が入城した。徳川家康による浜松城築城により、引間城は浜松城の一部に取り込まれた。各曲輪の間にみられる曲輪より一段低い道路は、かっての堀を利用したものであり、引間城や古城の構造をうかがい知ることができる。
瓦集積
二の丸やその周辺からは、浜松城内の建物の屋根に葺かれた瓦が集められた状態で出士した。瓦集積から発見された瓦はいずれも破損しており、まとめて廃棄されたものとみられる。出土瓦には、歴代城主の家紋などの紋様があしらわれた軒瓦や鬼瓦もみられる。瓦集積から出士した瓦の特徴から、二の丸を中心とした地域では、江戸時代以降に瓦葺きの建物が多く建てられ、歴代城主により維持・改築されたことがうかがえる。 ※この瓦集積は、令和4年(2022)、復興天守に暮かれた瓦のうち、破損し交換したものを使用し、模擬的に表現した。
浜松城
浜松城は徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(1570)、家康27歳の年の6月に入城し、17年間在城しました。 家康の後の城主は代々譜代の大名が勤め、在城中に老中まで栄進した人が多い。 中でも水野越前守忠邦の名はよく知られています。 城主の多くが幕府の要職に就いたことから「出世城」と呼ばれています。 石垣は野面積みと呼ばれる堅固な作りで、古い石垣の特徴をよくのこしており、浜松市の史跡に指定されています。
野面積の石垣
家康が築いた時代の浜松城は土の城でした。
その後、秀吉の家臣堀尾吉晴が高石垣、瓦葺きの櫓や城門、そして天守を建築しました。
再建された天守閣へは 大人 ¥200-で入館できます。
搦手門と埋門
この看板がある通路は搦手筋と言う。
浜松城の天守曲輪には、2つの城内通路がある。一つは天守門を通る大手筋(表の道)、もう一つは埋門を通る搦手筋(裏の道)である。
大手筋は、一般的に城主や客人用の通路として使われていたため、大手筋の門は立派な造りとなることが多い。
一方で、搦手筋は、日常管理や有事の際の脱出経路として使われていたため、搦手筋の門は小型で目立たない造りとなることが多い。
この坂の上の石垣が途切れた部分には、埋門が作られていた。
埋門とは、石垣の間に埋まるような構造をした門のことである。
門の幅は石垣の切れ間の幅から、約4mほどであったと推定される。
この絵図からは、天守曲輪の外周部を巡る土塀が、埋門の上部でも連続して覆われている様子がわかる。
徳川家康在城期
元亀元年(1570)、徳川家康は岡崎城から引間城に拠点を移し、拡張工事を行った後「浜松城」と改名した。その際、引間城は新城の中に組み込まれる形となった。天正14年(1586)に駿府城へ移るまで浜松城が家康の本拠だった。家康が築いた頃の浜松城は、その後に城主となった豊臣家臣の堀尾吉晴による改修工事でその大部分が地下に埋もれているが、曲輪の位置や大きさには変わりがなかったとされる。家康時代にはまだ石垣や天守はなく、土塁に囲まれた曲輪に板葺きの屋根が建てられていたと想定される。
堀尾吉晴在城期
天正18年(1590)、徳川家康は豊臣秀吉の命令で江戸に移り、家康の旧領には秀吉家臣の大名らが配置された。岡崎城に田中吉政、駿府城に中村一氏、掛川城に山内一豊、そして浜松城に堀尾吉晴が入った。吉晴は浜松城に高い石垣を築き、瓦葺きの櫓や城門、そして天守を建築した。天守や門の位置から浜松城は東を正面にして整備されたとみられる。現在の天守は三重三階だが、吉晴が建築した天守は四重五階、地下一階であったと想定され、天守正面と背後に付櫓を設けた複合式天守と考えられる。
新たに発見された櫓跡
2018年(平成30年)の発掘調査で、天守曲輪南東角の石塁幅が広く、階段が付属していることが判明した。また、その近くには大量の瓦が廃棄されていた。 出土した瓦の製作技法や文様などの特徴は、堀尾氏在城期(1590-1600)のものと考えられる。これにより天守と同じ時期に、天守曲輪の南東角に瓦葺きの櫓が存在していた可能性が高まった。 一方、江戸時代の絵図にはこの部分に愛物が描かれていない。天守曲輪南東の櫓は、江戸時代の早い段階には失われていたと推測できる。豊臣家臣の堀尾氏によって浜松城の最高所に設けられた天守や櫓などの建物が同時期に失われたことは、豊臣政権から幕藩体制へと変化した時代を象徴する出来事のひとつといえる。
天守門
浜松城の第二代城主、堀尾吉晴は城の中枢である天守曲輪に天守を建築したと言われているが、この天守は古図などの資料から、江戸初期には喪失されていたと考えられる。天守曲輪入口の天守門は幕末まで維持されたが、明治6年(1873)には解体され、払い下げられた。「安政元年(1854)浜松城絵図」には安政地震による浜松城の被害状況が示されており、天守門でも櫓の壁が一部潰れたものの、深刻な被害を免れた事が記載されている。 絵図には天守曲輪の外周を土塀が囲んでいる様子も描かれている。天守門のように櫓が両側の石垣上にのびる渡櫓は、石垣を多様した西日本の城に多く見られる。天守門(復元)の概要は次の通り
1.構造:木造・櫓門・入母屋造り、本瓦葺き
2. 建築面積:78.01m2延床面積 56.74 m2
3.門部:正面柱間4.09m、冠木(正面梁)上端高4.12m
4.櫓部:桁行10.91m (36尺)、梁間5.00m (16.5尺)
5.高さ:10:28m(門下から櫓屋根の大棟上まで)
6.土塀:木造塀瓦葺き 門の両側約9cmずつ
本丸
天守閣が城の象徴なら、本丸は城の本拠地である。普通の城は天守閣を取り囲むように本丸が配置されているが、浜松城の場合は天守閣の東、約17m下に作られた。周囲を石垣で囲み、南に正門である鉄門があった。北には富士見櫓、南東の隅に二層の菱櫓(ひしやぐら)を置いた。本丸内の建物についての詳しいことはわかっていない。
浜松城の石垣(野面積み)
浜松城の石垣は見るからに荒々しく、外観は粗雑で一見崩れやすそうに思えますが、四百年の風雪に耐え、今なお当時の面影を残している重要な遺構であり、史跡浜松城跡の中で文化財として価値の高い部分です。 この石垣は、基本的には野面石(自然のあるがままの石)を使い、接合部(合端)をほとんど加工しないで積む野面積みという方式です。慶長(1596~1615年)以前はこの方法が多く用いられていたと言われています。各段の積み方は、布積(ぬのづみ)と呼ばれる、石材を一段ずつ横に並べて据えながら積み上げ、布の横糸が通ったように積む技法が採用されています。しかし、石材があまりにも荒々しくて不揃いなことから、横の通りが乱れた部分が多くあり、布積崩し(ぬのづみくずし)と呼ばれることもあります。 不整形な石を積むとはいえ、原則的には石の大きな面を表にし、小さな面を内にして積みます。隙間に背後から飼石(かいいし)を入れて、石が動かないように固定します。背後(内側)には多量の栗石(ぐりいし)を詰めて強化します。栗石は約1~1.5メートルほど詰めてあり、さらに砂利を入れてあるので水はけも良く、水圧で崩れることはありません。 石垣を正面から見ると、石と石の隙間に小さな石が詰めてあります。これを間石(あいいし)と呼びます。この石は、石垣を成形する効果だけで、石垣を強化する効果は持っていません。間石が抜け落ちる程度の方が石垣は頑丈だと言えます。 浜松城は、特に天守台と天守門付近の石垣が堅く、石も大きなものが使われています。また、突角部には長方形の石材を、小口(こぐち)と側面が交互になるように配した算木積み法を用いています。石垣の斜面は直線的で、57度〜78度の傾斜をしています。 石垣に用いた石材は珪岩(けいがん)と呼ばれる石がほとんどで、そのほか石灰岩(せっかいがん)、結晶片岩(けっしょうへんがん)などが見られます。珪岩は浜名湖北岸の山々で見られ、現在の庄内地区の大草山(おおくさやま)や根本山(ねもとやま)、対岸の湖西市知波田(ちばた)付近で切り出され、佐鳴湖東岸まで船によって運ばれ、そして、浜松城まで運ばれたと推定されます。 この石垣がいつの時代に築かれたかについては正確な資料がないのでわかりませんが、浜松城二代目城主堀尾吉晴の頃(1590年頃)という説が有力です。
浜松城跡
浜松城は徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(1570年)6月に入場し、17年間在城した。東西600メートル、南北650メートルの規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三之丸、二之丸、本丸、天守台と連なり、順次高さを増す。ここは、その天守曲輪の跡である。家康の後、城主は代々普代の大名が勤め、在城中に老中まで栄進した人が多い。中でも水野越前守忠邦の名はよく知られている。石垣は野づら積みと呼ばれる堅固な作りで、古い石垣の特徴をよく残しており、浜松市の史跡に指定されている。
美しい石垣
廃城時の浜松城
慶長5年(1600)、関ケ原の戦いで徳川家康が率いた東軍が勝利し、浜松城をはじめ東海道の要所には徳川譜代の大名が配置された。浜松城は譜代大名が治める浜松藩の拠点として、建物の整理・拡張が行われた。・・・明治5年(1872)から同6年に、浜松城に存在した建物や土地の払い下げが行われ、建造物はこの時にすべてが失われることになる。
稲荷社
神社の先、八幡台と呼ばれる城の一番高い所には
二等三角点(浜松)42.17mがあります。 (立入禁止、城内から見る事は出来ます)
八幡台
ここは天守台の北西にあたり、五段の石垣により天守台より高い。面積はおよそ40㎡(12坪)あり、浜松城のなかで最も高い所である。城を守る神社(多分八幡大菩薩)をお祀りした所だといわれる。八幡大菩薩は武士の守り神として信仰された。
富士見櫓
富士見櫓
浜松城本丸北側に存在した富士山を望む櫓
富士見櫓は、江戸時代に描かれた浜松城の絵図や明治時代初めの浜松城払下げ時の資料に記録が残る本丸北側の櫓台上に建てられた櫓である。 2008・2009年(平成20・21年)の発掘調査では、櫓(北面)の3つの礎石が見つかり、その北側には玉石が敷かれていたことが明らかになった。 富士見櫓は、京間(1.97メートル)を用いた御殿風の建物とみられ、名称のとおり、富士山への眺望を意識して建てられたと考えられる。 富士見櫓の建築時期は明らかではないが、桔梗紋の家紋瓦が多く出土しており、太田氏が城主だった17世紀後半には既に存在していたとみられる。
二の丸
本丸の東に位置して、土地も一段と低い。ここは城主の家と浜松藩の政治を行う政庁があり、江戸時代を通じて藩の政治の中心であった。広さはおよそ1500坪。主な建物は、表御殿(藩の政治を行う場所)と奥御殿(城主の家)であり、多くの部屋があった。
浜松城二の丸跡
「二の丸」は「本丸」の東側に位置し土地も一段低く、広さがおよそ4950平方メートル(約1500坪)で城主の居館がありました。また、政庁も設けられて江戸時代を通じて藩政の中心でした。 「二の丸」の主な建物は「表御殿」と「奥御殿」からなっていて、「表御殿」には藩の行政機関が置かれ、およそ1650平方メートル(約500坪)ありました。唐破風の玄関の奥に広間と使者の間、正面奥に近習・年寄詰め所・祐筆所と並び、その左側に藩主が執政に使う上段の間と書院、右側には御用所・勘定所・勝手などの部屋がありました。 「奥御殿」はおよそ330平方メートル(約100坪)で、左側が藩主の居間、右側が湯殿、小姓詰め所など計15の部屋がありました。両御殿とも、生活と執務に便利なように細かく部屋割りがされていました。 また、二の丸の北の広場には米蔵があって、御城米蔵とか八千蔵と呼ばれていました。西側には二代将軍徳川秀忠の誕生屋敷ということで、享保元(1716)年の絵図には誕生の松が描かれています。 現在、二の丸跡地は浜松市役所・浜松市立元城小学校の一部となっています。
天守台
浜松城の天守台は、一辺21mのややいびつな四角形をしていて、西側に八幡台と呼ばれる突出部が付いている。また東側には、行櫓と呼ばれる張り出し部分があり、現在は後興天守閣への入口として利用されている。 浜松城の天守は第ニ代城主堀尾吉晴の在城期(1,590頃)に築かれた説が有力だが、17世紀の絵図には天子が描かれていない事から、江戸時代前期には天子が失われていたと考えられている。昭和33年に作られた現在の復興天守閣は、天守台の大きさと比べると小さいものである。 かつての浜松城は、築城時期等から大きな屋根を持つ下層部の上に小さな望楼が載せられる「望楼型」であった説が有分である。その規模は天守台の大きさから推測すると現在よりも一回り大きい四重五 階で、巨大な天守だったと考えられる。
天守曲輪の石塁土塀
2018年(平成30年)の発場調査で、天守曲輪南側の内面の石垣が存在しいることが明らかになった。堀尾氏在城期(1,590-1600)に構築された高さ2.2mの野面積みの石垣で、失われた上部を合わせると3.2mの高さに復元できる。17世記の絵図にも石塁がみられるが、高さ1m程度であり、江戸時代に2mほと理め立てられていたと考えられる。 絵図では、石塁をはじめとした天守曲輪外周部に、土塀も描かれている。 17世紀の炭浜松城を描いた絵図では板葺きの土塀が、幕末の浜松城を描いた絵図では瓦葺きこ土塀が表現されている。これまでの発掘調査による出土品から、瓦葺きの土塀には、塀専用に製作された瓦が使用されていたと考えられる。
浜松城 現在天守台に建てられている建物は、
昭和33年(1958年)4月26日に完成した鉄筋コンクリート造の復興天守。
地上3階地下1階建で、1-2階は徳川家康と浜松にまつわる歴史資料を展示する資料館、
3階は展望台として使用されています。
天守台に比べて小ぶりな復興天守。
その規模は天守台の大きさから推測すると、
現在よりも一回り大きい四重五階の巨大な天守だったようです。
日本庭園
浜松城天守閣から、浜松市美術館方面へ歩いて行くと日本庭園があります。
こんな時でも人は少ない穴場的なスポットです。
御城印