照山(123m) おゆき弁財天・愛知県豊橋市賀茂町村上
照山 (標高123m)は愛知県豊川市と豊橋市の境
東名高速道路 豊橋PAの北にある山です
南斜面は採石のため削られ現在123mの高さもありません。
採石場の敷地であるため、P62へは立ち入ることが出来ません。
北側の「おゆき弁財天」には
長篠の戦い(田峯城での悲話)の話が残されています。
照山(てるやま)
標高 123m | 登山日 2021年5月6日 |
消滅しつつある山 | |
所在地 愛知県豊川市金沢町段戸 |
難易度 ★ オススメ ★ | 登山口(ナビ検索) おゆき弁財天 |
スタート(13:56)→ゴール(14:23) 所要時間 26分 累積標高 95m / 94m 距離 768m | |
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西山「西蔵」と(三河)本宮山
北側「おゆき弁財天」駐車場より
旗頭山と吉祥山
おゆき弁財天の脇、墓地の横をお邪魔しました
お地蔵様の横から取付く
藪を登ると採石場の際へ
正面に石巻山と湖西連峰
ちなみに左の丘のような所が小照山
ここは大照山と呼ばれていたそうです
P62は小屋の後方辺り、立ち入り禁止です
既に山頂付近は削り取られています
おゆき弁財天
長篠の戦い(田峯城での悲話)の話が残されています。
このあたりの集落には現在でも城所道寿公の子孫が住まわれ、
おゆき様の霊を慰め供養されているそうです。
おゆき弁財天の由来
おゆき弁財天の由来
今から、約400年前、(天正3年5月 1575年)程前、設楽原の長篠合戦で武田方が敗戦した。
参戦した田峯城主菅沼貞忠は家老の城所道寿と共に、疲労困憊した武田勝頼を助けて我が城、田峯城で一休みべく帰ってきた。
ところが、敗戦を知った留守居の者たちは、一斉に反旗を翻して道寿たちを城内に入れなかった。城内には道寿の息子嫁 梅ヶ井(37才)とその子の六の助(7才)与一(3才)と、乳母のおゆき(23才 梅ヶ井の妹)は一瞬にして敵の中に残されてる運命となる。梅ヶ井は二人の子供を助けるために、おゆきに子供と共にこの城から脱出することを依頼した。(梅ヶ井は城下の夢ヶ渕で投身自殺、法名 芳薫院殿碧岸梅渕大姉)おゆきは、2人の子供の手を引いて雁峰山の山裾を南下して、本宮山頂に辿り着いた。そこで発見した松源院の住職に兄六の助(後の同寺の第七聖 一翁伝浦大和尚)を託し、弟与一を肩にして、豊川の浅瀬を渡って養父村の満目院に辿りこの里で武田の再興を祈り隠れ住んだ、此の間幼い与一の養育一筋に一生を打ち込み、お家再興の悲願を達成し、寛永17年(1640年)9月28日この世を去った。(法名 年室妙寿大姉)おゆきの忠誠と献身の高恩に感謝して、貞享元年(1684年)7月、城所家の諸人相語らい、現在地に霊舎を建てその霊を慰め現在に至っている。 一宮町教育委員会