日本の仏教・宗派 まとめ
日本の仏教、歴史の授業でなどで少しは知っているものの、
実際日本にはどんな宗派があるのか疑問に思ったことはありませんか?
そこで、日本の仏教に関してまとめてみました。
伝統的な仏教の13宗は
華厳宗
法相宗
律宗
真言宗
天台宗
融通念仏宗
浄土宗
臨済宗
浄土真宗
曹洞宗
日蓮宗
時宗
黄檗宗
の13宗です
それに現在は存在しない南都六宗の三宗に衰退してしまった二宗を合わせた
18宗が日本の仏教宗派として挙げられます。
三論宗
成実宗
倶舎宗
普化宗(虚無宗)
修験宗
■ 南都六宗
南都六宗とは、奈良時代に平城京を中心に栄えた6つの仏教宗派の総称。
奈良仏教とも呼ばれる。
民衆の救済活動に重きをおいた平安仏教や鎌倉仏教とは異なり、
これらの南都六宗は学派的要素が強く仏教の教理の研究を中心に行っていた
学僧衆の集まりであったといわれる。
つまり、律令体制下の仏教で国家の庇護を受けて仏教の研究を行い、
宗教上の実践行為は鎮護国家という理念の下で呪術的な祈祷を行う
程度であったといわれる。
■ 三論宗
元興寺(奈良県奈良市)
三論宗(さんろんしゅう)
開祖
高句麗の僧 慧灌(えかん)・智蔵(ちぞう)・道慈(どうじ)本山
元興寺・大安寺大乗仏教宗派の1つ、インド中観派の龍樹(ナーガールジュナ)の『中論』『十二門論』、
その弟子提婆(アーリヤデーヴァ)の『百論』を合わせた『三論』
を所依の経典とする論宗である。空を唱える事から「空宗」とも言う。
その他、無相宗・中観宗・無相大乗宗の呼び方もある。
華厳宗や真言宗に影響を与えた。日本への伝来には、下記の3系統がある。
625年(推古33年)に高句麗の僧の慧灌が伝えた元興寺流
智蔵(慧灌の弟子、呉出身)が入唐して伝えた法隆寺の空宗
718年(養老2年)、道慈(智蔵の弟子)が伝えた大安寺流
*現在は存在しない。
■ 成実宗
大安寺(奈良県奈良市大安寺)
成実宗(じょうじつしゅう)
開祖
百済の僧 道蔵本山
元興寺・大安寺『成実論』を研究する論宗(経を所依とせず、論を所依とする宗派)です。
*成実論(じょうじつろん)は、三論・成実宗の元を築いた中国の僧
訶梨跋摩(かりばつま)によって漢訳された16巻の仏教論書です。
中国十三宗・三論宗に附属する宗派。*現在は存在しない。
■ 法相宗
薬師寺(奈良県奈良市西ノ京町)
法相宗(ほっそうしゅう)
開祖
道昭本山
興福寺・薬師寺インド瑜伽行唯識学派(唯識派)の思想を継承する、
中国の唐時代創始の大乗仏教宗派の一つ。
638年(唐代、貞観19年)中インドから玄奘三蔵が帰国し唯識説が伝えられることになる。
その玄奘の弟子の慈恩大師 基(通称 窺基 きき)が開いた宗派である。
唯識宗・慈恩宗とも呼ばれる。元興寺には護命、明椿などの碩学が出たが、のち元興寺法相宗は興福寺に吸収され、興福寺は法相宗のみを修学する一宗専攻の寺となった。平安末期以降にも蔵俊、貞慶、覚憲、信円らが輩出した。1882年に興福寺、薬師寺、法隆寺の3寺が大本山となったが、第2次大戦後、法隆寺は聖徳宗を名乗って離脱(1950年)し、また京都の清水寺も法隆寺と同様に北法相宗として独立(1965年)し、興福寺、薬師寺の2本山が統括するにいたった。
■ 倶舎宗
倶舎宗(くしゃしゅう)
開祖
道昭本山
東大寺・興福寺世親(ヴァスバンドゥ)が著したアビダルマ コーシャとその漢訳本である
真諦訳の『阿毘達磨倶舎論』(あびだつまくしゃろん)(略称『倶舎釈論』)、玄奘訳の『阿毘達磨倶舍論』(あびだつまくしゃろん)(略称『倶舎釈』)、それらの注釈書を中心として諸経論を研究・講義し、師資相承する学僧たちのグループ。
法相宗の付宗(寓宗)斉明天皇の四年に、智通、智達が入唐し、本論を日本に伝え、その後、唐僧を招き興福寺などで研学された。 また、元興寺禅院の開祖の道昭が661年に帰朝の際に、『倶舎論』および注疏を招来したとも考えられている。 しかし、倶舎宗という宗派が公的に制定されるのは、天平勝宝年間(749年 – 757年)の東大寺においてであろう。そのころ、この宗派が大仏開眼供養にちなんで南都六宗の一つとして自宗関係の多数の経論を転読講説していることが分かっている。奈良時代以後は元興寺(南寺)と興福寺(北寺)を中心とする法相宗の付宗として伝統が伝えられた。
*現在は存在しない。
■ 華厳宗
東大寺(奈良県奈良市雑司町)
華厳宗(けごんしゅう)
開祖
審祥(しんしょう)・良弁(りょうべん)本山
東大寺『大方広仏華厳経』(華厳経)を拠り所とした宗派で、開祖は杜順。
日本における華厳宗は審祥により736年に伝えられた。
東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が建立された華厳宗は、第3祖法蔵門下の審祥によって736年に伝えられた。金鐘寺(後の東大寺)の良弁の招きを受けた審祥は、この寺において『華厳経』・『梵網経』に基づく講義を行い、その思想が反映されて東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が建立(743年-749年)された。鎌倉仏教期には、明恵によって密教思想が取り込まれ、さらに凝然による教学の確立がなされている。法相宗や律宗と並ぶ、南都六宗の一つで、十三宗五十六派の一つである。華厳宗の本尊は、歴史上の仏を超えた絶対的な毘盧遮那仏と一体になっている。菩薩の修行の階梯を説いた「十地品」、善財童子の遍歴を描いた「入法界品」などが有名。東大寺の大仏も本経の教主・毘盧舎那仏であり、日本仏教の黎明期に重用されたが、大乗仏教の中でも独特の教学を持つため宗勢は徐々に衰えていった
■ 律宗
唐招提寺(奈良県奈良市五条町)
律宗(りつしゅう)
開祖
鑑真本山
唐招提寺戒律の研究と実践を行う仏教の一宗派である。
中国で東晋代に『十誦律』『四分律』『摩訶僧祇律』などの戒律について翻訳されると、
唐代には道宣が『四分律行事鈔』を著述して戒律学を大成させた。
鑑真が日本に伝来させた。その後、真言律宗等が生まれた。
■ 平安仏教
平安時代より興隆した日本仏教の宗派である。
具体的には真言宗、天台宗の二宗の密教をさすことが多い。
場合によって融通念仏宗も含める。
平安遷都の背景の一つには、南都六宗の専横の問題があった。
孝謙女帝が僧 道鏡を寵愛し、道鏡が天皇にまでなろうとした宇佐八幡宮神託事件等
朝廷の保護の下、力を持ちすぎた奈良仏教の影響を排除することが遷都の動機の一つである
朝廷は奈良仏教に対抗しうる新しい仏教として、
最澄が唐から持ち帰った天台宗や空海が持ち帰った真言宗を保護。
特徴は共に山岳仏教であること、また加持祈祷を行なう密教の性質を持っていることなど。
平安中期になると、天台宗の源信らにより死後の阿弥陀如来による救いを説く、浄土教が
大きな力を持ってくる。融通念仏宗もその文脈で出てくる。
■ 真言宗
真言宗(しんごんしゅう)
開祖
弘法大師 空海本山
高野山 金剛峰寺・教王護国寺(東寺)弘法大師 空海によって平安時代初頭に開かれた。
真言陀羅尼宗(しんごんだらにしゅう)・曼荼羅宗(まんだらしゅう)・
秘密宗(ひみつしゅう)とも称する。
また、真言密教は東寺を基盤としたので「東密」と称する
空海が中国(唐時代)の長安に渡り、青龍寺で恵果から学んだ密教を基盤としている。
著作『秘密曼荼羅十住心論』『秘蔵宝鑰』で、空海が執筆していた当時に伝来していた
仏教各派の教学に一応の評価を与えつつ、真言宗を最上位に置くことによって
十段階の思想体系の中に組み込んだ。
最終的には顕教と比べて、密教(真言密教)の優位性、
顕教の思想・経典も真言密教に摂包されることを説いた。
■ 天台宗
天台宗(てんだいしゅう)
開祖
伝教大師 最澄妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる。
また真言宗の東密に対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる
天台教学は中国に発祥し、入唐した伝教大師 最澄によって平安時代初期に伝えられた。
最澄が開いた日本の天台宗は、中国の天台宗の祖といわれる智顗(天台大師)の説を受け継ぎ
法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、
したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。
天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。
また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。
午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、
午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。
これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。
■ 融通念仏宗
大念仏寺(大阪府大阪市平野区)
融通念仏宗(ゆうずうねんぶつしゅう)
開祖
聖応大師 良忍本山
大念仏寺平安時代末期の永久5年5月15日(1117年6月16日)に
天台宗の僧侶である聖応大師良忍が大原来迎院にて修行中、
阿弥陀如来から速疾往生(阿弥陀如来から誰もが速やかに仏の道に至る方法)の偈文
「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 十界一念 融通念仏 億百万編 功徳円満」
を授かり開宗した。
大念仏宗(だいねんぶつしゅう)とも言う。
融通念仏の最大の特徴は、観想念仏から称名念仏の重要視に変えた事であり、
融通念仏宗では、毎朝西方に向かって良忍の説いた十界一念・
自他融通の浄土往生を期する念仏(融通念仏)を十唱することなどを日課とする。
■ 鎌倉仏教
平安時代末期から鎌倉時代にかけて興起した仏教
特に浄土思想の普及や禅宗の伝来の影響によって新しく成立した仏教宗派
■ 浄土宗
知恩院(京都府京都市東山区) 浄土宗総本山
浄土宗(浄土宗)
開祖
法然本山
知恩院・増上寺宗祖法然は、念仏「南無阿弥陀仏」を唱えれば、
だれもが極楽浄土に往生できると説いた(他力本願)。
浄土宗第三祖の然阿良忠が鎌倉に入ったことで浄土宗が関東に広まったといわれている。
良忠が開いた光明寺には、のちに関東総本山の称号が与えられ、
江戸時代には「関東十八檀林」の筆頭寺院として栄え、各地から学僧が集まった。
本尊は阿弥陀如来(舟後光立弥陀・舟立阿弥陀)。
大きく鎮西派と西山派に分かれる。
■ 臨済宗
建仁寺(京都府京都市東山区)臨済宗建仁寺派 大本山
臨済宗(りんざいしゅう)
開祖
栄西本山
臨済宗妙心寺派 大本山妙心寺
臨済宗建長寺派 大本山建長寺
臨済宗円覚寺派 大本山円覚寺
臨済宗南禅寺派 大本山南禅寺
臨済宗方広寺派 大本山方広寺
臨済宗永源寺派 大本山永源寺
臨済宗佛通寺派 大本山佛通寺
臨済宗東福寺派 大本山東福寺
臨済宗相国寺派 大本山相国寺
臨済宗建仁寺派 大本山建仁寺
臨済宗天龍寺派 大本山天龍寺
臨済宗向嶽寺派 大本山向嶽寺
臨済宗大徳寺派 大本山大徳寺
臨済宗國泰寺派 大本山國泰寺浄土宗などが「他力本願」なのに対し、禅によって悟りを開く「自力本願」の宗派。
臨済宗は幕府によって保護され、五代執権北条時頼は、宋の蘭渓道隆を招き、
日本で最初の本格的禅宗寺院である建長寺を、
八代執権北条時宗は、宋の無学祖元を招き円覚寺を建立している。
鎌倉の寺院の3分の1は臨済宗に属する。
宗祖栄西は、宋(中国)より茶の種を持ち帰って栽培するとともに、
『喫茶養生記』を著したことでも知られている。
■ 浄土真宗(真宗・一向宗)
東本願寺(京都府京都市下京区烏丸七条)真宗大谷派 本山
浄土真宗(じょうどしんしゅう)
開祖
親鸞本山
浄土真宗本願寺派 本願寺
真宗大谷派 真宗本廟 東本願寺
真宗高田派 専修寺 高田本山
真宗佛光寺派 佛光寺
真宗興正派 興正寺
真宗木辺派 錦織寺
真宗出雲路派 毫摂寺
真宗誠照寺派 誠照寺
真宗三門徒派 専照寺
真宗山元派 證誠寺宗祖親鸞は、浄土宗開祖法然の弟子。
阿弥陀仏の他力本願を信じることにより成仏できると説いた。
親鸞は、明王院で行われた北条政子十三回忌に
北条泰時の招請を受けて参列したとされている。
現在、鎌倉には浄土真宗の寺は一つしかない。
小田原北条氏(後北条氏)によって、
「浄土真宗の寺は、本堂が平地に建ち、挙兵の場となる危険がある」として迫害されたため、
武蔵や三浦に移っていったのだという。
■ 曹洞宗
曹洞宗(そうとうしゅう)
開祖
道元本山
永平寺臨済宗と同じ禅宗。
宗祖道元は、五代執権北条時頼に招かれ鎌倉に滞在しているが、
時頼の寺院建立要請を断り、越前永平寺に帰っている。
臨済宗が武家の間で広まったのに対し、曹洞宗は庶民の間に広まった。
■ 法華宗(日蓮宗)
日蓮宗(にちれんしゅう)
開祖
日蓮本山
身延山久遠寺宗祖日蓮は、法華経こそが真の教えと説く。
過激な宗教活動で幕府より弾圧されたが、次第に武士や商工業者に支持されるようになる。
日蓮の『立正安国論』は、元寇(蒙古襲来)を予言したとして知られている。
■ 時宗(遊行宗)
清浄光寺(神奈川県藤沢市)時宗 総本山
時宗(じしゅう)
開祖
一遍本山
清浄光寺(遊行寺)浄土宗の一派。
宗祖の一偏は、「踊念仏」をひろめ、
「決定往生六十万人」と書いた紙の札(賦算札)を配って全国を歩いた(遊行)六十万人の人々に配ることを目標としていたが、
実際に配れたのは、二十五万一千人余だったといわれる。
■ その他
■ 普化宗(虚無宗)
明暗寺(京都市東山区)普化正宗 総本山
普化宗(ふけしゅう)
開祖
普化(ふけ)本山
明暗寺日本の仏教の禅宗のひとつ。
9世紀に中国で臨済義玄と交流のあった普化を始祖とするため、
臨済宗(禅宗)の一派ともされる。
普化は神異の僧であり、神仙的な逸事も多く、伝説的要素が強い。
虚無宗(こむしゅう)とも言い虚鐸(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で有名。
■ 修験宗(修験道)
修験道(しゅげんどう)
開祖
役小角(役行者)修行地
日本各地の霊山
大峰山(奈良県)・白山(石川県)・熊野三山(本宮・新宮・那智3社)など。修験道(修験宗)は、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、
悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた
日本独特の宗教である。修験道の実践者を修験者または山伏という。
古神道は、森羅万象に命や神霊が宿るとして、神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)
を信仰の対象としたが、それらを包括する山岳信仰と仏教が習合し、
さらには密教などの要素も加味されて確立した日本独特の宗教が修験道である
■ 黄檗宗
萬福寺(京都府宇治市)黄檗宗大本山
黄檗宗(おうばくしゅう)
本山
黄檗山 萬福寺日本の三禅宗(臨済宗・曹洞宗)のうち江戸時代に始まった一宗派。
唐の僧・黄檗希運(? – 850年)の名に由来する。
黄檗は臨済義玄(?-867年)の師である。
臨済宗、曹洞宗が日本風に姿を変えた現在でも、黄檗宗は明朝風様式を伝えている。