飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)・奈良県高市郡明日香村




飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)

飛鳥坐神社 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/飛鳥坐神社

飛鳥寺へ向かう前に 飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)へ

奇祭おんだ祭でも有名。

街並みが素敵な参道。


鳥居

道の角にあります。

奈良の道は細い、

この日も車が何度も切り返しすれ違って行きます。


手水舍


案内板

飛鳥坐神社

奈良県高市郡明日香村飛鳥。旧村社。
甘奈備の飛鳥の社とも。
『延喜式』に「飛鳥坐神社四座並名神大。月次。相嘗。新嘗。」とある。
祭神四座には諸説がある。
出雲国造神賀詞に「賀夜奈流美乃御魂乃飛鳥乃神奈備爾坐天」とみえ、
『日本紀略』に天長六年(八二九)、神託により、もとの雷丘から今の鳥形山へ遷祀したと。
貞観元年(八五九)正四位下を授けられる。二月第一日曜日におんだ祭(お田植神事)があり、
予祝儀礼と夫婦和合の所作がある。
-『神社辞典』-

国のまほろば大和の国に古代より皇室の守護神と して鎮まります当神社の主神、
事代主神は恵美須神 の御名で世に広く知られております。
大国主神の第 一子で父神とともに力を合わせ、この国土を拓き民 の衣、食、住は勿論、
その他万物の生きるための基 礎作りをされた大神であります。
古典によりますと、神代の昔皇祖天照大神が皇国 の基を定めようとされ、
大国主神のもとに国土を天 の神に奉るよう御使を遣わされました。
大国主神は その事を事代主神に相談され、そのすすめによって 国土を捧げられました。
そうして大国主神は、わが 子事代主神を数多くの神々の先頭に立たせ
皇祖に仕えさせたならぱ、皇祖の国づくりに逆らう神は無い であろうと、
皇室の近き守護神として事代主神とそ の娘神、
飛鳥神奈備三日女神(賀夜奈留美神)の神霊を奉斎なされたのが当神社の創建であって、
実に 神代から続いている大社であります。
前述のごとく、この飛鳥の地に永く郡のあったことと神代に
当社がこの地に創建されたとする伝承とは決 して偶然ではなく、
すでに神代の昔から大和の国は将来都と定めるべき美地なることを
父神の大国主神は予 知されていたのであります。以来事代主神、
飛鳥神奈備三日女神を始め四柱の神々は協力して皇室の守護を はじめ、
日本人に生活のあるべき道を教え、農業、工業、商業など、産業振輿の神として、
その由緒の顕著 なことは多くの古書に記述されているところであります。
特に子宝、緑結ぴ、厄除、治病、製薬、交通安全、 商売繁昌、家内安全、夫婦和合等、
専ら国利民福の増進を図られ、その御神徳は著しいものであります。
当社は、天武天皇朱鳥元年七月に天皇の御病気の平癒を祈る
奉幣があったことにも示されるように、皇室 の近き守り神として奉祀され、
天長六年に神託により神奈備山より現今の鳥形山へ遷祀されました。
延喜式 によれば名神大社に列し、祈年、月次、相嘗、新嘗、祈雨等の奉幣に預かり、
祈年祭には特に馬一匹を加え られました。
正平元年八月後村上天皇より金五十枚を賜わり中ノ社が再建されております。
このように朝廷 でも一般でも広く尊崇せられたことが察せられます。
降って寛永十七年(一六四○)に植村家政が高取城主として封ぜられると、
当社がその城の鬼門にあたる ため、特に深く信仰されました。
元緑頃には境内に末社五十余社が存したが、享保十年(一七二五)に本社、
末社ともに火災に会い、社殿の大部分が焼失したので、
安永十年(一七八一)城主植村出羽守家利が再建し、
天明元年(一七八一)正遷宮が行なわれました。これが現存の社殿であります。
このように古代から数々の 変遷を経て今に至っています。

※相嘗祭……朝廷の特別に尊崇された大社に新米を奉られる祭である。
名神社三、一三二座中僅に七一座に 限られている。
-由緒書きより-


境内社

小高い丘を登る。

飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)は、奈良県高市郡明日香村にある神社である。
式内社(名神大)で、旧社格は村社。
毎年2月第1日曜日に行われる奇祭おんだ祭でも有名である。

祭神
延喜式神名帳には「飛鳥坐神社四座」とある。
現在の祭神は事代主神、高皇産靈神、飛鳥神奈備三日女神(賀夜奈流美乃御魂)、
大物主神の四座であるが、多くの異説がある。
『大神分身類社鈔』 — 事代主命・高照光姫命・木俣命・建御名方命
『五郡神社記』 — 大己貴命・飛鳥三日女神・味鋤高彦神・事代主神
『社家縁起』 — 事代主命・高照光姫命・建御名方命・下照姫命
『出雲國造神賀詞』 — 「賀夜奈流美乃御魂乃飛鳥乃神奈備爾坐天
(賀夜奈流美の御魂の飛鳥の神奈備に坐て)」との記述がある。

また、当社地が天照大神を初めて宮中の外で祀った地「倭笠縫邑」
であるとする伝承もあり(有力な説は大神神社摂社の檜原神社である)、
近世には元伊勢とも称していた。

歴史
創建の由緒は不詳であるが、『出雲國造神賀詞』に
「賀夜奈流美命ノ御魂ヲ飛鳥ノ神奈備ニ坐テ皇孫命ノ近守神ト貢置」とあり、
大国主神が皇室の近き守護神として、
賀夜奈流美命の神霊を飛鳥の神奈備に奉斎したとある。
また『日本書紀』朱鳥元年(686年)7月の条に
「奉幣 於居紀伊国国懸神 飛鳥四社 住吉大社」とあり、
天武天皇の病気平癒祈願のため幣帛が奉られた。『日本紀略』によれば、
天長6年(829年)、神託により、現在の鳥形山へ遷座した。
(遷座する前の場所については諸説ある)
寛永17年(1640年)に高取城に入った高取藩初代藩主・植村家政は、
高取城の鬼門に当たる当社を深く信仰した。
享保10年(1725年)に里からの火災により社殿の大半を焼失したため、
天明元年(1781年)に高取藩8代藩主・植村家利により再建された。
平成13年(2001年)再建から200年を経て社殿が老朽化してきたことから、
吉野の丹生川上神社上社が大滝ダム建設に伴い移築するに際し、
旧社殿を譲り受け再建した。

祭事
2月第1日曜日(元は旧暦1月11日)のお田植神事「お田植祭(おんだまつり)」には
夫婦和合の所作(種まき前の胤付けの意で、天狗とオカメが性行為,特に正常位を踊る)
があり、奇祭として知られている。
境内には、男性器を模した石が多く安置されている.


むすびの神石

本殿の奥には境内社が並ぶ


飛鳥山口神社


境内社


金比羅・八阪


太神宮

境内の一番奥には天照大神を祀る。

ここ飛鳥坐神社が天照大神を初めて宮中の外で祀った地

「倭笠縫邑」であるとする伝承もあり(有力な説は大神神社摂社の檜原神社である)、

近世には元伊勢とも称していました。

本当ならここが神宮だったのかも。

御朱印

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