飛鳥寺(あすかでら) 飛鳥大仏「日本最古の寺と大仏 」




飛鳥寺(あすかでら) 飛鳥大仏

飛鳥寺 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/飛鳥寺

飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)から飛鳥寺へ

明日香村で一番訪れたかった所でもある。

しかし最初の印象はここが、、といった感じ。

ついつい通り過ぎてしまいました。

飛鳥寺(あすかでら)

「日本書紀」によれば、崇峻天皇元年(588)に
蘇我馬子は法興寺を建立することを計画、
同5年には仏堂(金堂)・歩廊(回廊)が完成、
推古天皇元年(593)には塔を起工し、同4年には一応の建物が完成した。
同13年には丈六仏像を造り、翌14年に安置したとある。
日本最古の本格的な寺院で、その造営に際して多くの博士・工人が
朝鮮半島から渡来してあたったことが記されている。
大化改新や天皇の病気平癒など飛鳥時代を通じて
飛鳥における中心的な役割を果たしたが、建久7年(1196)に消失し、
現在に至る。法興寺・元興寺とも称され、
現在は止利仏師の作と伝える重要文化財の金銅丈六仏が残る。
昭和31年からの継続的な発掘調査の結果、塔を中心に三方に金堂を置き、
北側に講堂、南側に中門・南門の跡があることが判明した。
寺域は南北290m、東西200~250mの規模をもち、
飛鳥では大官大寺とともに、最大規模の寺院であった。

寺前は駐車場の方が広く感じられ、

簡単な土産物屋が2店舗並ぶのと、

隣には農家のトラクターがとまっているといった様子。

遠路ようこそ飛鳥寺へ!御一読を

現在の本堂は古えの中金堂(一塔三金堂)の位置に相当し
本尊飛鳥大佛は千三百九十有余年間そのままに座したまうは奇跡の存在といえよう。
平安朝まではより以上に膨張し中世以後天災地変、
自然崩壊のため境内は1/20に縮小されたが、
この長閑な青垣山こもれる風景に麗しい殿堂があった昔を偲べばう
たた感慨無量といえようか。
聖徳太子は橘の藁(わら)小屋で生まれたまい、大陸の先生に先進国の学問を受け、
その粋を取って国民の守るべき十七条憲法を示されたのが
この本尊に誓ってのことであった。
蘇我馬子が決戦の暁、強引に飛鳥寺に着手したことは
必然的に飛鳥文化の扉が開けゆく固い約束にもなった。
即ち国家数千年の大計をを果し得たことは権力の野望を充した
一面見事な光彩を放ち得たといえよう。
驚くなかれ!佛法最初という寺のいくつかある中でも又、
シルクロードの終点といわれる寺のいくつかある中で飛鳥寺こそその終着点であり、
日本の起点になったことは先ず疑いなき事実なり。
太子の師恵慈、慧聡が都の本格的なこの寺に住まわれたことも感激すべき事実である。
大化改新は勿論奈良朝然り、各宗の母胎揺籃の地になったこと。
又、世界に誇る万葉文学渕源の地ともいえよう。
すでに我らの記憶から遠ざかったけれども、この土、
この塵に曽て輝かなりし遠祖の香り、血が、汗が滲(にじ)んでいることを
思い起せば心揺ぶられ身の鼓動を禁じ得ない。
土地は枯れ、寺は寂びれて、み佛は傷つけども、
領土・民族のあらん限り歴史のふる里ではある。
悠久なる前に吾人は一瞬である。一生一度齷齪(あくさく)の中にも、
此処に来た一時は大佛前に合掌し、古えの人の心にふれ、語り合い、
民族の久しきことを国土の万世なることを願い顧みつつ懐古の情を温めることは
報恩の一端ともなるものか。
又、後代日本を背負う若人の弁(わきま)えでもあろうか。
お互いの行く末無事安泰を黙祷されよ。
飛鳥への憧憬、飛鳥への郷愁、此処に来て初めて満喫し得るものか。
諸氏の心情果して如何に。
平成十年四月吉日  住職謹記

素敵な内容です。

まさに日本仏教最初の寺院がひっそりと佇む感じは

仏教感に通じるようにさえ感じてしまいます。

この場所から日本の仏教が広まって行ったと思うと一際灌漑深いものがあります。


周辺マップ


思惟殿(しゆいでん)

飛鳥寺の思惟殿(しゆいでん)です。

中に聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)が祀られています。


鐘楼


地蔵堂(飛鳥寺地蔵尊)

飛鳥寺の地蔵堂です。

中に地蔵菩薩(じぞうぼさつ)が祀られています。


万葉池

飛鳥寺の万葉池(まんよういけ)と

弘法大師・観世音菩薩・不動明王の三尊


塔心礎跡

飛鳥寺の塔心礎跡(とうしんそあと)です。

碑の地下3メートルに位置しており、案内板によれば以下のような歴史があるとされます。

塔心礎位置

・推古元年(593年)正月15日、舎利を心礎に納める
・翌日、心柱を心礎の上に建てる
・推古4年(596年)、塔が完成する
・建久7年(1196年)、落雷のために焼失
・心礎は一辺2.4メートルで、その中央に一辺1.6メートルの方形が彫られている
・焼失後の舎利は一度掘り出され、舎利容器と共に木簡に入れられて再び地中に収められたとされる
・心礎の周辺からは管玉・小玉・鈴・馬鈴などが発掘され、出土物から塔の建立時期は古墳時代後期と推定される


本堂

飛鳥寺略縁起

崇峻天皇元年(588)蘇我馬子が創立した日本最初の本格的寺院であり、
寺名を法興寺、元興寺、法満寺、飛鳥寺(現在は安居院)とも呼んだ。
(法興・元興共に日本で最初に仏教が興隆したという意味)
本尊飛鳥大仏(釈迦如来)は推古天皇13年(605)天皇が詔して
鞍作鳥仏師(止利仏師)に造らせた日本最古の仏像である。
高さは約3mで、当時銅15トン、黄金30kgを用いて造られた。
旧伽藍は仁和3年(887)と建久7年(1196)に焼失し、
室町以降は荒廃したが寛永9年(1632)と
文政9年(1826)に再建され今日に至っている。
鎌倉時代の火事で壊れ、当初のままなのは顔の一部と右手だけとされてきたが、
大部分が飛鳥時代造立時のものと判断できると研究結果がある。
(早稲田大学研究チーム)
現在は真言宗豊山把に属し、新西国第9番、聖徳太子第11番の霊場でもある。


飛鳥大仏

飛鳥寺の本尊である飛鳥大仏(釈迦如来坐像)

日本最古の仏像として歴史の教科書でも有名です。

拝観料¥350ーを支払い本堂内に入るとすぐ飛鳥大仏が鎮座する。

驚くほど、あっさりと居られるので面食らってしまう。

仏像前では定期的に住職による解説(説法)が行われており、

この日もちょうど説明が始まった所だった。

中でも印象的だった話は、この飛鳥大仏は修復などで動かされたことはあるものの

建立当時からこの場所を動いていないとのこと。

推古天皇や聖徳太子、その他 歴史上の人物も

同じようにこの前に座し同じように祈りを捧げたことでしょうとの話。

数十分、説明(説法)を受けるとどうぞ記念に撮影していってくださいとのこと

その歴史の重みに反して、驚くほどの気軽さと質素さに終始感動する。

飛鳥大仏(あすかだいぶつ)

609年に推古天皇の勅命により、鞍作止利(くらつくりのとり)
が造った釈迦如来坐像とされる
『日本書紀』によれば606年
『元興寺縁起』によれば609年に完成したとされる(後者が通説)

銅像であり、重要文化財に指定されている

高さ  約3メートル(275.2センチメートル)
素材  銅15トン、黄金30キログラム
撮影可能です。

なお、釈迦如来像としてはデザインが珍しく、以下のような特徴があるとされます。

飛鳥大仏の特徴

・顔が半面で異なる
・開眼像(通常は半目像)
・通常の像より首が長い
・インド風であり、ギリシアの影響を受けたとされる
・当時より、全く動いてないとされる(少し斜めを向いている)
・当時は釈迦三尊像だったとされる(脇侍は現存していない)
・鎌倉時代に寺院が全焼した時、飛鳥大仏だけは残った(明日香村の村民が保護)
・野ざらしになっていた期間もある。
・いくつか傷がある(類焼もしくは保護時に傷付いたとされる)
・後世の補修を受けており、オリジナルと後補の部分については諸説ある


阿弥陀如来坐像

飛鳥寺にある阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)です。

像の写実的表現は、藤原の特色を伝えているとされます。


聖徳太子孝養像

飛鳥寺にある聖徳太子孝養像(しょうとくたいしきょうようぞう)です。

聖徳太子が16歳の頃の姿であり、

父・用明天皇の病気回復を祈願をしている像とされています。


伽藍配置絵図

現在の本堂は、中金堂の位置にあたります。

また飛鳥寺は日本で一番初めに瓦屋根を用いた建造物だったそうです。

今では日本の原風景の一部である瓦屋根ですが、

当時の人々にとっては大変エキゾチックに感じたことでしょう。

伽藍配置絵図

飛鳥寺(法興寺)伽藍配置絵、
1956-57年に行われた発掘調査で、伽藍配置は伽藍配置絵図のとおり、
南大門、中門、塔、中金堂、講堂と一直線上に並び、
更に塔の東西に金堂を配置するという「一塔三金堂」式伽藍であったことが判明した。
この結果、四天王寺式伽藍配置が我が国で最も古いとされていた定説を覆すこととなった。
なお、この伽藍配置は高句麗の寺院跡にその例が見られるといわれ、
当時の朝鮮半島の寺院建立形式が色濃く反映されているという。


中庭

中庭を抜けると、発掘調査時の写真や瓦などの出土品の展示スペースがある。


西門

西門からすこし歩くと蘇我入鹿首塚(そがいるかくびづか)がある。

蘇我入鹿首塚(そがいるかくびづか)の記事

飛鳥寺西門跡

飛鳥寺は西暦588年につくり始められた日本最初のお寺。
塔を中心にその北と東西に3つの金堂がたっていた。
北の中金堂にあった鞍作鳥(くらつくりのとり)作といわれる飛鳥大仏は、
いまもその位置を動いていない。西門は礎石をおいて柱を建てた瓦葺きの門。
間口3間11.5m、奥行2間5.5mの規模だった。
門の西には塀があり、土管をつないた上水道が埋まっていた。
寺の四方に開いた門のなかでは、この西門が最も大きい。
寺の西に、飛鳥の檜舞台「槻(つき:ケヤキの古名)の木の広場」があったからだ。
中大兄皇子と藤原鎌足はここの蹴鞠の場で出会い、645年に大化改新をなしとげた。
この時、二人は飛鳥寺に陣をかまえ、
西門から甘橿丘の蘇我入鹿・蝦夷の舘をにらんでいた。
672年の壬申の乱の時には広場を軍隊がうめつくした。
その後は、外国使節や遠方の使者を歓迎する宴会の場となり、
噴水がおかれ、歌や踊りが満ちあふれた。
西門はそんな飛鳥の歴史をみまもってきたのだった。


由緒書き(パンフレット)

飛鳥寺(あすかでら)
料金: 一般350円、中高生250円、小学生200円
住所: 奈良県高市郡明日香村大字飛鳥682(マップ)
営業: 9:00~17:30
交通: 岡寺駅、橿原神宮前駅(徒歩37分)

御朱印

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