浅間山(540m) 愛宕山(802.1m)・中央構造線と外帯歩き
先週、中央構造線の内帯を歩いたので、
今回は佐久間町の西渡地区から外帯と中央構造線巡りをして来ました。
とりあえずこの辺で唯一未踏の「浅間山」まで登り、
そこから尾根伝いに愛宕山まで中央構造線の外帯沿いを歩き、
今田集落からは県道290号「水窪羽ヶ庄佐久間線」をホウジ峠 (北条峠)まで戻りました。
ホウジ峠では断層粘土・断層破砕帯のサインや岩石標本を見学、
下山はデポしておいた自転車で戻っています。
浅間山(せんげんさん)
標高 540m | 登山日 2022年12月2日 |
山頂には浅間神社が鎮座 佐久間町の里山 | |
所在地 静岡県浜松市天竜区佐久間町佐久間大井 |
愛宕山(あたごやま)
標高 802.1m | 登山日 2022年12月2日 |
三等三角点(丸山2) 佐久間町の里山 | |
所在地 静岡県浜松市天竜区佐久間町佐久間大井 |
難易度 ★ オススメ ★ | 登山口(ナビ検索) 西渡地区駐車場 |
スタート地点(10:07)→明光寺峠(11:08)→愛宕山(11:57) 所要時間 1時間44分 累積標高 341m / 329m 距離 2.9km | |
■愛宕山へは、佐久間町大井の明光寺峠、南野田集落から上がる林道からなどのルートがあるが、西側 峰の集落からのコースになります。 ■国道152号 佐久間町戸口の大井橋から国道473号方面へ、さらに県道290号(水窪羽ケ庄佐久間線)、峰 集落最上部より ■ー ■ー |
山香集落
佐久間町 (旧山香村) 西渡地区より
「秋葉街道 塩の道」水運・陸運の境である山香集落には「やまんば」の伝説が残ります。
やまんばと三人の子 木彫り像
西渡にはやまんばを退治した物語が語り継がれています。
しかし本当は3人の子を育てた母親で、
南北朝時代 南朝方に属する貴族の娘であったため、
北朝方が妖怪と流布して退治したともいわれています。
秋葉街道 塩の道
ここ西渡は水運と陸運の境として重要な位置にあり宿場町として栄えました。
塩の道は秋葉からの急峻な山道を人足や牛馬、荷車等で輸送していましたが、
江戸時代初期には天竜川の水運が開かれ、陸路と水路による運搬が盛んになったようです。
しかし、水窪川との合流点から上流は川幅も狭く急流となり船での運航は困難なため、
西渡の船着場から明光寺峠の荷継所までは荷揚げをしていたそうです。
こんな斜面にも沢山の廃屋があります。
ちょうどすれ違ったお婆ちゃんに山香の事や浅間山までの道を尋ねました。
貴船神社
上の林道に合流して貴船神社へ
境内には何社か合祀されています。
八幡神社の裏から林道まで出て浅間山方面へ
林道の突き当たりからは登山道らしき踏み跡があります。
浅間山への登り、
三波川変成帯に見られる特徴的な岩石「緑色片岩(変成岩)」の道です。
中央構造線 内帯の領家変成帯はマグマによる熱い環境で作られた変成岩であるのに対して、
外帯の三波川変成帯はプレートの沈み込みによる
高い圧力と熱により出来た変成岩で出来ています。
浅間大明神
東と南を水窪川、西を天竜川と三方を川に囲まれた
浅間山 (標高540m) の山頂には浅間神社(浅間大明神)が鎮座。
現在は貴船神社にて合祀されているそうです。
山頂の石仏群
秋葉街道 塩の道
西渡で陸上げされた塩や他の物質は、「浜背負い」と呼ばれる女達によって
八丁坂を明光寺峠の荷継所まで担ぎ上げられました。
峠からは男達によって一日約50頭馬と約30台の荷車によって水窪間を往復していたそうです。
明光寺峠
明光寺峠
ここ峠には米酒塩等の荷継場がありかつては文吉及び清次郎と二軒の茶屋があったという。また交通量は1日約50頭の荷付馬と約30台の荷車が水窪通ひをしたというが、荷車は長さ◯巾2尺5寸と小さく山道用として工夫されており、1台に3俵程度運搬したようである。
明光禅寺
よく見ると、この石畳も緑色片岩だったりします。
片岩は熱と圧力の影響で、片理という面状の構造が発達し、
その面に沿ってハンマーを叩くとすぐに割れていくような構造。
とても加工し易い石です。
愛宕山登山口
ここから尾根へ 因みに塩の道は右側へと続きます。
少し藪ぽい区間もありますが、比較的踏み跡も残る登山道です。
愛宕山(802.1m) 三等三角点(丸山2)
愛宕山へは二度目の登頂、前回は峰集落からでした。
常光寺山
愛宕山から尾根を進むとやがて林道へ
P796の鉄塔より
ちょうどこの下をJR飯田線 峰トンネルが通っています。
ここから鉄塔などの施設が幾つか続き、進むにつれて道は良くなっています。
展望が開けた所より矢岳山
先週歩いた尾根と背後は離山
亀ノ甲山
大沼集落へ出ました。
ここも中央構造線の軌道がよくわかる光景です。
正面に見えている亀ノ甲山から続く尾根の最低鞍部が
通称「今田のケルンコル」と呼ばれる断層谷(ケルンコル)です。
断層により破砕された岩石や粘土が、風化により侵食され谷となった地形で
大断層の特徴と言えます。
大沼の大蛇
大沼の大蛇
昔、ここには大きな沼があってな。水面に人の影がうつると沼から大蛇が出てきおって、あっという間に人をのみこんでしまうことがたびたびあったそうな。自分の子をのまれてしまった大和の国の神主がな、恨みをこめて三日三晩お祈りし、たくさんの針を沼に投げ込んだと。 大蛇は針がつきささって悲鳴をあげ、逃げていきおったそうな。 (佐久間昔ばなしより)
大沼から道なりに進み龍淵寺へ、
ここからは山中を通り県道へ下りました。
県道290号「水窪羽ヶ庄佐久間線」今田集落へ
この先、「今田のケルンコル」を経て池の平まで行こうと思いましたが、
先週歩いたばかりなので今日はここで引き返します。
池の平
池の平
この先の標高八百メートルの山頂のある場所には、七年、十三年という奇数の年の多くに水が湧き、池が出来るそうな。 そうしてな、数日たつと跡かたもなく引いてしまうと。 浜岡の桜ヶ池の龍神様が、時々、信州諏訪湖に遊びに出かけるので、その時、途中の休息所にするために水が湧くんだそうだ。 これを遠州七不思議に入れる説もあります。 (佐久間昔ばなしより)
雨乞いまつり
雨乞いまつり
稲も野菜も枯れてしまう日照りが続くと、ここの池明神でも雨乞いまつりが行われたそうな。池の前に野菜や魚などの供物を置き、村中の者が総出で拝んだり踊ったり唄ったりして、お祈りしたと。 すると夜になって、稲妻が光り、夕立ち雨が降るのじゃ。雨が降ったあくる日は再び池明神に集まり、お礼参りするのを、村人は決して忘れなかったそうな。 (佐久間昔ばなしより)
沢井集落の石仏と棚田の石積み
ここもよく見ると、三波川変成帯に見られる特徴的な岩石のもう一つ、
「黒色片岩(変成岩)」が一部使われていることに気付きます。
緑色片岩は玄武岩等の火山岩や凝灰岩が変成したものに対して、
黒色片岩は泥岩が変成したもの。色は少し黒っぽいです。
中野田集落
ホウジ峠 (北条峠)へ
佐久間民俗文化伝承館跡
江戸時代末期に建てられた農家を移築した 「民俗文化伝承館」そば処 北条峠
残念ながら2020年3月に閉館してしまいました。
建物の横には断層の通っている証、断層破砕帯。
ただの砂利にも見えますが、黒色片岩が断層により破砕された岩石です。
断層破砕帯
ここに見える細かく砕かれた地層が断層運動によって作られた破砕帯です。原石は黒色片岩です。
断層粘土
断層面に沿って岩石がさらに細かく砕かれ、粘土状になったものを言います。
断層粘土
ここに示されている粘土は断層粘土といい、断層によってできた破砕帯の中の一部です。 これらの破砕帯が中央構造線そのものです。
中央構造線の位置図・佐久間町の地質図
中央構造線と赤石裂線 佐久間町の地質は「中央構造線」と「赤石裂線」という二つの大断層によって特徴づけられています。「断層」とは地震のような大きな力が働いて、地面や地層がくいちがったものを言い、特に大きなものを「構造線」とよんでいます。 いま、あなたが立っている地面の下には「中央構造線」とよばれる日本でも最大の断層が走っております。図のように諏訪湖の南にはじまり、九州にまで達する大断層です。図上では一本の線として書かれていますが、実際には大きな断層運動によって、岩石や地層が破壊されて出来た破砕岩や断層粘土が多くの地域で帯状に幅広く分布しています。 この中央構造線は、約8000万年前(中生代末)以後数回の地殻変動によって生じたもので、その一部は今でも動いている活断層といわれております。 なお、図に書いてあるように、佐久間町には「赤石裂線」という大きな断層が、水窪町より佐久間町内の向皆外〜相月〜福沢〜仙戸を通り二俣に達しています。
岩石標本について
下のケースには、佐久間町内に分布する主な岩石を陳列してあります。 中央構造線の北側(内帯ともいう)と南側(外帯ともいう)とでは、岩石がガラリと異なっております。
先程見た緑色片岩(下段右)と黒色片岩(下段中央)、
先週の内帯歩きで見た花崗閃緑岩(下段左・領家帯)
他にも佐久間町内で見られる様々な岩石が展示されています。
北条峠の地蔵様
北条峠の地蔵様
むかし、この北条峠に飛騨から出かせぎの来ていたそま(木こり)が住んでいたと。 妻や子供たちにおいしいものを食べさせてやりたいと、せっせと働いてはお金をため、いつも腰にくくりつけておった。 けど、ある日のこと、ぬす人におそわれて死んでおったそうな。 あまりのかわいそうな身の上に、誰がたてたのか、殺された場所に地蔵様がたてられたのじゃ。 (佐久間昔ばなしより)
北条峠の地蔵様
ホウジ峠・榜示峠・北条峠のいわれ
ホウジ峠・榜示峠・北条峠のいわれ
平安時代末期から鎌倉時代(荘園時代)に旧勢力(天皇方・荘園領主)と新勢力(武家方・守護、地頭)が下地(土地)争いをしたとき、その下地を折半(下地中分)するという形で紛争を解決した際、この峠に「杙」を立てたことから「榜示峠」という。 地名では、天皇方を「領家」とか「奥領家」といい、武家方を「地頭方」という。因みに、この地の字名は「奥領家」である。 北条:鎌倉時代に北条家ゆかりの者がこの地を通って信濃に逃れたという伝承があったことから、その末裔がこの地を訪れたとき、「榜示」を「北条」に当て字して「北条峠」と呼んだといわれている。 なお、明治時代には、四囲の峻険の別天地のため赴任した官吏がこの峠に立って驚愕し、辞職を申し出たことから「辞職峠」とも伝えられている。 榜示:杙(くい)または石などによって、領地、領田の境界を標示したもの。
羽ヶ庄集落
羽ヶ庄集落には秋葉山大権現・金比羅大権現がセットでお祀りされています。
これは伊那地方にも見られる伝統で、
秋葉や金比羅などを祀る修験僧によって布教されたと言います。
二本杉峠
二本杉峠
昔、戦国武将がこの峠にさしかかってな、弁当を食べようとしたが箸がない。 近くの杉の小枝を切って食べおわった後、ニ本の箸を地面にさしてこう言った。「わたしが出世したらお前も大きく育て」と。 その木は明治十年頃切られたが木のまわりが二十メートル、高さ五十メートルもあったそうな。 その武将は家康だとか信州の遠山城主だとか、中には弘法大師だとか言われているが、古い話しだでなあ、はっきりしておらん。 (佐久間昔ばなしより)
二本杉峠のお地蔵様
羽ヶ庄パノラマ展望台
日本列島の背骨とも言える中央構造線の軌道が見られる場所として有名な展望台。
緩やかにカーブする中央構造線のケルンコル(断層谷)断層によって作られた谷です。
中央構造線 (断層谷の観察)
この見取り図と、前方の風景とを見くらべてください。点線方向にのびた谷が「中央構造線」の活動によって作られた谷で断層谷といいます。 この方向は北から東に約30°傾いた方向で「ホウジ峠」を通って今田区の谷の方向に一致します。 このように断層線に生じる峠(鞍部)を「ケルンコル」と呼びます。
展望台の直ぐ下にはお社
ここにも秋葉三尺坊大権現・金比羅大権現の石碑があります。
矢岳山(矢獄山)登山口 数年前にここから登ったことがありますが、
河内川までの下りからスタートします。
矢嶽山藤づるの橋
矢嶽山藤づるの橋
鎌倉に幕府ができる少し前のことじゃった。武将の妻と家来五人がこのむかいの山の矢嶽山ににげてきてな、追ってきた七十五人の敵をにわかづくりの藤づるの橋に誘いこんで切り落としたんじゃ。谷底に落ちた武士めがけて矢嶽山の頂上から石をころがり落としたのでたくさんの血が流れてな、七日七夜も川は真赤だった。それでこの谷に流れる川の名は「厚血川(河内川)」になったと。 (佐久間昔ばなしより)
機織り淵
機織り淵
ここから約10分ほど遊歩道をたどりますと、高さ約30mの二段の滝が見えてきます。 ここは「機織り淵」と呼ばれ、戦国の世の悲しい娘の話が語り継がれています。 滝の流れは、山間の静かなたたずまいの中で、四季折々の表情を見せ、「現世をいっとき忘れさせてくれる」そんな雰囲気のする美しい滝です。
峰集落
龍王ごんげん
龍王ごんげん
この遊歩道をたどっていくと十分ほどで河内川にでます。そこから百メートルほど上流には「竜王渕」と呼ばれる渕があり、むかしから「龍王ごんげん様」として村人達に語り継がれてきた民話が残されています。 高さ百二十メートルの絶壁に囲まれたこの龍王渕の傍らにたたずむと、時間もゆっくりと流れていくような錯覚さえおこさせます。 (佐久間昔ばなしより)
山香集落