金剛山 葛木神社 (かつらきじんじゃ)・奈良県御所市高天




金剛山 葛木神社 (かつらきじんじゃ)

金剛山 転法輪寺
http://www.katsuragi-syugen.or.jp

金剛山を奈良県側の高天彦神社から

通称「郵便道(ゆうびんどう)」を登ってきました。


一の鳥居

樹皮のついたままの丸太材をもって組み合わされた

素朴で原始的な印象の神明系 黒木鳥居。

山の雰囲気に合います。

史跡 金剛山

金剛山は海抜千百廿五米葛城山脈中の最高峯たり。
頂上付近一帯に役小角の開きし転法輪寺の址を存し
法起菩薩を祀れる修験道の霊場として夙に著名なり。
今絶頂に葛木神社を奉祀し、転法輪寺を再建す。
その西北方平坦にて展望よき処所謂國見城跡なり。
元弘二年、楠木正成再び義兵を起すや、
その詰城千早城の背面防禦《ぼうぎょ》の地たり。
北条氏の大軍分かれて三方より楠木城に迫るや、
その大和口に当れるは蓋しこの山なるべし。
文部省 案内板

法華経一字一石塔

昔は葛城山または高天山(たかまやま)とも呼ばれ、
『日本書紀』の神武天皇の条では「高尾張邑に土蜘蛛がいて、
その人態は、背丈が短く、手足が長かった。侏儒と似ていた。
皇軍は葛の網を作って、覆い捕えてこれを殺した。そこでその邑を葛城とした。」
という事に由来しています。(紀元前662年)。

天智天皇4年(665年)、修験道の開祖とされる役小角が16才の時、
この山に登り霊気を感得し長い修行の後、金剛山頂上に法起菩薩を御本尊とする
金剛山転法輪寺を建立し、役小角の祖神であった一言主神を祀る
葛木神社を鎮守としてあわせ祀ったのが始まりとされています。

以後、真言密教の霊場として信仰を集め転法輪寺の山号である「金剛山」が
略称のように使われ葛城山脈中の最高峰を指す名称になったとも言われています。

鎌倉時代末期には、一帯を治めていた楠木正成が転法輪寺の勢力を利用し、
500の寡兵で幕府軍5万の大軍を寄せつけず、
転法輪寺のすぐ近くに位置する国見城が
千早城の背後の抑えとして重要な役割をしていました。

明治元年には神仏分離の憂き目に遭い廃寺となっていたのを、
昭和37年に復興し現在に至ります。


参道

参道脇に立つ灯篭は寄付によるものだが、

登拝500回記念・千回記念など驚異的な数字が並びます。


仁王杉

仁王杉を過ぎると矢刺神社がある。


金剛山 矢刺神社(雄略天皇御狩の跡)の記事


二の鳥居

石段の少し手前には裏参道があり、

ブナ林を抜け、末社側からも境内に行くことができる。

また、左手の転法輪寺側の坂道からも同様に登れる。


手水舎


拝殿

拝殿には金剛山 山頂の文字と日付入り

葛木神社

鎮座地
奈良県御所市高天字金剛山476

ご祭神

主神
一言主大神
配祀
大山祇命 豊宇気比売命 玉依姫命
健角命 素盞嗚命 大国主命
少彦名命 建御名方命 後醍醐天皇
護良親王 楠正成 楠正行


本殿

案内板にも、関西では珍しい大社造とあるが、

横から見るとよく解ります。

神社の社殿建築の種類 まとめ


末社

本殿の脇には一番右手前、

祓戸社をはじめとする末社十三社が並ぶ。

大正・昭和頃の末社の様子が紹介されていました。


葛木神社 由緒

葛木神社 由緒

日本の名峰金剛山は、大阪、奈良、和歌山に跨る
金剛生駒紀泉国定公園の最高峰であって、海抜一・一二五メートルあります。
古来高天《たかま》山とも呼ばれ、神武天皇大和平定の際、
葛《かつら》(くず)の網をきせて土賊を掩《おおい》殺せられてから
葛城という名がついたと言われています。
「人皇第十代崇神天皇戌寅七年 御造営神戸祠を附し給う。」とあり、
神社の創始は約二千年前の崇神天皇の御代で事代主を奉祀していました。
後の古事記・日本書紀に人皇第二十一代雄略天皇が金剛山に御狩に登山された時、
葛木一言主神が御出現され、
「善きことも一言、悪しき事も一言のたまえばかなう神一言主である」と宣言され、
葛木一言主を奉祀し、一言だけ願いをすれば叶う神として有名になりました。
又、日本で初めて手を拍って物を受け渡しされた故事により、
柏手の元祖、一言恵比須とも言われ、商売繁盛の神とも称せられます。

主祭神 葛木一言主大神
福祭神 大楠公、後醍醐天皇、その他
社 殿 関西では珍しい大社造

案内板


案内板


禁足地

社殿裏には立ち入り禁止の柵

本殿後ろに見える少し高い所付近が頂上(1125m)だろうか

境内、左側へ行くと転法輪寺へと


宝剣塔・福石

福石

葛木神社の脇石段にあり、
崇仁天皇の御代大国主神御出現あったので大国石ともいわれ、
福徳招来の守神として、小石を積んで幸を祈る信仰があります。

夫婦杉

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