陸奥国一宮 都々古別神社(八規)・福島県東白川郡棚倉町八槻大宮




陸奥国一宮 都々古別神社(八規)・福島県東白川郡棚倉町八槻大宮

福島県東白川郡棚倉町八槻大宮に鎮座する「八槻 都々古別神社(つつこわけじんじゃ)

延喜式では式内社(名神大社)にして「陸奥国一宮」、旧社格は 国幣中社です。

都々古別神社「別称 都都古別神社・都都古和気神社・都々古和気神社」は、

「延喜式神名帳」において、陸奥国白河郡に「都都古和気神社 名神大」と記載された

式内社(名神大社)で、同じく福島県東白川郡棚倉町内に鎮座する

馬場 都々古別神社」の2社との間で論社とされています。

両社は共に「味耜高彦根命(アヂスキタカヒコネ)」・「日本武尊」を御祭神とし、

それぞれ古社として知られ、中世以降は共に陸奥国の一宮とも称されている。

いずれが「延喜式」に載る神社であるかや、本社・分社の関係などについては

現在までに明らかとはされていませんが、

馬場社を上宮(上社)・八槻社を中宮(中社)

そして近津神社(茨城県久慈郡大子町下野宮)を下宮(下社)として

「近津三社」をなしたともいわれています。

棚倉町周辺には「都々古別」や「近津」を社名に持つ神社や、

馬場社・八槻社、同様に味耜高彦根命を祭神とする神社など、

分祀社が多数みられることから、古くから南陸奥地方で広い信仰圏を営んだ神社といえます。

由緒

当都々古別神社は延喜式神名帳(延喜年間に書かれた書物)に登載されて居り陸奥国白川郡唯一の名神大社であり奥州一宮であります。

御祭神味耜高彦根命は御父君大国主命の偉業を助けて東北の荒地を開拓農業の道を教え蕃殖せしめました。民衆は恩恵を受けましたので命の徳を尊崇、農業の神として崇め祭祀したのであります。

日本武尊を配祀したのは討伐の時八溝の夷賊を討ち民がその尊の徳に尊崇したのであります。

八槻都々古別神社 祭事

歳旦祭 (1月1日)

節分祭 (2月3日)

御田植祭 (旧暦1月6日)

「国の重要無形民俗文化財」「福島県指定無形民俗文化財」

年の初めに稲作の作業過程を模擬的に演じ、豊作を祈願する神事。当日は午前中から行われるが、古くは夜に行われたという。神事では拝殿を舞殿とし、祭礼・神楽奉納に続いて伝統的な装束で田植え所作、そして切餅蒔きを行う。神事の内容から室町時代以前に遡るものとされ、都々古別神の農業神としての性格を表すとされる。この御田植祭は国の重要無形民俗文化財に指定されている。

祈年祭 (3月1日)

七五三 (11月15日)

新嘗祭 (11月23日)

霜月大祭 (12月第2金曜・土曜・日曜)「福島県指定無形民俗文化財」

「八槻様」「八槻市」とも。かつては旧暦11月1日から5日に行われ、「ツトコ/ツツコ」と称する藁苞(籾入れ)を介して籾の交換(品種交換)を行う風習があった。

なお、御田植祭と霜月大祭で奉納される神楽は福島県指定無形民俗文化財に指定されている。

社域

八槻都々古別神社 祭事

重要文化財(国指定)

銅鉢 4口(工芸品)

福島県立博物館に所在。室町時代。昭和36年2月17日指定

重要無形民俗文化財(国指定)

都々古別神社の御田植

昭和47年8月5日に記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財選択、平成16年2月6日に重要無形民俗文化財指定

福島県指定文化財

重要文化財(有形文化財)

本殿、随身門(建造物)   令和元年10月15日指定。

八槻都々古別神社御正体 3面(工芸品)   昭和57年3月30日指定。

無形民俗文化財

八槻都々古別神社の神楽   昭和54年3月23日指定。

その他の関連文化財

木造十一面観音立像(彫刻)

重要美術品(国認定)  昭和19年7月6日認定

八槻家住宅

八槻都々古別神社の別当・宮司を代々務めた八槻家の屋敷で、江戸時代の書院造の座敷棟に日常生活を送る主屋棟が接続して建てられている。福島県指定重要文化財。

八槻家では、銅製釣燈籠2箇・銅鉢1口・聖護院道興筆短冊1幅・八槻文書242点・大般若経600帖(以上、福島県指定重要文化財)、古面17口(福島県指定有形民俗文化財)などの文化財を伝世する

社務所

八槻都々古別神社

所在地   福島県東白川郡棚倉町八槻大宮224

電話番号  0247-33-3505

駐車場   あり(無料:約20台)

アクセス  東北自動車道「白河IC」より約50分

最寄駅   JR水郡線「近津駅」より徒歩約15分

縁結びの神 夫婦杉

境内右手奥にある境内社は、「皇朝工祖神社」「熊野神社」「金毘羅神社」「北野神社」

参道左手には、夫婦のように寄り添って立つ杉があり、縁結びの杉として知られています。

狛犬

手水舎

随身門は、寛政2(1790)の「近津明神別当大善院由緒書」の記載によれば、

正徳元年(1711)に焼失した後、享保年間(171636)に再建されたとみられております。

本殿と比較すると、ほぼ同様の様式細部を有していますが、やや技巧的に進んだ感があり、

本殿に引き続いて造営されたと考えられています。

隋神門

随身門は、典型的な八脚門形式であるが、

全体の比例もよく、彫刻や彩色などの装飾も細部までまとまっています。

頭貫木鼻は獅子、象、虎、獏、麒麟などの具象的な彫物としています。

蟇股(かえるまた)の彫物は蛸や鯛、松竹梅、人参、瓜、琵琶、波濤、牡丹など

実に多彩です。(県指定重要文化財)

扁額 奥州一宮

都々古別神社

御祭神は味耜高彦根命で日本武尊が配祀されている。
味耜高彦根命は御父君大国主命の功業を補翼し東土に下り曠野を拓き民に恩沢をたれ給うたので郷民其徳をしのび当地に奉祀されたと伝えられる。
延喜式内神大社で延喜式神名帳に名神大社奥州一宮と称される。日本武尊強夷征伐の時千度戦って千度うち勝ってがいせんされた御神徳をたたえ、その御神威に感動した八幡太郎義家が奥州征伐の時千勝大明神と改められたのもまことに故あることである。
なお引き続き足利時代に白河結城氏並びに水戸佐竹氏より数度寄進あり、以来豊臣秀吉より直筆、石田三成の書あり、佐竹氏より社頭三千貫並びに書類あり。
後、徳川光圀公の尊崇厚く御神宝の奉納あり社殿修復の際には白銀二百枚を寄進された。又、斉昭公は嘉永六年夷狄退散国家安全を祈ったと伝えられる。交通安全・五穀豊穣・家内安全・商売繁昌祈願の参拝者も多く、奥州一宮として広く知られている。

拝殿

『延喜式神名帳』の陸奥国白河郡鎮座の「都々古別神社」の論社の一社です。

陸奥国江戸時代から、久慈川沿いに並んで鎮座する馬場都々古別神社・近津神社と合わせて

「近津三社」と呼ばれているこの八槻都々古別神社は、そのうちの中之宮にあたります。

伝承によると、日本武尊(やまとたけるのみこと)が八溝山にて苦戦を呈していた折、

守護三神が現れ建鉾山より箭 (矢)を放ちました。

その箭 (矢)が落ち着いた場所を「箭津幾(やつき)」とし都々古別神社を創建、

勝利を祈願したと伝えられています。

農耕を司る神が祀られており、毎年旧暦1月に奉納される能・狂言風の舞「御田植祭」は、

五穀豊穣を祈る神事で、国指定の無形民俗文化財となっています。

国の重要美術品に指定されている木造十一面観音立像や同鉢など、

貴重な文化財が多く残されています。

社記(慶長2年(1597年)の陸奥国一宮近津大明神縁起)によると、

第12代景行天皇皇子「日本武尊」が奥羽に至り、八溝山の東夷を討った際、

日本武尊を守護した3神が「建鉾山」(福島県白河市表郷三森)に隠れたので、

日本武尊は東方に箭を放ち箭の着いた地(箭津幾:やつき)に神社を創建しました。

そして、源義家が奥州征伐に訪れた際に「千勝(近津)大明神」と改称したと伝わります。

地名の「八槻」の語源伝承は『陸奥国風土記』逸文(大善院旧記所引)にも見え、

日本武尊が東夷征伐の際に放った八目鳴鏑(鏑矢)が落ちた地が「矢着」と称されたが、

神亀3年(726年)に「八槻」に改めたとし、別伝として日本武尊が放ち8人の土蜘蛛

(在地首長)を貫いた8本の矢がいずれも槻の木になったので「八槻」になったともいう

これらは、陸奥勢力のヤマト勢力への服属を日本武尊の東征に仮託して

説明したものとされる

なお、弘仁2年(811年)頃の陸奥・常陸間の新道設定に伴う創建と推測する説もある

拝殿・本殿

本殿は、正徳元年(1711)に焼失した後に、

享保年間(1716~36)に再建されたとみられています。

形式は基本的に三間社流造を基調としながらも、

奥行きを通例より長くとるといった独創性が見られ、

彫刻などの細部装飾も華やかなつくりで、再建当初の姿をとどめています。

福島県内の本殿建築の中でも江戸時代中期を代表する本殿建築です。 (県指定重要文化財)

本殿

案内板

御朱印

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