粟ヶ岳(532m) 岳山(585m)・静岡県掛川市東山 倉真
久しぶりに近くの「粟ヶ岳」へ行ってきました。
初心を思い出して 出来るだけゆっくりと、
周りを散策しながら未踏の「岳山」までを歩いて来ました。
粟ヶ岳(あわがたけ)
標高 532m | 登山日 2020年6月3日 |
「茶文字」で有名な山 | |
所在地 静岡県掛川市東山 |
岳山(だけやま)池代山
標高 585.43m | 登山日 2020年6月3日 |
粟ヶ岳 隣のピーク | |
所在地 静岡県掛川市倉真 |
難易度 ★ オススメ ★★★ | 登山口(ナビ検索) 東山いっぷく処 |
東山いっぷく処(山麓)(07:54)→粟ヶ岳(08:46~08:49)→岳山(09:58)→東山いっぷく処(山麓)(12:11) 所要時間 4時間18分 累積標高 828m / 828m 距離 10.2km | |
■粟ヶ岳は標高532メートルあり、晴れた日の山頂からの眺めは最高です。眼下には広大な茶園、大井川や南アルプスや富士山などが見渡せます。また、桜の名所として有名で、ソメイヨシノ、里桜、山桜など約500本が咲き誇ります。山頂にある阿波々神社では、毎年桜祭りが開催されています。 ■山頂からの眺望は素晴らしく、日本一の牧之原大茶園から駿河湾、富士山を見渡す大パノラマが展望できます。山頂には、無間の鐘伝説の井戸跡や阿波々神社がひっそりとたたずんでいます。春は美しい桜並木の花見などで楽しめます。粟ヶ岳登山道入口から粟ヶ岳山頂までは、徒歩で片道約60分(2.6キロメートル)です。車で山頂まで行けますが、道幅が狭くカーブが多いです。 ■阿波々神社は粟ヶ岳のほぼ山頂部にあります。境内は杉の巨木をはじめ多くの樹木が混在している貴重な森です。県の文化財に指定されている社叢には至る所に巨岩があり、これら巨石群は磐座と呼ばれ、古代社殿がなかった時代の祭祀跡です。 |
東山いっぷく処 より
アカガシの巨木
無間山 観音寺跡
天平年間(729〜49)修験者弘道仙人が
釣鐘「無間の鐘」を鋳造して山上の松の枝に掛けたのが観音寺の始めと伝わる
現在は麓の常現寺 観音堂に安置
阿波々の大杉
鎮守の森、御神木「阿波々の大杉」
天然記念物 「阿波々の森」
粟ヶ岳 山頂一帯の「阿波々の森」は杉や椎・赤樫などの巨木が混在している貴重な森で平成21年 静岡県より社叢(鎮守の森)として「天然記念物」の指定を受けました。
ご神木 「阿波々の大杉」
粟ヶ岳の神域の森の中で「阿波々の大杉」と呼ばれている一番大きな杉の大木(御神木)です。根回り5.44m 樹高28m(推定)
磐座 遥拝所
「磐座(跡)」この巨石群は磐座と言われ古代に天上界(高天原)より神様が降臨されたと伝わる神聖な場所です。
「地獄穴」左側の岩の割れ目が地獄に通じていると伝わる地獄穴よ呼ばれていて いまだその奥を知らずと伝説されています、
磐座「地獄穴」
「地獄穴」どんな願いも叶うと伝わる
「無間の鐘」を欲望のままに突いた者が地獄に落ちたと伝承される地獄穴(割れ目)は いまだその奥を知らずと言われています。
これは神仏習合時代の伝説で神社神道には「天国・地獄」という思想はなく亡くなった者は「黄泉」の国に行った後浄められ神となり 神の国「高天原」に昇天されると言われています。
<神仏習合>
仏教が日本に渡来すると いくつかの段階を経て神社に仏像や鐘楼が置かれるなど 神社は仏教化されましたが明治時代の「神仏分離令」と この下に「無間山 観音寺」(廃寺)が共存しておりました。
阿波々神社
由緒
御祭神
阿波比賣命(天津羽羽神) 天石戸別命の御子で八重事代主命の后神。
御神徳は生産の神.子授.安産成就の神、また御山が駿河湾、
遠州灘よりの目標の山として、古来漁師、船員に信仰された。例祭
4月10日社殿
本殿は木造一間社流れ造。明治17年改築、昭和62年旧社殿鎮座地より現覆殿内に移築。
拝殿、覆殿は本殿移築に伴い山頂現在地に改築。
(昭和61年起工、昭和62年春竣工)境内
阿波々神社の鎮座する粟ヶ岳は掛川市の東北に位置し、
標高532メ-トルの山頂にある社殿を中心とした原生林が広がった所が、だいたい当社の境内及び社有林です。境内には杉の巨木をはじめ多くの樹木が混在している貴重な森です。
尚、この貴重な森は全国でも珍しい航行安全のための保安林として林野庁より指定を受けています。由緒
当社は天平8年(西暦736年)の創建と伝えられ、
延喜式内社として1,250年の昔より掛川の里々もとより、駿河、遠江地方の人々に広く崇敬され、その名ははるか京の都にもしられておりました。古来、人々の崇敬を集めた当社は、特に今川家の家老職であった掛川城主朝比奈氏に代々厚く崇敬され、寄進された社殿は荘厳であったとされていますが、元亀、天正年間武田.徳川の遠江をめぐる攻防で兵火を蒙り、社殿は烏有に帰してしまいました。
その後仮殿の造営もありましたが、神仏集合もあり、神社の整備は思うに任せなかったようです。明治の世に移り、神仏分離令により神社と寺院がはっきり分離され、明治6年12月社格が郷社に列格し、明治17年本殿をはじめ拝殿等を改築してより、氏子崇敬者も昔のごとく広い範囲に広がっていきましたが、太平洋戦争終了後は交通の便も悪いこともあり、忘れられたようになっていました。
その後の車の発達で、貴重な森と眺望のすばらしさ、桜の名所としても有名な粟ヶ岳に登る人も多くなってきましたので、昭和57年社務所を新築、昭和61年には創祀1,250年を記念して、本殿を山頂現鎮座地に移築、それに伴い拝殿.覆殿を改築する奉賛事業を進め、昭和62年春に竣工しましたので、4月9日に遷座祭を、翌4月10日例祭に合わせて遷座奉祝祭を賑賑しく斎行して、現在に至っております。
今後境内の整備を進め、延喜式内社に相応しい神社に戻すべく来る平成8年に斎行予定の創祀1,260年式年大祭に向けて準備を進めております。
無間の井戸・境内神社(三社神社)
末社の三社神社は右から、八王子神を祀る八王子神社(はちおおじじんじゃ)
八重垣神社(やえがきじんじゃ)、白羽大神を祀る白羽神社(しろわじんじゃ)
無間の井戸
遠州の七不思議「無間の井戸」
小夜の中山の東、菊川の村にいる仏の道を修行する山伏がふと思う事があり、「仏様へのお願いに、栗ヶ嶽の頂上の観音寺に、釣鐘を寄付しよう」と考え、多くの人の寄付を集め大きな釣鐘を作って、観音寺の釣鐘堂に吊るしました。
鐘の音は広く遠州の国々に響くものであり、釣鐘は大評判になり噂が独り歩きし始め「あの鐘を撞くと大金持ちになれるが、死んだあとは地獄に落ちる」という話になっていった。
欲の深い人たちが我先にと、今が良ければそれでいいとばかりに鐘を撞きにやってきて険しい道から足を滑らせ落ちるものが続出し、それを見かねた和尚様が「そんな考えで鐘を突きに来るのなら、無い方がいい」と考え栗ヶ岳の頂上にある古い井戸の中に投げ入れ埋めてしまいました。
それ以来、無間山観音寺の無間の字をとって「無限地獄に落ちる」意味の「無間の井戸」と言われるようになったという事です。
粟ヶ岳(532m)山頂
前回来たときには建設中だった
「粟ヶ岳世界農業遺産茶草場テラス (かっぽしテラス)」
お茶を伝えた栄西禅師の像
粟ヶ岳(通称 あわんだけ)の茶文字について
1932年(昭和7年)、銘茶の宣伝と観光効果を目的として松を植えました。遠方より眺めやすい様に構想を練り、縄に新聞紙をつけて遠くから眺め形を造ったといいます。トランシーバーや携帯電話のある現代と違い当時の苦労は並大抵のものではなかったと思います。しかし、松くい虫には勝てず、1985年(昭和60年)に約1000本のヒノキに植え替えられました。富士山空港からはっきり見ることが出来ます。この茶文字は、地元東山をはじめ掛川・静岡県民の誇りです。
「茶文字」を歩き、岳山 方面へ
コアジサイ
岳山(585.43m)山頂
三等三角点(カシヅカ)・岳山(別名 池代山)
南平広場
もう一度登り返して無間山 観音寺跡の横にある「南平広場」へ
茶草場農法に使う笹を刈る場
「草刈り場コース」で下山
粟ヶ岳で一番好きな場所です
阿波々の麗水