諏訪大社 上社 本宮・信濃國一之宮
上社本宮 | 信濃國一之宮 諏訪大社 公式H.P
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諏訪大社はその昔、須羽神、南方刀美神社、諏訪大明神と呼ばれていたそうです。
諏訪大社は全部で2社4宮、上社は本宮・前宮、下社は秋宮・春宮が存在します。
諏訪湖を挟んで、下諏訪町、諏訪市、茅野市にかけて建立されています。
どの宮も原始宗教の形を残し、本殿を設けておらず、
上社は神体山の守屋山を祀り、下社は神木を祀っています。
神体山、守屋山へ登った後、
前宮さらに直ぐ近くに鎮座する本宮へ参拝です。
さすが本宮、すごい人で賑わっています。
手水舎
高島神社
御祭神
諏訪頼忠公 大祝中興の祖・諏訪藩祖
諏訪頼水公 大祝高島藩初代藩主
諏訪忠恒公 高島藩二代目藩主
例祭日 9月23日本来の例祭日は9月23日だが
最近は8月12日に神裔の御参列のもと例祭を執行している。
諏訪氏は当大社の御祭神諏訪大神の子孫で上社最高の祀職大祝となり
更に藩主として政治を行った。
この祭政一致の形態は往古より続く諏訪の特徴である。
御祭神は江戸時代初期における
高島藩中興の藩主三代の御遺徳を尊びお祀りしている。
社務所
信濃國一之宮 諏訪大社 上社本宮
我国最古の神社の一つであり、信濃國の国造りをなされたのち、
日本国土の守護神としてこの地にお鎮りになり、
信濃國一之宮として皇室武門および一般の信仰が厚く、
全国一万有余の諏訪神社の総本社です。幣拝殿と片拝殿のみで本殿を持たない、諏訪造りという独持の様式。
徳川家康が造営寄進したと言う四脚門など貴重な建造物が数多く残っております。
六棟は国の重要文化財に指定。JR中央線上諏訪駅から東南へ六キロ、
守屋山の山麓で中部地方唯一と言われる原生林に抱かれる如くに鎮座しております。
諏訪大社は社殿の四隅におんばしらと呼ぶ大木が建ち幣拝殿や左右片拝殿が横に並び、
本殿を欠く等社殿の配置にも独特の形を備えています。中でも本宮は諏訪造りの代表的なもので、建造物も四社の中で一番多く残っています。
また神体山を拝するという大きな特徴を持ち、祭祀研究の上からも注目されております。境内のほぼ真中に東宝殿、西宝殿と言う二棟の茅葺の建物があります。
本宮で最も大切な御社殿で、寅年と申年毎に交互に建替がなされ遷座祭が行われます。
軒からはどんなに干天の日でも最低三粒は水滴が落ちるといわれ、
七不思議の一つに挙げられ、諏訪大神が水の守護神として
広く崇敬される根元にもなっております。本宮の昔の建物は極彩色が施されておりましたが、
天正十年(1582)に織田信長の兵火のため、
山中に逃れた神輿の他はすべて焼失しました。
この時まず仮殿が作られ順次再建され社殿は元和三年(1617)に完成しました。
その後約二百年を経て諏訪藩主に依り社殿の改が計画され、
立川和四郎二代目富昌が上社棟梁と共に事に当り、
天保二年から九年(1838)迄八年の歳月を要し現在の社殿が落成し、
立川流の代表的建築物と言われえております。
尚旧殿の拝殿は嘉永二年(1849)に郡内の富士見町乙事の諏訪神社へ移築され、
桃山時代の代表的建造物として重要文化財に指定 されております。本宮最古の建物は四脚門で、慶長十三年(1608)に
徳川家康が家臣大久保石見守長安に命じ、
国家の安泰を祈願して造営寄進したもので、別名を勅使門とも言います。神楽殿は文政十年(1827)の建立で、色々な神楽が連日行なわれていたようですが、
残念なことにその神楽は現在絶えております。
中にある大太鼓は江戸時代のもので、唯今では大晦日のみ打つことにしております。
諏訪大社
旧官幣大社(現、別表 神社)。
当社は上社と下社があり、上社に 本宮と前宮、下社に春宮と秋宮とがある。
これに六〇余の境内、境外の摂末社がある。
上社と下社は諏訪湖をはさんで鎮座す る、
神氏の奉斎にかかるわが国有数の古 社である。
上社の前宮は、本宮の前身と考 えられ、下社の場合、一月一日より
七月末 まで祭神を春宮に奉斎、八月一日、遷座祭 を行い、一二月末まで秋宮で奉斎する。
上 社本宮・前宮・下社春宮・秋宮ともに、四 隅に自然木の柱を立て、
この中を、最も清 浄な神地としているが、この柱は、申・ 寅の年、
つまり七年ごとに建替えられる。
この祭事は御柱祭といわれ、上社の御頭 祭(四月一五日)、
下社の遷座祭とともに重 要な祭儀とされている。
古来、当社は、諏 訪大明神・諏訪南宮大明神・諏訪南宮正一 位法性大明神などと称された。
また、全国 いたる所に分社が奉斎され、その数は一万 社を超える。
孝徳天皇八年(六五二)一二月、 信濃国諏訪郡南方刀美神社に勅使が遣わされて、
綿一○○把が奉献され、持統天皇五 年(六九一)八月にも勅使が遣わされた。
大宝 三年(七○三)には祈年の奉幣に預かり、承和 九年(八四二)五月、
信濃国諏訪郡无位勲八 等南方刀美神に従五位下が授げられ、
貞観 九年(八六七)三月従一位、天慶三年(九四〇) 正一位に叙せられた。
神領は、貞観七年 (八六五)七月信濃国諏訪郡の水田二段が、神 社田に加えられ、
延暦二○年(八〇一)二月、 諏訪郡田畠山野各一○○○町、稲八万四○ ○○束を以て、
当社年中の祭祀に充てられ、 大同元年(八〇六)本国封七戸が寄せられた。
『延喜式神名帳』に「南方刀美神社二座」 とあり、名神大社に列し、
祈年の班幣に預 かった。
また信濃国一の宮として、信濃国 はもとより、全国至る所に分社が奉斎され、
幅広い崇敬が寄せられた。
当社の祭神、建御名方神は、建御名方富命、または南方刀 美神ともいわれ、
大己貴命(大国主命)の御 子神にあたる。御母神は、高志沼河姫命。
御兄神に事代主神がある。八坂刀売神は、 建御名方神の妃神で、御子神が一三柱ある。
鎌倉時代以降、特に武門武将の崇敬篤く、 社領の寄進が多くあり、
武田信玄・勝頼父 子は、祭祀を復興、社殿の造営を行った。
徳川幕府は、慶安元年(一六四八)以降上社に 一○○○石、下社五○○石の朱印を奉献、
諏訪藩に於ても、社領の寄進が行われ、明 治に至った。
明治四年(一八七一)五月一四日、 国幣中社に列せられ、
同二九年四月一四日 官幣中社、大正五年(一九一六)一二月一二日、
官幣大社に列せられた。例祭上社四月一五 日、下社八月一日。
勅願殿
勅願とは天皇の祈祷という意味である。
当社の場合この建物は御祈祷を行う場所である。
建立は元禄3(1690)年といわれ建物の配置は
諏訪大神の御神霊が宿る守屋山(御神体山)に向かい
建てられ古図には祈祷所と記されている。
幣拝殿が大社の恒例祭典や重要神事を齋行して
国家安泰並公事の祈願を執行する場所であるのに対して
勅願殿は個人私事の祈祷を行う場所である。
信濃国一之宮 諏訪大社 上社本宮
我国最古の神社の一つであり、信濃国の国造りをなされたのち、
日本国土の守護神としてこの地にお鎮りになり、
信濃国一之宮として皇室武門および一般の信仰が厚く、
全国一万有余の諏訪神社の総本社である。諏訪大社上社社叢約11.5ha
この社叢は落葉樹からなる自然林として
多種多様の樹木と多くの美しい植物群落を同一箇所で見られる
珍しいもので亡びつつある中部地方天然落葉樹林の林相の保存されている
貴重な樹叢である。
クリ、カエデ類、フジキなど木本160余種、ヤマブキソウ、レンプクソウ、
ミヤマイラクサなど草本420余種が成育している。諏訪大社上社本宮幣殿等六棟
この建築は天保6(1834)年に上棟式をしており、工匠は上諏訪の人、
幕府から内匠の称号を許された名匠二代立川和四郎富昌の代表作であり、
また左片拝殿にみる蟇股から脱化した
粟穂に鶉の彫刻は写生に徹した富昌の至芸である。
武田信玄に滅ぼされた諏訪頼重は諏訪氏の当主であると同時に
諏訪大社の大祝でもありました。
大祝というのは現人神:あらひとがみとして諏訪大社の頂点に位置していた役職で
上社と下社で別々の大祝が存在していたそうです。
上社の大祝が諏訪氏、下社の大祝が金刺(かなさき)氏でしたが、
下社は上社の諏訪氏に滅ぼされて大祝はなくなりました。
御柱とご神木
神楽殿
諏訪大社の神楽殿は、市指定文化財にもなっています。
四方向すべて吹き通しとなっており、入母屋の大きな屋根が架かる。
中には、龍神が描かれた太鼓が奉納されており、
これに使用された皮は1枚皮では日本で最大のサイズ。
諏訪大社には、「七石」「七木」「七不思議」といわれるものがあり、
自然崇拝を示しています。七石
硯石 本宮拝殿横
御沓石 本宮一之御柱後方
御座石 御座石神社(茅野市)境内
小袋石 茅野市宮川高部
児玉石 児玉石神社(諏訪市)境内
蛙石 不明
亀石 不明七木
「七木湛」ともいわれ、これらの木の下で湛神事が行われた。
桜湛
真弓(檀)湛
峰湛
千草湛
橡木湛
柳湛
松木湛上社七不思議
御神渡
諏訪湖が氷結した数日後の夜明け、
上社から下社の湖岸に向け、亀裂が走る。
上社の男神が下社の女神のもとへ通う道筋と考えられている。
蛙狩
御手洗川の氷をくだき、赤蛙二匹を捕らえ、神前で柳の矢で射抜く。
矢串のまま供物とする。
宝殿の天滴
どんなに晴れた日であったも、御宝殿の屋根から、最低三滴の水滴が落ちる。
高野の耳裂鹿
前宮十間廊に供される七十五頭の鹿の中に、かならず一頭、耳裂け鹿がいる。
御作田の早稲
秋宮と春宮の中間にある御作田社の斎田では、六月三十日に田植えをし、
一ヵ月後の八月一日には神前に供することが出来たという。
葛井の清池
大晦日、本宮幣殿の御幣束を葛井神社境内の池に沈めると、
翌元旦には遠州さなぎの池に浮かび上がるという。
また、この池には片目の魚がいるとも。
穂屋野の三光
御射山社祭の折、太陽・月・星を同時に拝すことができる。
五間廊と勅使殿
五間廊
現在の建物は安永2(1773)年の建造であり、廊下様式切妻造りである。
古記録には神長官・祢宜太夫権祝・擬祝・副祝の五官着座のことが見えている。勅使殿
現在の勅使殿は元禄3(1690)年の創建であり
安政年間に大修理を加えてある切妻流れ正面大唐破風造りである。
中央の記録では、神門戸屋・帝屋とも書かれており
建武2(1335)年大祝即位の記録には御門戸屋にて神事があり
社殿に布を敷いて其の上に五穀を供えそこに大祝が着座したことが見えている。
また勅使参向の折には幣帛の授受が行われた所である。
元旦の蛙狩神事や御頭受神事も行われた所である。
当時の勅使殿は今の神楽殿の前あたりにあり拝殿の性格をもっていた。
御朱印