天方本城址(あまがたほんじょうあと)静岡県周智郡森町大鳥居字八幡




天方本城址(あまがたほんじょうあと)静岡県周智郡森町大鳥居字八幡

静岡県森町 – 周智郡
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静岡県周智郡森町大鳥居字八幡、

森町立天方小学校の裏に八幡宮がありますが、

裏山は天方本城(あまがたほんじょうあと)であったと伝わります。

天方本城址

築城年
南北朝末期~室町時代前期
築城主
天方山城守通秀
様_式
山 城
遺構
郭・掘切
所在地
周智郡森町大鳥居字一の瀬海戸

県道58号線が県道399号線と分岐する付近。
大鳥居にある天方小学校の西北の山

天方本城址

応永年間(1394年-1428年)、周智郡森町大鳥居の地に
山内対馬守道美(みちよし)が城を築いた後、
飯田の丘陵に飯田城を築いたことで、
弟の山内山城守に城を譲り移っていったとされています。
『寛政重修諸家譜』によると、「通秀・遠江国天方城に住し天方を称す」とあることから、
通秀から天方姓を名乗ったと記されています。
地元森町地方の文献や記録には通秀の名が見られませんが、
山城守は通秀あることが一般的とされています
その後、二代~四代の歴史は文献にも見られず不明です。
五代目以降になると城の攻防戦が行われる中で、史料にも記されるようになります。
しかし、五代城主通季(みちすえ)は既に天方新城に移っていたとされることから、
天方本城は支城のひとつとして存続していきます。

『五代城主以降の歴史について』

文亀元年(1501年)秋、遠江国守護の斯波義寛と今川氏親の間で戦が始まると、
天方城もその渦中に巻き込まれます。
この時の城主は五代天方通季(みちすえ)でした。

永禄11年(1568年)遠江に侵攻した徳川家康は、
今川方の属将を次々に攻め、その攻撃は七代城主通興(みちおき)と
飯田城主山内通泰にも及びます。両城主とも徳川氏に従属しなかったことで、
翌年6月19日に天方本城と支城の白山城が攻略されます。
このため天方通興は降状しますが、
山内通泰は最後まで抵抗したため全員討死にしています。
元亀4年(1573年)3月、三方ヶ原の合戦で大敗した徳川家康は、
遠江地方での勢力奪還を図ろうと奔走する。
その頃は武田方に付いていた天方通興は、
久野弾正宗政と共に天方本城と白山城で交戦するも敗北し、降伏を許されます。
天正2年(1574年)4月、犬居城主天野氏を攻撃するため出陣した徳川軍は、
豪雨と兵糧の欠乏により撤退を余儀なくされます。
三倉の田能・大久保で武田方の樽山・光明の城兵の待ち伏せに遭い惨敗。
徳川家康は天方本城に入ります。
二の郭跡付近天正7年(1579年)9月15日二俣城において、
徳川信康の介錯をつとめた八代城主通綱(みちつな)は、
信康の首を落としたという自責の念にかりたてられ高野山に登り仏門に入りますが、
福井城主結城秀康に召し抱えられ、越前天方氏の祖となります。

北側吉川に面した所は城ノ腰と言われ砦址と考えられる。

太田川と吉川の合流点、大鳥居にある八幡社。

背後の山は本城山(158m)と呼ばれる。

大変立派な神社です、武家の社らしく八幡宮。

八幡宮 森町(天方村)の記事

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