小山城(こやまじょう)能満寺山公園・静岡県榛原郡吉田町




小山城(こやまじょう)能満寺山公園・静岡県榛原郡吉田町

小山城 (遠江国) – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/小山城_(遠江国)

静岡県榛原郡吉田町の小山城跡(能満寺山公園)へ

小高い山の上にある展望天守閣は150号沿いからも良く見える。

公園内までは車の乗り入れができない。

能満寺前に無料の駐車場があります。

能満寺

由緒
弘長2年(1262)創建の臨済宗妙心寺派の古刹。
元寇の役(文永の役=1274)が起こると勅願寺として
官寺に列せられた名刹。地元では「智恵の仏様」として知られている。
茶阿の局(家康の側室・松平忠輝の母)は故郷・金谷付近の寺院に
手厚い保護を加えたが、能満寺はその筆頭で」
慶長5年(1600)30石の寺領を寄進している。
また家康の病気全快祈願を能満寺重商国依頼した茶阿の局直筆の手紙が残されている。
山門は江戸初期の元和3年(1617)建立。寺の伽藍中最古。
中門は四方に破風をもつ特徴ある建物。本堂は元禄元年(1688)再建で入母屋造。

大ソテツ
大正13年(1924)天然記念物指定
根回り約4,5m・中央の高さ約6m、樹齢約1000年。
「日本三大ソテツの一つといわれる代表的巨樹である。
寺伝によると平安時代の陰陽学者安倍晴明(921~1005)が
中国から995年に持ち帰って植えたといわれている。
また徳川家康に所望され、駿府城に移したところ、
「能満寺へ帰りたいと夜ごとに泣くため元に戻された。(遠州七不思議)

能満寺(のうまんじ)遠州七不思議の記事


能満寺山公園案内図

能満寺山公園へは能満寺の境内を通り

急な参道階か比較的緩やかなスロープ状の女坂で上まで登る。

登り詰めた所にある祠


小山城

小山城は能満寺山公園として良く整備されていて

遺構もよく保存されています。


馬出

馬出

虎口の前に設けられた施設で、
人馬の出入りを敵に知られないように工夫して築いた土手。
城外から城内へは、土橋を渡ってゆききする形になる。
一般的な形としては、的山(あずち)馬出・丸馬出・角馬出の三つがあり、
馬出を二つ以上重ねた重(かさね)馬出等もあった。
完全な遺構としては篠山城がある。
馬出が大きくなると「馬出曲輪」とか「出丸」と称して一つの曲輪になる。

虎口(こぐち)

城の出入り口を虎口と言い、主に戦闘面の出入り口をいう。
一の門にあたる所が虎口で、小さく出入り口を築く小口より語源がある。
虎口といわれるのは、城の最も重要な所なので、
猛虎の歯牙(しが)にたとえたといわれる。


能満寺山公園案内図

三日月堀

武田氏独特の築城によるもので、三日月の形をしている。
一般に堀には大別して、水をたたえた「水堀」、すなわち「濠」と、
掘ったままの「空堀」があり、山城の場合は空堀が一般的。
城外と城内の境として掘られる他、曲輪と曲輪を区切るためにも用いられるが、
竪(たて)堀(ぼり)といって、敵兵の左右への移動を阻害するために設けられたものもある。」
形状から堀底に障子の桟(さん)のような突起を残した障子堀(畝状の場合には畝堀)、
丸馬出に付属するため半円形の形をとる三日月堀などがある。

天守閣展望台の手前に見えるのが三日月堀。

小山城

所在地
榛原郡吉田町片岡字能満寺山
形 式
連郭式平山城
(一の曲輪・二の曲輪・三の曲輪)
遺構
曲輪・堀・土塁など。
犬山城を模した模擬天守(資料展示室)
築城者
馬場信房
築城年代
元亀二年(1571)

交通機関
JR静岡駅(北口)より特急バス 御前崎方面行き吉田高校前下車
JR島田駅 よりバス榛原方面行き吉田高校前下車
JR藤枝駅(南口)よりバス榛原方面行き(遠州神戸経由)吉田高校前下車
何れも下車後、徒歩5分

小山城の歴史

小山城は今川氏によって築かれた「山崎の砦」が起源といわれているが、
その規模は不明。
今川義元の死後、大井川を境として西を徳川領、東を武田領」とする密約を結び、
今川領に侵攻したが、大井川を越えて山崎の砦に入り「小山城」を築いた。
一方密約を破られた徳川家康は、松平左近真乗に小山周辺の知行地を与えた。
その後数度のにわたる攻防戦の結果、元亀元年(1570)
小山城は松平氏の領有する所となった。
しかし、翌2年武田軍は2万5千の兵をもって小山城を攻撃し奪還。
小山城の本格的な築城はこれ以後といわれる。
その築城は馬場美濃守信房をもって堀・土塁を築き修築し、
城主に大熊備前守長秀を当てた。
元亀3年(1572)12月、三方ケ原の戦いで、
家康を追いつめた武田信玄であったが、天正元年(1573)に陣中で病没し、
跡を継いだ勝頼は、髙天神城を落として武田家の最大版図を築くが、
天正3年(1576)設楽・長篠の戦いで織田・徳川の連合軍に大敗して、
急速にその勢力は衰退した。
天正9年(1600)3月、髙天神城が徳川勢に攻略されると、
もはや小山城を維持するだけの余力もなく、
天正10年(1601)城に火を放ち甲州へ落ちのびた。

天守閣展望台の1、2階は史料展示室として

町ゆかりの歴史史料や甲冑などが展示されている。

3階が展望台となっており、町内を一望のもと見渡せます。

入場料200円(子供100円)。

三重堀

守りを堅固にするために、三つ並べにしてある堀。
小山城落城後、この堀に身を投げた武田方女子の化身した
赤い唇の「蛭」が住むようになったという伝説がある。

三重堀を進んだ所に吉田町郷土資料館。

勘助井戸

武田氏の軍師山本勘助の声がかかっていると伝えれる井戸。


大手門

小山城への出入り口門、

能満寺からの他大手門側からも登ることができる。

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