能満寺(のうまんじ)能満寺のソテツ(遠州七不思議)・静岡県榛原郡吉田町




能満寺(のうまんじ)能満寺のソテツ(遠州七不思議)・静岡県榛原郡吉田町

能満寺のソテツ – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/能満寺のソテツ

静岡県榛原郡吉田町、小山城跡下

遠州七不思議「能満寺のソテツ」で有名な能満寺(のうまんじ)へ

遠州七不思議(えんしゅうななふしぎ)とは、静岡県の遠州地方に伝わる七つの不思議な物語のことです。遠州七不思議といっても組み合わせには諸説あり、合わせると7つ以上存在します。地域によって話が違っていたり、一定したものではないようです。

小山城公園下の駐車場から天守閣展望台、

城跡までは境内を通ります。


山門

鬱蒼とした境内、

蘇鉄が所々に生い茂ります。


大師堂 辻のお大師様

大師堂 辻のお大師様
(片岡之辻弘法大師)

弘法大師
合祀
聖観世音菩薩
地蔵願王菩薩
馬頭観世音菩薩

弘法大師は、現世御利益の宗祖で、
この大師堂最初の発願は記録消滅のため不詳出あります。
大変に地域住民の信仰を集め、大正時代初期から近年に至るまで、
年に一度盛大なる供養会が行われており、
土地の古老は当時の光景を伝えてくれます。
その話から随分以前より大師堂が存在していたことが推測されます。
又、聖観音・地蔵尊等は近所の地点より合祀されたと思われます。
馬頭観音は、旧田沼街道改め新道(しんみち今の一五〇線)が東西に通り、
一方島田街道が南北にここを貫き、交通の要となったこの地点に同じく
合祀されたものではないかと思われます。
現在この仏様はペットの供養仏として信仰されています。


本堂

能満寺

この地域では知恵の仏様として知られている、
臨済宗妙心寺派の寺院である能満寺が創建されたのは
弘長 2年(1262)で、文永11年(1274)、
元寇の役(文永の役)が起こると、勅願寺として官寺に列せられた。
能満寺の本堂の前には、かつて参勤交代の際に東海道を往来した
諸大名が見学に訪れたという大ソテツがあるが、
大阪府堺市の妙國寺のソテツ、静岡市清水区の龍華寺のソテツとともに
「日本三大ソテツ」に数えられおり、推定樹齢は1000年、高さ約 6メートル、
根元の周囲は約 5メートルあり、国の天然記念物に指定されている。
寺伝ではこのソテツは平安時代の陰陽師の安倍晴明が長徳元年(995)に
中国から持ち帰り植えたと伝えられており、又、このソテツには
家康公にまつわる次のような伝承がある。
家康公が大御所として駿府城に在城していた頃のこと、
能満寺を訪れた家康公がこのソテツを大そう気に入ったため、
駿府城に移植されたという。
しかしソテツは「能満寺に帰りたい」と夜な夜な泣くため、
哀れに思った家康公は再び能満寺に戻したと伝えられている。
尚、背後の能満寺山は、かつて家康公と甲斐の武田氏との間で攻防が繰り広げられた
小山城の跡地でもあり、現在一帯は能満寺山公園として整備されており、
三日月堀などが残る他、三の丸跡には犬山城天守閣を模した展望台
(資料展示室)が建てられている。


能満寺の大ソテツ

大ソテツ
大正13年(1924)天然記念物指定

根回り約4,5m・中央の高さ約6m、樹齢約1000年。
「日本三大ソテツの一つといわれる代表的巨樹である。
寺伝によると平安時代の陰陽学者安倍晴明(921~1005)が
中国から995年に持ち帰って植えたといわれている。
また徳川家康に所望され、駿府城に移したところ、
「能満寺へ帰りたいと夜ごとに泣くため元に戻された。(遠州七不思議)

※日本三大ソテツ…大坂・堺の妙国寺、清水市の龍華寺のソテツ
江戸時代後期の史跡名勝案内図「遠江古蹟図絵」には、
東海道を参勤の諸侯がわざわざ見物に立ち寄ったとの話が記され、
七不思議の「夜泣き伝説」も図絵に紹介されている。

※能満寺の蘇鉄
「遠江古蹟図絵」全 修訂解説 神谷昌志 銘文出版社
「金谷より南西の方に当たりて、榛原郡吉田村に能満寺と云ふ臨済派の禅寺あり。
この本堂の前右の側に大蘇鉄有り。長さ二丈余、枝数当年十五本、
右の方へ差したる枝三間余。小枝は短し。
寺の軒より高く、門前より見湯。大坂堺の妙国寺蘇鉄は枝数多きを称美し、
能満寺は長(たけ)高きを賞翫(しょうがん)す。日本の蘇鉄と云ひ伝ふ。
参勤の諸侯方も聞き及ばれ、東海道通行の節はこの寺へ尋ね見物有る由成。
俗説に曰く、往古の蘇鉄大名家へ所望競られ、
遣はせし處、夜々能満寺へ帰らんと泣きたる由、
詮方なくもとへ返せし隣。近来、寺の再建出来て立派に建つ。
この蘇鉄、幾年前植ゑしや、その始めを知らず。」


鐘楼


大日如来 堂

大日如来

大日如来は不思議な仏様である。
一切の仏菩薩を統一した絶対の仏であり、如来の王であり、
また諸仏の中心に位置している(曼荼羅)死の苦悩に対し安心を与えてくれる
阿弥陀如来、いろいろの病気から守ってくれる薬師如来等々、
それらの諸仏の根源であり又諸仏をまとめる役割をしてくれる仏様である。
大日如来は太陽の光みたいに輝かしい仏様で、しかも太陽よりも大きく、
陰日なたを作らない光量をもつ仏様である。公平で偉大な光であります。
大日如来は常に法身の如来であり、仏教の大道を表しています。
その法は生ぜず滅せず、三世を通り、常に衆生救済の手を垂れて、
我々の悩みを救って下さるのです。
この世を理智の世界に分け、理の世界を表すのに胎蔵界曼荼羅で示し、
仏の世界印しています。
それは慈悲の行をおこさしめるよう図表になっている。
どの仏と因縁を結んで仏門に入り 修行の世界が理解できるようになって居る。
智の世界を表すには金綱界曼荼羅という図 表で劣った人間の智恵を
どう磨いて仏の世界へ行かせるかを表してあります。
この二つの世界で衆生の苦悩が悟りの境地へと導かれるのです。
順序としては胎蔵界を見て仏の世界を認識し、どの仏につき教えを頂き、
どの修業をするかを決め、金綱界に移って自分を磨くということになります。
大日如来は諸仏の根元であり、諸仏を統率しながらも
如来自らは目立たず地味で静かなる仏様である。
十二支の守り本尊は未(ひつじ)申(さる)を受け持っています。

胎蔵界真言
アビラウンケン(地水火風空)
金綱界真言
オンバザラダドバ(帰命金綱界種字)


吉祥不動明王 堂

小山城跡

所在地 片岡2519-1
町指定文化財第四号
指定日 昭和239年4月1日

小山城は、戦国末期の平山城である。
遠州進出を企てた武田信玄は、その重要拠点である
「小山の砦」を攻略し、元亀二年(1571)砦を修築し、
小山城と命名し、大熊備前守長秀を城主とした。
徳川軍はこれを攻め取ろうとして、十余年にわたり激しい戦いが繰り返されたが、
天正10年(1582)2月遂に落城した。
城跡には三日月堀、三重堀、井戸等が残り、落城の悲しい物語がある。

小山城跡

現在、能満寺山公園となっている場所は
戦国時代に武田氏の平山城が築かれていました。
永禄11(1568)年、武田信玄は遠江をおさえる第一歩として、
この地に砦を築きました。
その後、元亀2(1571)年、城郭を備えて新たな名前を付けたのが「小山城」です。
城を攻めようとする徳川家康との激しい戦いが、
何度もこの地で繰りかえされましたが、敗北を悟った武田方は自ら城に火をかけ、
甲州へ落ちていきました。
現在、三重堀などの遺跡や「展望台小山城」内の武田氏ゆかりの品々が、
当時の面影を偲ばせています。
上記の歴史から小山城には悲しい伝説があります。
三重堀にある勘介井戸には、赤い口の蛭がいます。
敗北を悟った武田軍は城に火をつけ本陣の甲府へ逃げ帰ろうとしました。
その際、当時の大井川の激流を渡るには女子供は足手まといになるだろうと
愛する夫の無事・帰郷を祈りながら女たちは自ら井戸に身を投げ、
その霊たちは口の赤い蛭へ姿をかえたという伝説があります。

能満寺のソテツ

能満寺にある樹齢1000年のソテツは、高さ約6メートル枝数約90本あり
「日本三大ソテツ」のひとつに数えられ国指定の天然記念物となっています。

【遠州七不思議と伝説】
その昔、陰陽師の安倍晴明が大井川をながれてきた大蛇を葬り、
そこに中国から持ち帰ったソテツを植えたところ
このような姿になったと言われています。
また、徳川家康がこのソテツを大変気に入り
海から船を使い苦労して駿府城へ移植したところ、
その日から夜になるたび「いのう…(帰ろう)いのう…(帰ろう)」と
なく声が聞こえるようになったため、
家康は故郷が恋しくて泣いている大ソテツを
能満寺へ帰してあげたという言い伝えがあります。


御朱印

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