昭憲皇太后(伏見桃山東陵)・京都府京都市伏見区




昭憲皇太后(伏見桃山東陵)・京都府京都市伏見区

伏見桃山陵 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/伏見桃山陵

明治天皇の皇后、昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)

旧名 一条美子(いちじょう はるこ)陵墓

陵名のとおり明治天皇陵の東隣にあります。

明治天皇陵と同じ形ですが、少し小振りのつくりです。

照憲皇太后(明治天皇皇后)

陵名
伏見桃山東陵(ふしみのももやまのひがしのみささぎ)
陵形
上円下方墳
所在地
京都府京都市伏見区桃山町古城山
最寄駅
桃山御陵前駅(近鉄京都線)桃山駅(JR奈良線)

一条美子(ハルコ)

明治天皇皇后。
一条忠香と新畑民子の子。
明治元年に入内し、皇后となった。
華族女子学校(現・学習院女子高等科)や
東京女子師範学校(現・お茶の水大学)の創設に寄与しており、
特に日本赤十字社の発展に大いに寄与した。
明治天皇との仲は良く、天皇は皇后の鼻筋の通った日本人離れした顔をからかい
「天狗さん」と呼んでいたという。
また、人前では吸うことはなかったが大変パイプ好きだった模様。
なお、明治天皇との間には子がいなかったため、
側室の子である嘉仁親王(後の大正天皇)を養子とした。
明治天皇が崩御すると皇太后に立てられた。
65歳で崩御。

※皇太后号について
照憲皇太后は実際は正式な皇后であったので本来は照憲「皇后」なんですが、
なぜか「皇太后」と呼ばれています。
(皇太后経験者でも、生前立后していれば崩御後の号は通常「皇后」)
これは、先帝孝明天皇の女御九条夙子が立后せずに皇太后となったので、
それにならって奏上され、大正天皇が裁可してしまったため、とされています。
(ちなみに、明治天皇も大正天皇も側室の子。)
後に誤りに気づき、皇后への変更を奏上したんですが、
天皇が一度裁可したことは取り消せないとされていたため、
現在に至るまで「皇太后」と呼称されてるのです。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加