第54代 仁明天皇(深草陵)・京都府京都市伏見区深草東伊達町




第54代 仁明天皇(深草陵)・京都府京都市伏見区深草東伊達町

天皇陵 仁明天皇 深草陵
http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/054/index.html

伏見稲荷大社から南下、

藤森駅の東方、名神高速沿いにありますが、

住宅地の真ん中にあり少し解りにくいです。

仁明天皇(深草陵)

代数
第54代
天皇名
仁明天皇(にんみょうてんのう)
御父
嵯峨天皇
御母
皇后嘉智子
御陵名
深草陵(ふかくさのみささぎ)
陵形
方形
所在地
京都府京都市伏見区深草東伊達町

第54代天皇 仁明天皇

御名
正良親王(マサラ)
生没年
弘仁元(810)年~嘉祥3(850)年
在位
天長10(833)年~嘉祥3(850)年
続 柄
(父)嵯峨天皇、(母)皇后橘嘉智子

叔父の淳和天皇の譲位を受け天皇に即位した。
はじめ、淳和天皇の皇子恒貞親王を皇太子にしたが、
父嵯峨上皇が崩御すると承和の変
(恒貞親王の保身のために東宮坊が画策した恒貞親王東国移送計画が発覚し、
東宮坊の役人(橘勢成等)が処分された事件)が発生し、恒貞親王は廃太子となった。
代わって立太子したのは仁明天皇の皇子道康親王(後の文徳天皇)であり、
変の裏では、自らの子を即位させたい仁明天皇の意志と、
甥を即位させたい藤原良房(道康親王の叔父)の意志が働いていたとされている。
なお、仁明天皇は生来病弱ではあったが、それ故に薬の知識が並はずれており、
自ら処方した薬を側近らに試飲をさせるほどだったという。
在位18年、上皇年数2日、41歳で崩御した。

嵯峨天皇の第二皇子。
叔父にあたる淳和天皇の譲位を受け即位。
淳和上皇の第二皇子、恒貞親王を皇太子とした。
桓武天皇(50代)の皇子達による政治は比較的安定していた。
最澄・空海らによる比叡山開山や唐風文化の宮中浸透など、
儒教精神に基づく徳治政治が押し進められた。
52代嵯峨天皇、53代淳和天皇、そしてこの54代仁明(にんみょう)天皇による
3代の治世を「崇文の治」(そうぶんのち:809~850)と呼んでいる。
しかし、淳和上皇、嵯峨上皇ともに健在のうちは世情も安定していたが、
絶大な権力者であった嵯峨上皇が承和9年(842)崩御すると、
その年の7月15日、伴健岑(ばんのこわみね)、橘逸勢(たちばなのおとせ)らによる
「承和の変」(じょうわのへん)が勃発する。
伴・橘らは流刑となり、彼らにかつがれた恒貞親王は廃太子となる。
この乱をきっかけに、これ以後皇位継承をめぐる乱世へと突入していく事になる。
恒貞親王を廃太子した後は、自身の第1皇子である道康親王(後の文徳天皇)を後継に立てた。
これにより、平城―嵯峨―淳和―仁明と続いた王統の迭立(てつりつ。)の原則が崩れ、
嵯峨―仁明―文徳の直系王統が成立した。
嘉祥3(850))年、出家した直後病により崩御。山城国紀伊郡の深草山陵に葬られた。
仁明期は、それまでの漢風文化から国風文化の転換期で、
宮廷文化の成立期と位置づけられているが、
皇位は藤原氏を外戚とする道康親王に移り(文徳天皇)、やがて藤原氏全盛時代を招くことになる。

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