鎌倉宮(かまくらぐう) 神奈川県鎌倉市二階堂
鎌倉宮(大塔宮)H.P
http://www.kamakuraguu.jp
鎌倉でも行きたかった神社がここ「鎌倉宮」です。
非業の最期を遂げた護良親王をご祭神とします。
鎌倉宮
後醍醐天皇の皇子である護良親王を祭神とする神社です。
護良親王は、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の動きに呼応して
幕府軍と戦うなど、貢献しました。
幕府が滅亡し天皇親政が復活(建武の新政)すると
征夷大将軍に任じられましたが、その後足利尊氏と対立して捕らえられ、
二十八歳で非業の最後を遂げました。
社殿の後ろに残る土牢が親王最後の地と伝えられています。
十月には境内で薪能が催されます。
厄割り石
鳥居をくぐると、すぐ右側に盃割り舎があり厄割り石が置いてあります。
盃割り舎は拝殿前の階段下にもあります。
盃に「フーッ!」と息を吹きつけて、自分についた悪いものを移し
この石に投げつけて割ると、厄を払うことができるとされています。
手水舎
二の鳥居
拝殿
本殿
御祭神
主祭神
大塔宮 護良親王
摂社 南方社
御祭神 持明院南御方
村上社
御祭神 贈従三位左馬権頭村上彦四郎義光公
例祭日
八月二十日(護良親王の命日にちなむ)
本殿
神明造
社紋
山桜御由緒
主祭神 大塔宮 護良親王
護良親王は延慶元年(1308年)に後醍醐天皇の皇子としてご誕生になりました。
6歳の時に京都の三千院にお入りになりますが、11歳で比叡山延暦寺に入室し、
尊雲法親王と呼ばれ、天台座主となられます。
当時、鎌倉幕府の専横な政治に、父帝の後醍醐天皇は国家の荒廃を憂えられ、
親王と共に元弘元年(1331年)6月、比叡山にて討幕の挙兵をする手筈でした。
しかし、この計画は幕府の知るところとなり天皇は捕らえられ、隠岐に配流となります。
親王は還俗して、名を護良と改め、天皇の代わりとなって楠木正成らと、
幾多の苦戦にも屈せず機知を持った戦で大群を吉野城や千早城に引きつけました。
この間にも親王の討幕を促した令旨に各地の武士が次々と挙兵し、
中でも足利尊氏、赤松則村らが六波羅探題を落とし、
また新田義貞が鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府は北条一族と共に滅びます。
後醍醐天皇は京都に還御され、親王はこの功により兵部卿・征夷大将軍となられます。
しかし尊氏は征夷大将軍を欲し、諸国の武士へ自らが武家の棟梁であることを誇示した為、
親王は尊氏による幕府擁立を危惧し、兵を集めます。
ところが、逆に高氏の奸策に遭い捕らえられ、鎌倉 東光寺の土牢に幽閉されます。
建武元年(1334年)の11月15日の事です。
建武2年(1335年)7月23日 残党を集め鎌倉に攻め入った北条時行の軍に破れた尊氏の弟、
足利直義は逃れる際に、家臣 淵辺義博へ親王暗殺を命じました。
義博の凶刃に対して、親王は9ヶ月をも幽閉された御身では戦う事も出きず、
御年わずか28歳という若さでその苦闘の生涯を薨られました。
明治2年2月、明治天皇は建武中興に尽くされ、非業の最期を遂げられた護良親王に対して、
遥かに想いを馳せられ、親王の御遺志を高く称え、永久に伝えることを強く望まれました。
親王終焉の地、東光寺跡に神社造営のご勅命を発せられて、
御自ら宮号を「鎌倉宮」と名づけられました。
なお、明治6年4月16日、明治天皇は初めて鎌倉宮に行幸遊ばされました。
お休みになられた行在所は現在、宝物殿・儀式殿となっております。
拝観受付
拝殿の左側に、拝観受付があります。
ここで拝観料を払うと、奥まで入ることができます。
残念ながら、拝観時間までにはまだまだ時間があります。
中には、護良親王が幽閉された土牢・御構廟・神石・宝物殿などがあるそうです。
次回訪れた際に必ず!
村上社
御祭神
贈従三位左馬権頭村上彦四郎義光 公村上義光公は護良親王の忠臣とであり、
常に親王に近侍して辛苦を共にされ、
また一騎当千の豪勇で親王の危機を幾度となく救われた。
吉野落城に際しては、もはやこれまでと覚悟を決められた親王をお諫めし、
身代わりとなるべく親王の鎧直垂を着用して、腹十文字に掻き切って壮烈な最後をとげられた。
明治四十一年、真に至誠純忠の勇士として従三位を追贈された。
護良親王が最後の酒宴を開いたと言われる四本桜・銅灯籠、
村上彦四郎義光が壮烈な最期をとげた二天門跡がこちらです。
撫で身代わりの由来
村上義光公は、護良親王の忠臣にして、
元弘三年(1333年)正月吉野城落城の折、
最早これまでと覚悟を決めた護良親王は酒宴をされました。
そこへ村上義光公が鎧に十六本もの矢を突き立てた凄まじい姿で駆けつけ、
親王の錦の御鎧直垂を御脱ぎいただき自分が着用して
「われこそは、大塔宮護良親王ぞ、汝ら腹を切る時の手本とせよ」と告げて
腹を一文字に掻き切り、壮絶な最期をとげ、
その間に親王は、南に向かって落ちのびました。
このように身代わりとなられた村上義光公を
境内の樹齢百三年の欅の対木にて彫り上げ「撫で身代わり」として入魂いたしました。
鎌倉宮は建武中興十五社の一社です。
後醍醐天皇による建武の中興は、
それまでの武家中心の社会を天皇中心の社会に戻そうとしたものです。
これは、明治維新によって江戸幕府から実権を取り戻し
明治政府を樹立した明治天皇にとって大変意義深いものでありました。
明治以降に明治天皇の名により
建武の中興に関った人々を祀る神社がその縁地などに作られました。
太平殿
社務所でに御朱印を頂くことができますが、
まだ開いていません。
歩いているのを見かけた宮司さんにお願いすると
快く書いて頂くことが出来ました。
ちょうど前のページが同じ建武中興十五社の井伊谷宮
御兄弟の宗良親王をお祀りする神社です。
並んでの御朱印となりました。
御朱印
追記 2019年11月15日 再訪
鎌倉宮へ再訪
以前見ることができなかった護良親王が幽閉された土牢
御構廟・神石・宝物殿を拝観してきました。
本殿 南方社
本殿の裏にある土牢は、
足利尊氏に捕らえられた護良親王が幽閉されていたと伝わる岩窟
中の広さは4メートル四方で、ここに九ヶ月間にわたって幽閉され、
その後に足利尊氏の弟・直義の命を受けた淵辺義博によって殺害された。
土牢
鎌倉宮碑
鎌倉宮を創建した由来が書かれた鎌倉宮碑
宝仏殿
元々は1873年に明治天皇が鎌倉宮へ行幸された際の
行在所として建設された建物。
館内には、鎌倉宮の祭神である護良親王ゆかりの品々や、
歴代連合艦隊司令長官の書など多数くの宝物を展示している。
御朱印 大嘗祭