医王寺(医王寺山 121m)武田勝頼本陣跡・愛知県新城市長篠弥陀の前




医王寺(医王寺山 121m)武田勝頼本陣跡・愛知県新城市長篠弥陀の前

医王寺と医王寺山

愛知県新城市長篠弥陀の前にある長篠山医王寺

永正11(1514)年に創立されました。

曹洞宗で薬師如来を本尊とし、克補契嶽大和尚によって開山された寺院です。

天正3(1575)年の「長篠の戦い」の時には

背後の医王寺山(121m)に武田勝頼の本陣が置かれました。

境内の弥陀池には、勝頼の設楽原出撃を諌めたアシが、

勝頼の勘気にあって切りつけられ、片葉になったという「片葉のアシ」が生えています。

風切山 天神山

長篠城跡から

大通寺(大通寺山)〜医王寺(医王寺山)〜荏柄天神社(天神山)への

「長篠の戦」歴史探訪コ-スが整備されています

「長篠の戦い」歴史探求コース 医王寺

医王寺は永正十一(一五一四)年克補契嶷(こくほかいぎょく)大和尚・二世琴室契音(きんしつかいおん)大和尚によって創立された曹洞宗にお寺です。
一年を通し、四季折々の花々が咲き乱れ、春にはコブシにモクレン、夏には弁財池に咲き誇るハスが多くに人々の目を楽しませ、心を落ち着かせてくれます。秋には弥陀池にほとりのモミジが色づき、参道を染めます。冬にはクロガネモチが赤い実をつけ、白にほんのり紅をさしたサザンカとのコントラストがすばらしく、鳥たちのさえずりがひときわ賑やかです。四季を通して訪れる人々の多いお寺です。
天正三(一五七五)年に、織田・徳川連合軍と武田軍の間に起こった「長篠の戦い」では、ここ医王寺に武田勝頼の本陣が置かれました。勝頼は長篠城を包囲し、窮地陥った奥平貞昌は徳川家康に救援を要請しました。武田軍と織田・徳川連合軍は設楽原で激突し、連合軍は織田信長の考えによる火縄銃を用いた戦法によって、武田軍に圧勝しました。医王寺には長篠の戦いにまつわる伝説が残っています。決戦前夜のこと、勝頼の枕元に白髪の老人が立ち、「明日の決戦は無謀だ、戦いをやめて故郷に帰れ」といさめたところ夢うつつに勝頼はとっさに傍らの太刀をとり、老人の肩口に切りつけました。老人は煙のように消えましたが、翌朝、弥陀池久葦がすべて片葉となったというお話です。

弥陀池のほとりには、
「忠言元耳に逆らうひとは反求の深さを要す片葉千秋の恨み誰が為に心を尽くす」
と書かれた横山良仙作の漢詩碑がたっています。

曹洞宗 長篠山 医王寺 境内図

医王寺山武田勝頼本陣跡

新城市指定文化財
種別・名称 (史跡)医王寺山武田勝頼本陣跡

この医王寺山は、天正3(1575)年武田勝頼が長篠城攻略に際し、陣城として使った跡といわれ、広島市立図書館、浅野文庫所蔵の諸国古城図のうち「勝頼陣城」として描かれた絵図と同様な平坦地(曲輪)が今に残っています。
なお、ここは国指定史跡「長篠城跡」、市指定史跡「馬場美濃守信房の墓」を南に控え、「鳶ヶ巣砦」跡はじめ武田軍陣地の全部が展望できる位置にあたります。

医王寺山と医王寺

参道

弥陀池

長篠の戦い決戦 前夜、武田勝頼の枕元に白髪の老人が立ち、

「明日の決戦は無謀だ、戦いをやめて故郷に帰れ」といさめたという

勝頼はとっさに傍らの太刀をとり、老人の肩口に切りつけました。

老人は煙のように消えましたが、

翌朝、弥陀池久葦がすべて片葉となったという伝説が残る

「忠言元耳に逆らうひとは反求の深さを要す片葉千秋の恨み誰が為に心を尽くす」

医王寺と武田勝頼本陣跡

医王寺と武田勝頼本陣跡

長篠山医王寺は永正11(1514)年に創立され、曹洞宗で薬師如来を本尊とし、克補契嶽大和尚によって開山され、現在7つの末寺がある。
天正3(1575)年の長篠の戦の時、武田勝頼がここに本陣をしいた。境内の弥陀が池には、勝頼の設楽原出撃を諌めたアシが、勝頼の勘気にあって切りつけられ、片葉になったという「片葉のアシ」が生えている。
また長篠の戦の時使用した槍の穂先、矢尻、陣茶釜などが保存され、庫裡には民俗資料を豊富に集めた資料館がある。

山門

改修中の本堂

庫裏(寺務所)(2F 資料館)

三社堂・民族資料館

物見櫓

物見櫓が建つ医王寺山(121m)
「武田勝頼本陣跡」

ここ医王寺山では、長篠の戦いで、武田勝頼の本陣があったところです。天正3年(1575)4月、長篠城攻略のために1万5千の大軍を率いて甲斐の国を出発した武田軍は、4月20日~5月1日の間に4つの軍に分かれて三河に進出しているます。勝頼は4月下旬長篠城周辺に包囲網を敷き、ここ医王寺山に本陣を置きました。
5月8日 包囲を強め集中攻撃を始める
5月11日 野牛門方面で攻撃を開始
5月14日 強右衛門と金七郎は城を抜け岡崎城へ走る 二の丸・糧庫を奪われる
5月18日織田・徳川連合軍が設楽原に陣地をつくり始め、5月19日、武田本体は設楽原へ進軍を開始します。つまり、4月下旬から5月19日まで、勝頼はここ医王寺山にいたことになります。医王寺を出発して寒狭川(滝川)を渡った勝頼は、本陣を清井田へ、そして才ノ神へと進めます。5月21日早朝、背後の鳶ヶ巣山襲撃を知った勝頼は、馬防柵で待ち構える織田・徳川連合軍に決戦を挑みます。そして、最後の望みをかけ本陣を才ノ神より天王山へと移動していきます。決着は一日でつきました。連吾川を挟み、最前線で指揮をしていた勝頼でしたが、徐々に味方の敗北を知り、戦場から甲斐に向けて退却しました。勝頼にとってここ医王寺は、4つの本陣の中で唯一、勝利を夢見、幸せなときを刻んだ場所だったのかもしれません。

船着山 風切山 吉祥山

武田軍の陣が置かれた大通寺山 天神山の間に長篠城跡

常寒山~船着山の稜線下
5つのピークに武田軍の砦がありました

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