大通寺(大通寺山 110m)大通寺山陣地跡・新城市長篠大通寺
新城市長篠大通寺
長篠城跡の北200m程の場所に位置する小高い山は大通寺山(110m)と呼ばれ、
「長篠の戦い」において武田軍の陣地になりました。
応永十八年(1411)の創立と伝わる大通寺の裏手には
決戦を前にして武田四将「馬場信房・内藤昌豊・山県昌景・土屋昌次」が
湧水で別れの杯を酌み交わしたと伝わる 盃井戸があります。
長篠城跡より望む大通寺山
長篠城跡より
大通寺(大通寺山)〜医王寺(医王寺山)〜荏柄天神社(天神山)への
「長篠の戦」歴史探訪コ-スが整備されています。
「長篠の戦い」歴史探求コース
城藪稲荷
長篠城鎮守の稲荷をお祭りしてあります。
杯井
天正三年五月十九日、武田四将の馬場信房、内藤昌豊、山県昌景及び土屋昌次が決死の腹を固め、この泉に水を汲んで別れの水杯をかわしたといわれる井です。
達磨山大通寺
この寺は応永十八年(一四一一)の創立と伝えられています。のちに、琴室契音大和尚(長篠山医王寺二世)が曹洞宗に改宗し、地蔵菩薩を本尊として草創開山しました。
天正三年(一五七五)「長篠の戦い」の時には武田軍の武将馬場信房、小山昌行らの陣地となった所です。
達磨山大通寺
本尊 地蔵大菩薩
本尊延命地蔵は、平安時代中期の京仏師である春日定朝作と伝えられている。
由緒
応永十八年(一四一一)の創立と伝えられるが、天正の兵乱で古記録、重宝を失った。のち琴室契音禅師が医王寺を曹洞宗に改宗し嗣法長徳首座を開基とした。故に草創開山は琴室契音大和尚である。由来暦住の大和尚が十六代続き、現在は医王寺住職が兼任している。
境内堂祠
庚申堂内の庚申像は昔、橋場にあったものを当地に移したという。彩色極美である。城跡にあった城藪稲荷の石祠は享保二年(一七一七)の建立であるが平成十九年大道寺境内に移転した。
史跡
長篠城の本丸、巴城郭、瓢郭を眼下に見る丘にあって、天正三年(一五七五)の長篠の戦いの時、武田軍の宿将軍馬場信房、武田信豊、小山昌行等諸将の率いる二千人がこの大通寺山に配備されていた。医王寺山本陣で軍議が開かれ、設楽原に進撃と決まった時、敗戦を覚悟して寺の裏山の清水の涌井戸で馬柄杓で別れの杯を汲み交わした杯井戸が本堂裏にあり、そのそばに杯井戸の碑と句碑、歌碑が、本堂前には菅沼琉山碑もある。
句碑(文政十年ー1827ー 三河の俳人 作)
二口とのまずにむせぶ清水かな
句碑(昭和五十四年建立、山川浩 作)
「これまでと汲みかはしたる盃のみずもみにしむ長篠の里」
本堂
庫裏
庚申堂
城藪稲荷
長篠城鎮守の稲荷のお使いであった、おとら狐を祀る。
長篠の戦いの後、本社は城の移転に伴って移り、もとの稲荷は末社として残された。ところが残された末社を誰も祀らなくなったため、おとら狐はこれを恨み周辺を荒らしまわったり、人に取りついて重い病とした。
そこで人々はこれを鎮めるため、おとら狐を城藪稲荷として祀ったと伝えられる。
現在では、様々な願いをかなえて下さるお稲荷様として厚い信仰を集めている。長篠古城址が文化財として保全されるにあたり、平成18年に大通寺境内に移転、安置された。
(看板資料より)
大通寺杯井
大通寺 盃井戸
天正三年五月十九日、武田四将の馬場信房、内藤昌豊、山県昌景及び土屋昌次が
決死の腹を固め、この泉に水を汲んで別れの水杯をかわしたといわれる井戸。
大通寺と盃井戸
達磨山大通寺は応永18(1411)年の創立と伝えられるが、天正時代の兵乱で焼失し、後に琴室契音大和尚に改宗し、地蔵大菩薩を本尊として草創開山した。
天正3(1575)年の長篠の戦の時には、武田軍の武将馬場信房、武田信豊、小山田昌行らの陣地となり、設楽が原に出撃して織田・徳川の連合軍と決戦することになった時、諸将がこの寺の井戸に集まり、その水をかわし合って訣別の盃として出陣して行った。その後このことから盃井戸と呼ばれている。
大通寺山陣跡
大通寺山陣跡 二千人
武田信豊 長野・北佐久・小諸の城主、信繁の子(勝頼の従兄)
馬場信房 長野・更科・牧の島の城主。
小山田昌行 山梨・中巨摩・上石田に住む・
五月十三日 長篠城瓢郭を攻めて兵糧庫を奪った。
十四日 武田軍は長篠城総攻撃、それより後は長囲み(食料攻め)の構えをとる。
十八日 織田・徳川連合軍は設楽原へ到着し陣地を築き始める
十九日 武田軍医王寺本陣んで軍議。馬場信房はじめ重臣の主張はいれられず設楽原出撃決定。馬場信房・山県昌景・内藤昌豊・土屋昌次ら四名の武将は討死を覚悟して大通寺の泉で別れの水杯をかわした。
二十日 豊川渡河、設楽原へ陣をしく。(小山田は長篠城押さえ)
二十一日 設楽原決戦に連吾川上流方面で戦い、武田軍撤退の時に馬場信房は殿をつとめ、勝頼を見送ったのちに織田軍の士に首をあたえたという。
大通寺山(110m)