文殊山(善福寺 文殊山城跡 塞之神城跡)・愛知県新城市作手清岳杉本




文殊山(善福寺 文殊山城跡 塞之神城跡)・愛知県新城市作手清岳杉本

文殊山(もんじゅさん)

標高 661m 登山日 2021年12月11日
文殊山城跡 善福寺奥之院
所在地  愛知県新城市作手清岳杉本

難易度 ★     オススメ ★★ 登山口(ナビ検索) つくで手作り村
道の駅「つくで手作り村」(12:19)文殊山(12:45)→道の駅「つくで手作り村」(13:17)  所要時間 57分 累積標高 185m / 185m 距離 3.8km
亀山城主奥平氏の砦城です。元亀年間(1570~72)に武田氏との和睦の証として、 塞之神城とともに築く筈でしたが、延引したため武田氏より強談に合い、一夜にして築いたので一夜城とも呼ばれます。中央には地元有志により奉納された文殊菩薩石像があり、台石には「西須山村東市場村」と刻まれ当時の村界だった事が分かります。宝篋印塔の左手に足助町有志が奉納した笠付きの円柱石塔があり、この山は近世から近代にかけた信仰の山であったことを示しています。文殊堂には善福寺の奥之院で知恵の文殊ともいわれる文殊菩薩が鎮座しています。標高661m、比高差160mの山頂で、規模は48×27m
■善福寺のボダイジュ【市指定文化財/天然記念物】昭和58年8月17日。樹高15m 幹周り1.35m。ボダイジュは中国原産の落葉広葉樹です。シャカがその木の下で悟りを開いたとされるインドボダイジュの葉と形が似ているため、中国ではこの木に菩提樹の名が付けられました。善福寺は推古天皇の時代に朝廷から「田源山善福寺」の称号をたまわり、後年、真済僧正が天長元年(824年)に伽藍(がらん)を建て、「金輪山」と改められました。「作手」の名は、その真済僧正が弘法大師作と伝わる仏像の手を修理されたことからついたとも伝えられています。

道の駅「つくで手作り村」

国道301号と県道37号の交差点近く道の駅「つくで手作り村」より

作手 歴史の小径

作手地区には数多くの山城があり、

これらの城跡を中心に歴史の小径「歴史ウオーキングコース(約10km)」

と名付けられたハイキングコースが整備されています。

金輪山 善福寺 仁王門

「善福寺」は飛鳥時代開山という作手最古の名刹です

金輪山善福寺の由来

本尊 十一面観世音菩薩

宗派 真言宗御室派(京都市総本山仁和寺末)

当山は推古天皇御代「田源山善福寺」の勅号を賜った。中興開基は、真言宗二世真済僧正、天長元年伽藍を建て、山号を「金輪山」と改める。当時は七坊(省略)あり、それぞれの名は現在も字名として残っている。真済僧正が仏像の手を修理されたところから「作手」の名が村についたと伝えられる。村上天皇御代、天徳二年勅願所となり、以後、二百有余年全盛を極めるが、久安三年伽藍、宝物の大半を野火により焼失する。後、開山は建久六年東大寺再興に尽力のあった俊乗坊重源上人が伽藍を造営するが、天正元年八月勝頼の兵火にてまたも焼失する。乱後、領主奥平美作守貞能が現在の観音堂を建立し、徳川家の帰依もあり、仁王門、鐘楼堂とともに現在の伽藍となる。奥の院文珠堂の参道には八十八ヶ所の石仏が明治期に奉納された。

善福寺 仁王像

火災の際 難を逃れた鎌倉時代 伝 運慶の作

新城市指定文化財  善福寺の仁王尊(金剛力士像)

金輪山善福寺の参道に鎮座する仁王尊は、阿吽両像からなる木造寄木造りである。比較的損傷も少なく、やや誇張的ではあるが、写実的で力感と重量感を漂わせている。両像の顔面部分は、目に水晶が使われているなど、材質・造りとも首から下の部分とは異なり、鎌倉時代の作(一説には運慶作と伝えられる)と思われる。作者、製作年とも不詳だが、仁王門の創建は文禄4年(1595年)で久安3年(1147年)の野火や天正元年(1573)の戦火により寺が焼失した際も、仏具類は難を逃れたと伝えられる。

大きさ/ 身の丈 2㍍80㌢

善福寺 本堂

真言宗御室派 本尊は十一面観世音菩薩

善福寺縁起

当山の建立以前、第十二景行天皇の御代、日本武尊が東方に住み蝦夷(えびす)征服に向かう途中この地に至り、眺めてみるに八方峯高く、中は平坦で草樹が生い繁り、深山幽谷の地に郷民の開いた広大な水田を見て、田原の郷と名づけた。 その後数百年の年月を経て、第三四代推古天皇の御代に聖徳太子が行幸あって、自ら日本武尊の神像ならびに諸神の尊体を刻彫し宮内に安置して白鳥大明神と崇め、また御仏の像を刻彫してこの寺を開き、山号はこの国の三水を形取り、当郷田原と合わせ田源山善福寺と命名した。従って白鳥神社は当郷の産山であり、この寺の鎮守でもある。云々

弘法大師像の後ろに参道が続く

山頂 奥の院「文殊堂」までの参道には 明治期に奉納された八十八ヶ所の石仏が点在

文殊山(661m) 山名の由来でもある文殊堂は善福寺の奥之院、

文殊菩薩が祀られています。三河・遠州の超低山の一座。

文殊山城跡

この城跡は,亀山城主の奥平氏の砦城で,元亀年間(1570~72)に武田氏との和睦の証として,塞の神城とともに築く筈であったが,延引したため,武田氏より強談に合い奥平氏が一夜にしてこれを築いたため一夜城とも言う。 中央の文殊菩薩は明治時代に地元有志により奉納された石像で,台石には「西須山村・東市場村」と刻まれており,当時村境であったことが分かる。その右に宝篋印塔,左手に足助町有志が奉納した笠付の円柱石塔があり,この山は近世から近代にかけた信仰の山であったことを示している。又,この文殊堂は善福寺の奥の院で,文殊菩薩は智恵の文殊とも言われ,卯年生まれの守護仏で,縁日は毎月二十五日,唱え信言『おん・めはらしゃ・のう』

宝篋印塔

山頂 本丸跡には物見櫓があり作手清岳方面が一望できます

すぐ下に亀山城跡 右奥は(三河)本宮山

林道と塞之神城跡への分岐の先に小祠

さらに笹の尾根を歩き

塞之神城跡(さいのかみじょう)へ

塞ノ神城は、来歴不明な城の一つ、

古くは元亀年間(1570~73)武田氏によって、奥平氏との和睦の際、

合議により築かれたとも、奥平氏が作手に来住する以前の米福長者

(作手に在住の三河三大長者の一人)時代には既に存在したとも推定されています。

塞之神城跡から東 市場集落へと下る道があります

登城口 溜池の前には不動明王像

道の駅近くには奥平氏が五代にわたり居住した「亀山城址」

亀山城跡

応永31(1424)年8月、奥平貞俊が築城して、川尻城からここに移った。 其の後、貞久・貞昌・貞勝・貞脳・貞昌(信昌)の五代が居城。 天正元(1573)年8月貞能・貞昌父子は、古宮城に本拠を持つ武田勢の攻撃を受けたが、石堂ヶ根・田原坂等に転戦してこれを敗走せしめた。 天正3年、この戦功によって貞昌は織田信長から長篠城主を命ぜられた。 同年5月、長篠・設楽ヶ原の戦いが勃発、長篠城は武田勢1万5千の猛攻を受けたが、貞昌はよく籠城に堪え、織田・徳川連合軍の援軍を得て大勝した。 戦後、貞昌は信長の一字を貰い信昌と改名、新城に築城してこれに入り、家康の長女亀姫を嫁に迎えた。 慶長7(1602)年、信昌の第4子松平忠明が父祖の旧領であるこの亀山城へ、作手1万7千石の藩主として入城し8年間居城。 同15年、伊勢亀山城主として転じた。その後は元和5(1619)年頃の数年間、初期の三河代官として小川又左衛門氏綱が居城。それ以降は廃城となり現在に至っている。

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