秋葉街道 塩の道・三倉〜坂下




秋葉街道 塩の道・三倉〜坂下

静岡県牧之原市(旧相良町)から長野県塩尻市まで続く「塩の道の南塩ルート

「三倉」〜「坂下」までを歩いて来ました。

今回で、いよいよ秋葉山の表参道登山口の坂下まで歩みを進めて行きます。

ここ三倉は戦国時代の古戦場で、それにちなみ今から約30年程前に、

この地域の秋葉街道(塩の道)は「戦国夢街道ハイキングコース」として整備されました。

街道の至る所には、当時の事情や伝承が書かれた案内板が設置されています。

〜 天正2年(1574年)に徳川家康は武田方の天野氏の居城「犬居城」を攻撃しますが、大雨により気田川が増水して進軍できず、兵糧も底を尽きたために退却を余儀なくされます。

軍勢を引き上げる途中、ここ「三倉」で天野氏による追撃に逢い街道沿いを敗走し、命からがら逃げのびました 〜

またこの区間は、遠州一宮の奥の院「本宮山」や岩室寺を起点に、

春埜山・秋葉山・大日山へと抜ける遠州修験の回峰ルート、

いわゆる裏街道の宿場町としても古くから栄えたといいます。

三倉から先、小奈良安を抜けて大日峠の瑞雲坂を下り旧春野町へ。

今回は秋葉山へは登らず、坂下周辺を散策し、帰路は三倉の新道を戻りました。

参考文献

「塩の道ウォーキング(静岡新聞社)」

「秘境はるか 塩の道 秋葉街道(野中賢三 有賀 競)」

「古道案内 信仰の道 秋葉街道(白馬小谷研究社)」

「天竜川と秋葉街道(神谷昌志 明文出版社)」

「遠江古蹟図絵 全(神谷昌志 明文出版社)」

秋葉街道 塩の道(南塩ルート)三倉〜坂下

難易度 ★     オススメ ★★★ 登山口(ナビ検索) 三倉 三要橋
スタート地点(08:46)→九里橋(くりはし)(12:06)→三の鳥居跡(12:11)→秋葉山表参道駐車場(12:24)→秋葉神社下社駐車場(12:27)→秋葉神社 下社(12:34)→ゴール地点(14:42) 所要時間 5時間55分 累積標高 1406m / 1388m 距離 32.5km
■秋葉街道(あきはかいどう)は、各地から秋葉大権現に通じる参詣者が向かう道の総称で、幾筋の道が存在する。「塩の道」と呼ばれるのは、遠州の相良から信州の塩尻を結ぶ約200 kmのルートである。途中の静岡県菊川市には「塩買坂(しおかいざか)」、掛川市には塩問屋が集まっていたという「塩町」など、塩にちなむ地名が残されている。終点の塩尻という地名も、相良から運ばれてきた塩の終着点を意味し、そこから更に山あいの村々へと運ばれていった場所だったことに由来する

前回終了した三要橋よりスタート

三倉川はこの先、大府川と中村川に分かれます。

手前には「島屋」という旅籠跡。

ここから街道も、栄泉寺から半明集落を抜ける道(旧道)と、

戦国夢街道として整備されている道(新道)に分岐します。

先ず先に写真左、県道58号「袋井春野線」の高架下を抜けて、

栄泉寺経由のルートを進みます。

三倉は何度も訪れているお気に入りの土地です。

周辺はハイキングコースとして整備されており、案内板も各所に配置されています。

見渡し御朱印

昔、ここ三倉という部落には、久右衛門という百姓がいました。その頃、徳川家康は、武田信玄との戦いに敗れ、ただ一人この三倉村に逃げてきました。大軍に追われて疲れ果てていた家康は、草刈りをしていた久右衛門に助けを求めました。久右衛門は情のある男だったので、急いで家康を草籠の中に入れ、その上に刈った草を一面にかぶせ、姿が見えぬようにして敵兵の探索から家康をかくまいました。やがて草籠から出てきた家康は、「有難う、おかげで救われた。わしが天下を取ったなら、きっと恩賞を送ろう」と、矢立を取り出し久右衛門の名を記すと、立ち去って行きました。やがて天下を取った家康は、久右衛門を江戸に呼び出し、「その節は有難う、褒美として、その方の門前に立って、見える限りの田畑を与える」と、御朱印のある書状を下付けしました。

三倉道標

見渡し御朱印の近くに道標があります。

竿部正面「伝従是大日山」・ 右面「為威験増進一山◯◯」 ・左面「遠江国豊田群諸人所願」

その傍らには明治十一年建立の春埜山道標もある。

栄泉寺

三倉集落の対岸「洞平」の台地にある寺院「栄泉寺」へ

山号の「太平山」は徳川家康から拝したと伝わります。

山門の大平山の扁額は、元禄四年(1691)水戸の徳川光圀が一対の聯と共に贈ったものです。

寛政三年(1791)に山門完成。本堂は元禄九年(1696)と森町では最古の建物。

旧秋葉街道の道標

栄泉寺の山門の前、墓地へと続く坂の前に「旧秋葉街道」と書かれた石碑と、

お馴染み踏査研究会の立札があります。

墓地の手間で案内は無くなっていますが、その先の尾根に道が続きます。

この道は江戸時代以前の旧道といわれています。

山中に荒れた街道跡、道幅は1m程度しかありません。

明治の初め頃まではこの道を道者達がゆきかったといいます。

地図上の「四等三角点 (スカ沢) 276.11m」で 林道 松久保線に合流します。

林道を下り半明集落へ

これから向かう中野・大久保集落の展望

県道63号「藤枝天竜線」に合流

さらにこの先を進み林道を左折すると高塚山(490.2m)に至ります。

この辺の森は徳川家康が敵方から身を隠したことから「権現森」と呼ばれています。

権現森と息つぎの井戸

徳川家康が、犬居城攻めをあきらめて引き揚げたのは、今を去る四百余年前の天正2(1574)年4月のことである。撤退する途中、あの猿皮空穂を背負った天野軍の待ち伏せに遭い、田能、大久保で思わぬ大敗を喫した。家康は敵の追撃を逃れて、この椎の大木が繁る森にかくれた。その森の中の湧き水で傷を洗い、口をすすぎ、やっと一息つくことができたと言われている。後に家康が権現となったのにちなみ、ここを権現森と言うようになった。

田口家

徳川家康を助けた事から、三つ葉葵にちなみ「二つ葵」という

珍しい家紋を授かったそうです。

ここの地名「半明」は、家康が命からがら逃げたこと「半命」から名付けられたといいます。

田口家の家紋 二つ葵

中野のここ半明(昔は家康にちなみ半命)に、昔から長く続いた田口家という旧家がありました。この田口家の家紋は、徳川家の三つ葉葵ならぬ「二つ葵」という珍しい家紋です。この二つ葵が田口家の家紋となった経緯は実は戦国の時代の徳川家康とのかかわりに端を発すると伝えられています。 田口家に伝わる話では、元亀3(1572)年の暮、三方原の戦いで家康は武田勢に惨敗したのです。その時追われて、この半明まで逃げて来て、田口家の裏山の森の玉の木(和名・タブノキ)の空洞に身を隠し、武田方の探索を逃れたということです。 しかし、家康がこの地を敗走したのは、むしろ天正2(1574)年の犬居城攻めではなかったと、田口家の人々も、この点に疑問を抱いております。むしろその方が信憑性があるように感じられます。 どちらにしても、その時助けられて立ち去る時に家康は、「余が天下に号令するようになった時は、遠慮なく申し出よ。今日の事は生涯忘れぬ。その証として家紋は二つ葵とするがよい。」と厚く礼を言ったということです。 その後、田口家では二つ葵の紋とし、今でも使われています。また、裏山の森を権現森とよんでいます。

戦国夢街道の道標

昔のデザインを模した戦国夢街道の道標が至る所にあります。

阿弥陀堂とお堂跡

昔から、ここにお堂が建立され、阿弥陀如来がまつられていました。現在の阿弥陀様は、光背をふくめても五十センチほどの小さな仏像ですが、全ての衆生の「欣求浄土」の願いを叶えると言われるように、慈愛と気品に満ちた仏様のお姿です。勧請の時はさだかではないが、現存するいくつかの棟札の内、最も古い棟札には、次のように書かれています。 倶一切功徳 干時享保十二丁未歳 慈眼視衆生 正月二十四日 奉新造弥陀堂一宇 中野惣村中 享保十二年(1727)と言えば、いまからおよそ270年前になります。四十年程以前までは、ここには十坪ほどのお堂がありました。昔は、百万遍念仏を唱えたり盆の供養をしたり、また集会場でもあったと言われています。ここのお堂で、新盆がある時の盆の七月十六日には、村人が集い、念仏を唱えました。終わると、皆んなで列を組んで鉦を鳴らしながら、村はずれの大日様まで精霊を送ったそうです。昔から、村人は信仰を心のよすがとし、苦しい時も共に助け合って、家や村をきり開いてきたのだと思われます。

中野集落より・咲き始めの梅

ここで新旧二手に分かれていた道が合流。

帰路は戦国夢街道を下りたいと思います。

戦国夢街道案内図

夢街道の巨木 栂(つが)の木 ・「樹齢350年 目通4.9m」

高塚山(490.2m)

右の鉄塔付近が高塚山の山頂、山裾に歩いて来た半明集落が見えます。

県道389号「水窪森線」の上に古道

この辺りは「地蔵森」と呼ばれています。

地蔵森

昔から村の人々は、ここに祀られているお地蔵様を敬い、この辺りを地蔵森と呼んで親しんで来ました。 地蔵森のお地蔵様を、ここにお祀りした時期や経緯については、はっきりした記録は残っていませんが、伝えるところによりますと、徳川五代将軍綱吉公治世の元禄のころとも言われています。 これは、今からおよそ三百年前になります。勧請のいきさつについては、或いは、村に疫病がはやり子供が不幸にあったとか、もしくは旅人が災難にあったなどが考えられます。 それと言うのも、地蔵菩薩は「衆生を教化済度する仏様」であり、特に日本では「旅人や子供を守る」という信仰があるからです。 また、この地蔵森のお地蔵様は、穴のあいた石を供えて耳の病気平癒の「願掛け」をすると、大変御利益があると言われています。 さらに子供を育て、飢餓をお救い下さるとも言われています。 年に一度、七月二十四日の盂蘭盆には、村人は諸物をお供えし、僧侶を招いて「地蔵施餓鬼」と称し、精霊とお地蔵様の供養をしております。 いわば、お地蔵さまは村の人々を護り、村の人々はお地蔵様を守ってきたのです。

大久保集落

大久保集落は三倉の中でも大きな集落です。

追撃を受け、敗走してきた家康が大久保に辿り着くと、谷 (霧吹谷)から

濃い霧が吹き上げてきて、奇跡的に谷間の森 (権現森)に逃れたれたといいます。

権現森(大久保)と霧吹谷

天正二年(1574)の徳川家康の犬居城攻めは、大雨にたたられ、気田川を目の前にして撤退を余儀なくされたものです。この引き揚げの途中、徳川軍は天草軍の厳しい追撃にあうことになります。徳川軍の殿は、重臣の大久保忠世隊がつとめました。地の利を得た天草軍は、地元の加勢もあって、田能村の街道坂や天神森などで厳しく徳川軍に襲いかかりました。徳川軍の必死の防戦にもかかわらず、危険はついに総大将の家康の身辺にまで及んでいたのです。折しも四月(旧暦)の長雨のため、家康軍がこの大久保まで敗走して来た時、幸治沢の谷より濃い霧が立ちのぼり、辺り一面をおおったのでした。家康一行は、この霧に守られ、樫や椎の大木の茂る谷間の森の中に逃れました。森の中の樫の木の大きな洞に潜み、天草軍の一時の追跡をかわしたのでした。後に、「霧吹谷」と言うようになってと言われています。言い伝えのもととなった樫の木は、昭和三十四年(1959)の伊勢湾台風で倒れてしまいましたが、今でも、谷や木々の姿にそれとなく往時をしのぶことができます。

巨木が生い茂る 「大久保 八幡神社」

戦国夢街道

森町を通るこの道は、古くから遠江国(静岡県)と信濃国(長野県)を結ぶ「塩の道」です。森町は、山中一円の物資の集散地であり、「森口・二俣口」は重要な山中への玄関口でありました。戦国時代には多くの武将が森の市場を重要視し、これより続く塩の道は物資の交易に欠くことのできない重要な街道でありました。天正2年(1574年)徳川家康は武田方天野氏の居城「犬居城」(春野町)を攻撃しますが、大雨により気田川が増水し進軍ができず、兵糧も尽き退却を余儀なくされます。軍勢を引き上げる途中、徳川軍は天野氏の追撃を受けます。 三倉山中が険しい道であり、悪戦苦闘の末、家康は命からがら逃げのび、天方城(森町向天方)にたどり着くことになります。この戦いは、徳川軍にとって多くの武将を失う散々な負け戦さでありました。今でも武将の霊を弔う幾つかの塚やこの戦いの言い伝えが残されています。 また、この道は、江戸時代には火伏せの神秋葉山への表参道として「秋葉街道」と呼ばれ、多くの道者が行き交う「信仰の道」でもあり、秋葉常夜灯や道標などに今もその面影を伝えています。自然と歴史が残されたこの山や原野は、今から約四百年前多くの武将が必死となって戦った場所であり、武将たちの夢にちなみ、この道を「戦国夢街道」と名づけ、自然に親しみながら歴史を散策いただけるようハイキングコースとして整備しました。ここに残された自然と歴史を堪能してください。

三倉の地名の由来には三つの説があるそうです。

三倉の三は「大府川・中村川・三倉川」をさし、倉は谷・崖を表すとする説。

家康が敗走した際、鞍三つ重ねたその裏に身を隠したことに由来する説。

また、矢部氏が九州から来て三倉を開拓して際に、

三つの倉(農具倉・家財倉・穀倉)を建てたからとする説。

ここ大久保 八幡神社の由緒書きには一つ目の説が載っていました。

八幡神社(大久保)

信州街道(秋葉街道)ぞいの此の村に、人々が住むようになったのは、室町時代中期のころと言われています。 昔は、村人の心の寄りどころとして、この小さな大久保の村のあちこちに祠がたてられ、神が祀られていたのです。 江戸時代の寛政十年(1798年)の著書「遠江風土記伝」(内山真龍著)によれば、大久保地域内の神社を除地高順にみると、金山社・地神社・荒神社・権現社・天神社の五社が記録されています。 現在の八幡神社の位置にあった金山社は、貞享元年(1684年)に建立され、その後金山社が八幡社となり、元禄十三年(1700年)には、八幡社以外の四社を合祀して、八幡神社となったと言われています。 この八幡神社は、江戸時代から昭和の初めにかけて、武術の神として崇められ、毎年一月十五日の八幡神社祭典には、馬の速馳けなどの行事が行われていました。 また、遠い信濃への旅の途次、商売繁盛や旅の安全を祈願したとも言われています。 苔むした石垣や杉の大木(姿を消したものが多い)厳かな拝殿に、遠い昔を偲ぶことができます。

八幡神社 本殿

三倉郷大久保八幡神社

三倉郷は中央の白山中尾峰、東の菰張山、そして西は一宮本宮山黒山○続く三丸山の三峯は大府川と三倉川を挟む。三倉の「倉」は古語で崖を意味し、その三峯二川は集まる急峻な所、これが三倉の地名の由来である。当地大久保は三九山下の大きな窪みで原始古代から信州と遠州を結ぶ交易の尾根道(塩の道)上のあたる。北接する田能(田尾)には平安時代末期の阿弥陀如来が安置され、この頃集落が形成された。小窪八幡宮は三倉郷内を守護する武神として南北朝期には鎮祭されていたようで(当社御正体編年)現存社殿は棟札に「奉再宮八幡大菩薩之御賽殿○干時天文二十一年(一五五二)壬子極(十二月)十五日」とあり寄付者八人(大久保大屋・田屋禰宜・大河内云々等)の九夏は加えられて本殿が再建された。静岡県内に現存する社殿のなかでは、引佐方廣寺七尊菩薩堂に次ぐ古いもので、江戸前期の貞享元年(一六八四)の改修はあるものの、身舎向拝六本の柱や木鼻肘木組物に往時の部材が確認される。向拝柱は面取りが深い角柱でかつては丹を施し宝珠や雲形文様が線描される等華麗な建物であった。又、屋根部分は厚い杉板を大和葺し中世の建築遺構を今に伝えている。天正二年(一五七四)徳川家康は犬居城の天野氏を攻めの時、三倉山に陣取り、この八幡宮へ武運長久を念じたが敗走。後に天下平定を打立てた家康は慶長十六年(一六一一)に田能 大久保 中野 乙丸 船場(苦難場)の主出(名主層)を召出し天下泰平の短冊と大般若経御前に木皿を奉じ、苦難から苦難から救ってくれたことに感謝したと伝えられている。

旧 大久保小学校跡の正門前に「秋葉燈」

この常夜燈は精善舎の厚意で大久保地区安全祈願、信仰 道中無事 道標として建てられました。しかし、惜しくも西暦一九四四年十二月七日の東南海地震で倒壊し、形が無くなり残念の内、この度戦国夢街道(ハイキングコース)のオープンを機に場所をこの地に移して修復し常夜燈の形態完成に至りました。平成八年(1996)

春埜山 山犬のお札

民家の軒先には春埜山 山犬のお札

春埜山は、秋葉山・光明山とともに北遠三霊山(遠州三霊山)として、

また三倉川や太田川の水源霊山として信仰され、旧 春野町の名の由来にもなった山です。

かつては秋葉山と対に「春葉山」と呼ばれたこともあり、

また山伏信仰では奥の院である山住神社に対して里宮であったという説もあります。

周辺地域では、春埜山のお札を「お犬様」と呼び、悪疫退散や病害虫除けを願って、

軒先や竹に挟んで敷地の境界に立て風習があったそうです。

北東方向に展望が開けると

冠雪した岩岳山(1369.6m) 竜馬ヶ岳(1501.3m) 高塚山(1621.5m)

うぐいす餅

三倉の名物うぐいす餅については次のような逸話が伝わっています。 戦国時代も末のある春の日、三倉の里の一軒の茶屋に腰をおろした、いでたちも凛々しい一人の武士がありました。 茶屋の婆さんはまずお茶を進ぜ、続いて京葉と大豆をつぶしてまぶした餅をさし出しました。 この餅は、この茶屋に限らず、このあたりの家々では賓客の来訪があった時には、必ずと言っていいほど食膳に供したものだということです。 武士は一口頬張るとその美味を賞し、餅の名を尋ねましたが、別に名前はないという、そこで武士は「形といい、色といい鶯にそっくりじゃ、〝うぐいす餅〝と名付けたらよかろう」と言い残して秋葉を指して立ち去って行ったそうです。 この武士こそ誰であろう、戦国の名将とうたわれた山中鹿之介その人でした。 それからのち「うぐいす餅」は三倉の名物となり、 鹿之介が立ち寄った茶屋は「うぐいす屋」と呼ばれ、大正時代まで続いたということです。 近くには「うぐいす沢」と呼ばれる流れが三倉に注いでいます。

白山(658.3m)から春埜山(883.4m)へと連なる尾根

白山の背後に菰張山(629m)や大尾山(661m)

「動画でめぐる戦国夢街道」

令和5年NHK大河ドラマ「どうする家康」の放映を契機として設置されたようです。 結構本格的な動画で、ハイキングコース内の5つのポイント(5話分)に設置されたQRコードを読み取らないと観ることが出来ません。

プロローグ動画  https://www.youtube.com/watch?v=-6k1TVNEbz4

若杉家の屋敷跡

交通が近代化された今、このあたりの昔の繁栄を知る由もないが、室町時代の終わりごろ、秋葉街道と百古里街道が交差していたために人の行き来もあり、ここに山田家という店ができた。 この山田家が商いを始める前に、武田方の軍師山本勘助が一夜の宿を借りた折、この家の主人に商をすることをすすめたと言う。 その後、土地の産物や米、塩などを一手に扱う店になった。 さらに山田家では、三丸山の湧き水を利用して酒を造り「若杉」と名づけて、これを商った。 この酒が有名になり、やがて若杉は山田家の屋号となった。 幕末から明治にかけて結構繁昌したが、この街道が役目を終えた明治三十年頃、当主山田最一郎の代を最後にこの里を離れて行った。 今は茶畑になっているが、矢場跡、ツキヤ沢、屋敷跡などに昔をしのぶことができる。

馬蹄状に連なるボンジ山(1293.1m)〜京丸山(1469.5m)〜高塚山(1621.5m)〜

竜馬ヶ岳(1501.3m) 〜岩岳山(1369.6m)

手前は新宮池のある高塚山(660m)

板妻の里

この辺りは、いつのことかは分からないが、昔から板妻の里と言われていた。 昔、信州街道に沿っていたので、人々の行き来も多く、また、この道を別名塩の道とも言われるほど、物資の流通もまた盛んに行われていた。 山村のこの村は、杣や木挽を生業とする男たちが多く、この人たちが伐り出した角材や板は、各方面に売られていった。 起伏の激しい山道では、これらの材は人力で運搬しか方法はなかった。 いきおい女性たちが木材加工の手伝いや運搬の担い手となり、板を干したり運んだりした。 当時、大久保の若杉商店が、この材料を買いとり商いをしたので、なかなか盛況であった。板を背負う妻たちの姿を見て、誰言うとなく板妻の里というようになったと言われている。

秋葉街道の道標

この道標は、田能のこの地が、東海道掛川の宿から、七里の道のりであることを表したものです。 江戸時代の終わり頃、秋葉信仰の江戸講中の人々によって建てられたもので、現存する数少ない道標の一基です。 遠い昔から人々の信仰の大部分は、各種の災難(刀難・火難・水難など)から免れることを神仏に祈るというものでした。 ところが、江戸中期になると幕府による治安が良くなり刀難と言われる災禍の恐れは薄らいできましたが、依然として多いのは、水害や火災による災難でした。 特に、江戸中期の亨保から安永にかけての約五十年間には、江戸の華と言われた小さな火事は別としても、江戸大火と命名された火災は、実に七回も記録されでいます。この江戸の大火は、江戸の人たちのみならず、広く全国の人々に火難の恐しさを知らしめ、火防の神仏、秋葉山への信仰はいよいよ盛んとなり、参拝の人々の数も多くなりました。 加えて、水難除けの霊験もあらたかな光明山があり、両山への連続参拝の人々で、街道は大いに賑わったと思われます。 振り分け荷物を肩にした旅人は、昭和の初めごろまで見られたと言われています。

秋葉街道と信濃屋

今でも、村の人々は、このあたりを「街道」と呼んでいます。恰も地名のようになった「街道」と言う名称は、秋葉街道や信州街道といっていた頃の確かな名残です。また、この街道は、生活必需物資の塩を中心とする海産物が荷駄として運ばれたことから「塩の道」とも言われて来ました。江戸時代の中頃、信州(長野県)出身の海産物を扱う商人が、この街道沿いに「旅籠屋」(宿屋)を開き、その屋号を主人の出身地にちなんで「信濃屋」と名付けました。信濃屋は、旅人を泊めるだけではなく、五六頭の馬を飼い、旅人の運搬もしました。現在で言うなら、旅館と運送業を兼ねていたという訳です。そのため、当時は大変繁昌したと言われています。信濃屋は明治どころか大正の初め頃までも続いていました。しかし、大正の時代になると、交通事情はいよいよ近代化の様相を濃くし、徒歩による古くからの「街道」は、新しい道や交通機関の発達と共に、その使命を終えることになりました。それと時を同じくして信濃屋も生業がなりたたず、他の土地に移り住んだと言われています。

田能小沢の宿

田能(尾)は、平安時代後期に開かれた山間の集落で、龍池山蔵泉寺に残る阿弥陀如来をはじめ、その他の仏像からも、寺院を中心とした山間の集落であったことがわかります。それは、蓮華寺(一宮別当)や厳室寺(国府行場)を拠点とする霊山の開発に伴うもので、以後、秋葉山・春埜山や霊鷲仙(大日山)、信濃国に近い常光寺山(山住)等を結ぶ回峯(修行道)の宿として古くから栄えて来たことが想定されます。小沢の宿は、江戸時代秋葉山の信仰が隆盛し、再びこの地に多くの道者や民衆が休息や宿所として利用したことを物語っています。この宿は、森の町と秋葉山を結ぶ中間点にあり、また、大日山や春埜山への登山の分岐点であって、こうした立地条件が山間の宿を営む要因になったと考えられています。

田能集落の道標

秋葉山と春埜山の分岐に建つ道標

田能小沢宿は、春埜山や大日山へ、秋葉山から常光山(山住)へと続く

回峰行(修行道)の宿として古くから栄えていたといわれます。

浅羽郷土資料館の【遠州の霊山と山岳信仰―その源流と系譜―】によれば、

遠江一宮の本宮山や岩室寺を起点とし、(白山~春埜山~大日山~大尾山~粟ヶ岳~

駒形神社~三熊野神社~普門寺~小笠神社~法多山)へと続く

遠州の東方の霊山・寺社をめぐる『春の入峯修行場』

また、(光明山~観音山~龍ヶ岩山~富幕山~石巻山~普門寺)へと至る

遠州の西方をめぐる『秋の入峯修行場』が存在しました。

中世後期には、秋葉山を起点に竜頭山、山住山(常光寺山)へと続く

南北の修行道『(新) 秋の入峯修行場』も開かれました。

これら回峰修行の道は密教の山岳寺院も組み込む形で、

鎌倉時代初期には形成されていたと考えられています。

大日山道標

小奈良安集落の手前に「大日山道標」

竿部表面「従是大日道」 右面「安永癸巳(1773)」 左面「霊是山金剛院」

裏面「当国豊田郡船明邑 石工 森川伊右衛門吉英」とあります。

小奈良安集落の秋葉燈

この先、左は静修街道、秋葉街道は右へと続き、ここから植林の薄暗い道となる。

小奈良安集落(現 静修)は秋葉山三尺坊大権現禰宜を代々務めた羽入氏の屋敷や、

野口屋という旅籠があったそうです。

近道を記した道標

分岐

この道は中央へ、左に行くと直ぐに掘之内城山 城跡に至ります。

犬居城攻めの際、徳川家康は瑞雲寺に本陣を張りましたが、

城の様子や街道の展望も開けたこの地に砦を築いたといわれています。

掘之内城山 城跡

堀之内城山 城跡は犬居城跡の東南約1.5kmの山頂に位置します。森から犬居に至る秋葉街道に接しており、二俣に続く街道の眺望も開けています。山頂の本曲輪を中心に、東南方向に伸びる尾根づたいに曲輪や堀切、堅堀などがみられます。2010年の発掘調査では、数多くの出土遺物が出士しました。出土遺物から、この城の使用時期が、徳川家康の犬居城攻めの期間(16世紀後半)と捉えてよいことが確認できます。

大日峠

その名の由来なった大日地蔵尊像があり

「願主 現秋葉寺三八世超曳宝暦ニ(1752年) 壬申十二月吉日」と彫られています。

峠には茶屋が2〜3件あって秋葉山が一望出来る景勝地だったそうです。

この先、瑞雲寺がある若身へとくだる九十九折りの道は

「瑞雲坂」「七曲り」と呼ばれています。

犬居橋と犬居城跡

瑞雲坂を下り若身へ、ここには対岸の舟山へと気田川を渡る「前ケ瀬渡船跡」がありました。

瑞雲寺

曹洞宗 瑞雲寺は北遠三ヶ寺の一つ。

本尊は伝 行基作の聖観音像。明応二年(1493)天野氏が檀頭となり瑞雲寺と改めて、

四年(1576)には徳川家康と犬居氏との戦いで焼失。

慶長年間(1596〜1614)に家康により現在地に再建されました。

特に楼門形式の山門は曹洞宗の寺院では珍しく大変貴重なもの。

境内には天野氏代々の墓所と犬居城の守り神であった駒形稲荷を祀る。

犬居城跡

【秘境はるか 塩の道 秋葉街道】に「武田信玄遠州侵攻ルート犬居城への道」と題された面白いコラムが載っていました。 これは青崩峠と兵越峠、2隊に分かれて水窪へ進軍した武田軍のその後の進路を想像したもので、著者による3つの私見ルートが地図付きで紹介されています。

①一隊は東国古道を秋葉山経由して犬居城へ(尾根道から表参道)

②一隊は水窪から奥山氏の支配下にある集落を通り犬居城へ(相月道から裏参道)

③東国古道(尾根道)の竜頭山から勝坂へ下り気田川沿い、または気田川水運を利用して犬居城へ

どれもありそうなルートですが、実際はどうだったのでしょう? この時、犬居城主の天野氏は青崩峠まで出迎え、道案内をつとめたといいますが、もしかしたらもう少しマニアックなルートだったのかもしれません。

舟山集落 秋葉燈

犬居橋の袂に秋葉常夜燈 「弘化五戊申暦年◯◯」弘化5年(1848年)と刻む

船山集落

春野ふれあい公園前に「塩の道の碑」

堂坂

「堂坂」と呼ばれる坂の途中には石仏

春野ふれあい公園から先、気田川沿いに新道が出来る前はこの「堂坂」を登り、

秋葉坂下へ向かっていました。

東海自然道に合流

現代の道、東海自然道はここから犬居城を経て春埜山大光寺へと続く

原集落と秋葉山

秋葉神社下社の上部の原集落を抜ける。

その道の末端は急勾配の下り(庚申坂)になっています。

庚申坂

新道できてから地元の人も通る事のない荒れた庚申坂。

坂の途中に小堂があり庚申様が祀られているのが名の由来。

ここには野仏が集められていました。

この先、秋葉坂下の表参道に合流します。

九里橋

坂下宿の入口にかかる橋は「九里橋」と呼ばれ、

秋葉山への表参道50町の起点となっています。

九里という橋の名前は、東海道の掛川宿及び浜松宿・袋井宿からの距離が

9里(九里)にあたることから名付けらました。

九里橋は天竜川の支流、気田川へ注ぐ栃川に架かっており、

かつては木製の橋であったが昭和16年(1941)の洪水で流失してしまいました。

昭和38年(1963)にコンクリート製の橋に架け替えられた際に欄干を赤塗で再現しました。

「マルハク山林道」 「昭和御大典記念開鑿」「昭和三年十一月」

地元のマルハク林業が昭和3年に建設した林道で、ここ九里橋の袂からは

高瀬道(秋葉古道)の四つ辻へと続く道がありました。(林道は途中崩壊、現在は廃道)

坂下集落

「坂下集落」は秋葉山の麓にあって表参道の入口にあたる集落です。

沢沿いに続く急峻な坂に沿って茶屋や旅籠が立ち並び、

往時は坂下宿として多くの旅人を迎えていました。

平成初期には全ての旅館が営業をやめてしまいましたが、

現在も茶屋や旅籠の面影を残す趣のある建物が多数残されています。

勾配の急な参道には「なかや」「椀屋」「高木屋」などの旅籠や茶屋が建ち並んでいました。

秋葉山表参道

初心者向けのハイキングコースとしても親しまれている表参道からのルート。

この時間にも関わらず多くのハイカーとすれ違いました。

今回は五丁目で引き返します。

表参道の町石と常夜灯(四丁目)

最も多い常夜塔は幕末の嘉永5年(1852)、秋葉山御開帳のときに建てられたもので、

「嘉永五壬子(1852 年) 二月開帳日」と刻まれている。

この第四丁目の町石と常夜灯は遠州 金谷宿の講中により寄進されました。

現在は電球を灯すものが新たに設置され、

暗くなると明かりが灯り坂下集落は暖かな光に包まれます。

表参道の常夜灯(五丁目)

この一際大きい常夜塔は寛政7年(1795)5月に江戸三河町一丁目講中より寄進されたもの。

隣に嘉永5年(1852)式の物も建つ。

一の鳥居跡(三の鳥居跡)

秋葉山の表参道の5町目には、秋葉山表参道沿いとしては1つ目の鳥居が建っていました。

『静岡県歴史の道 秋葉 街道』(平成8年(1996)発行)には「秋葉山一の鳥居」

として記載されているが、現地には「三の鳥居跡」の案内板が建っています。

(三の鳥居は浜松宿の一の鳥居より数えて)

この鳥居は正徳4年(1714)6月1日、彦根第7代藩主井伊直惟が建立したそうで、

表には「金明嶺」裏には「金光明大法輪」の額が掛かる銅鳥居であったという。

戦時中に金属品供出によって銅版が はがされた経緯があり、

本体は昭和30年代まで残存したというが、現在は基礎も残っていない。

秋葉寺の里坊 千光寺

表参道の途中、5町目の秋葉山一の鳥居のあった付近から少し下った

坂下集落の西側の丘陵上には、秋葉寺の里坊である千光寺があります。

千光寺より望む気田川

秋葉神社 下社

千光寺から表参道を戻り秋葉神社 下社へ

第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)、秋葉神社は表参道の山門を除く

上社の建物を全焼しました。

同年、臨時に麓に建てられたのが現在の下社になります。

正式名称は「遥斎殿(ようさいでん)」といい、山上の御本殿を遥拝する神殿です。

秋葉神社 下社

領家 六所神社

六所神社は六所明神と領家村に鎮座する六社を祀る地域の氏神です。

領家の地名は下地中分の名残り、公家の荘園があったことにちなみます。

六所明神「天照大神・中筒男大神・大山祇大神・誉田別命・天児屋根大神・武甕槌大神」

六社 「天王神社・熊野神社・八阪神社・金山神社・山野神社・若宮神社」

気田川に掛かる秋葉橋越しに堀之内城山(335m)

あの峰を再び越えて戻ります。

平野集落

帰路は別ルートで、 気田川の支流、不動川から平野集落を経て小奈良安へ。

元来た道を戻り、 新道・旧道の分岐から「戦国夢街道」を下ります。

この辺りは特に整備されており、石畳まで敷かれた雰囲気ある道です。

馬墓地

この静かな森を、昔からこの地域の人々は「馬墓地」と呼んでいた。 その地名を解く鍵は、遠く戦国の世に求めなくてはならない。 戦乱の世、この地域は、徳川と武田の戦闘の舞台となり、多くの死傷者が出た。 戦乱の犠牲は人ばかりか、馬も数多くたおれた。 その時、馬をここに葬ったのが初めと言われている。 その後も、馬は陸上交通の主役であった。 江戸時代はもち論の事、明治、大正、昭和初年までは、この森は公認の馬の墓地であった。 古老の話では、牛舎をひいた牛も葬ったことがあったと言っている。 車社会と言われる現代では、忘れられてしまいそうである。 しかし、この馬墓地という名称は、人間と馬との長い間の結びつきを表す、忘れてはならない絆としての証である。

花立茶屋

当地は、一の瀬から田能に至る中ほどにあり、往時は旅人の行き来でにぎわってた。 花立家は、昔から茶屋を営むかたわら、馬による生活物資の輸送などを明治初年まで家業にしていたということである。 元禄四年には、苗字帯刀を許され、代々の当主は、 花立孫四郎を名乗った。 花立姓の由来は、この家の前を何時通っても、 いろいろな花が咲いていることから、時の代官が感心し、花立姓を与えたと言うことである。 十返舎一九の名作「東海道中膝栗毛」のもじり「秋葉街道似多栗毛」には次のような狂歌がうたわれている。「馬に乗り駄賃おこせときかしまに落ちてお客はしり花立」

万歳坂

この地域一帯は、浜松城の徳川軍と犬居城の天野軍(武田方)の戦った古戦場である。 戦いを優勢に展開した天野軍が、この附近で勝ちどきをあげたので、ここを「万歳坂」と呼ぶようになったと言われている。 近年まで、武士が着用した鎧などの金銀を含んだ「銀石」という石が出ると伝えられ、 子供たちは、その石探しに興じたものである。 むかし、秋葉街道がにぎわったころは、この附近に法度、掟書や罪人の罪状を記した立札の立てられる高札場があったと言う。 村の子供たちは、秋葉山に参る「秋葉道者」のあとを追いながら、「道者道者一文銭おくれ。くれる道者は米道者。くれぬ道者は糠道者。」とはやして、 この万歳坂を上り、花立の茶屋まで後を追ったそうである。

乙丸道標

乙丸集落の分岐建つ石仏

光背に「六才(斎)講中 村道」「あきは道」 台座には「乙丸村」と刻む

戦国夢街道ハイキングコース入口

戦国夢街道の入口「鵜殿渕」へ

再び静岡県道63号「藤枝天竜線」に合流

鵜殿渕

天正二年(1574年)四月、徳川家康は兵二千を率い、犬居城を指して信州街道を北上した。 一之瀬より大久保、田能を経て、気田川のほとり、犬居の瑞雲寺に本陣を張った。 たまたまその夜から雨が降り出し、折からの梅雨時で激しい雨は二日二夜降り続いた。 気田川は増水し各所で氾濫した。 徳川軍は、帰路の悪化と腰兵糧の事態を考え、軍議の末、信州街道を一之瀬さして撤退することとなった。 一方、犬居城の天野軍は、武田方の軍監、謀将真田昌幸の指揮のもと、一旦は気田に退いていたが、徳川軍の動きを一早く察知するや反撃に転じ、猟師姿の兵を山林内に出没させ、撤退する家康軍におそいかかった。 徳川軍の武将は善戦したが、不案内な地形と山岳戦に手をやき、敗走を続けた。 ついにこの一之瀬の地で徳川方の武将「鵜殿藤五郎光成」は戦死をとげた。 時に天正二年四月六日であったと「三河物語」は伝えている。 ※真田昌幸は、真田幸村の父

一ノ瀬(いちのせ)

この道は、古来、海・山の産物の交流路として、また、秋葉詣での参道として、多くの人々が行き交った街道である。道は、各所で三倉川の流れと交差していたが、そういうところが瀬と呼ばれた、瀬には簡単な木橋が架けられていたが、流れを徒歩で渡らなければならないところも少なからずあった。一ノ瀬の名は、この流域の最も上流にある瀬、すなわち第一の瀬という意味である。ここより少し下流に二ノ瀬・三ノ瀬があり、三倉川全域では四十八箇所を数えたので、この川は「四十八瀬川」あるいは「いろは川」と別称された。「秋葉山街道栗毛」に、この辺りを詠んだ一首「登りては又渡り行くいろは川、川と山とに秋葉かひ道」がある。

古戦場  一ノ瀬の戦い

今からおよそ400年の昔、東海一の武将と言われた徳川家康は、天正2(1574)年4月6日浜松城を出馬して、武田信玄の属将で犬居城主の天野宮内右衛門景貫を攻めるため犬居城へ向った。時は五月雨の季節で、豪雨が続き、家康は気田川の東岸の瑞雲寺に陣を取ったが、渡河して犬居城へ攻め入ることができず、そのうえ少ない食料も尽きてきた。やむをえず退陣し、他日再び攻めることとして兵を引き返そうとしたところへ、天野方の兵が家康軍を追撃してきた。 この時、家康の家臣大久保忠世・水野忠重は一番後の軍勢を率いて戦ったが、山は高く、谷は深く、不案内の地で苦戦した。 なお、それに田能・大久保の郷民が天野方に加勢して追い討ちをかけたので、この辺において多くの士卒が討死した。家康方の、堀平十郎・堀小太郎・小原金内・玉井善太郎・鵜殿藤五郎・大久保勘七郎等の将士は、この追撃してくる敵を迎え討って戦ったが、矢玉にあたり一ノ瀬において落命した。 即ちこの地、一ノ瀬は古戦場であり、徳川家康の敗戦の地である。それ故この周辺には今もゆかりの「七人塚」「鵜殿渕」等がある。

家康公と大府川・嫁田

天正二年(1574)の夏、徳川家康は武田方の天野氏の居城、犬居城を攻めたが、天候に災いされて、止むなく軍を撤収することになった。徳川方は、この信州街道を撤退する途中に天野軍の厳しい反撃にあい、山岳戦に不慣れな徳川方は思わぬ惨敗を喫して、多くの武将を山で失い川で血を流した。この時、この附近の小高い山に三葉葵の旗を立てて退散した。後に徳川の天下になるとこの山を天下山と言うようになり、家康の内府、右府と出世したことにちなみ、土地の名も川の名も大府川と言うようになったと言われている。また、その時の戦で傷を負った徳川方の武将が落ちて来て、この土地の嫁であった「おこよ」に助けを求めた。おこよは山道を案内して武士たちを無事に逃がしてやった。帰路を急ぐおこよは、不運にも追撃して来た天野方の兵に見つかり、厳しい追求を受けた。既に身ごもっていたおこよは、折檻にも似た追求に耐えられず、あえなく命を絶ってしまった。土地の人々は、このおこよの死を悼み、そこを嫁田と呼んだ。さらに非業の死をとげたおこよの霊をなぐさめるため、嫁田の中ほどに弁天様をまつって供養をしたということである。弁天様の傍の松を、人々はおこよの松と言い、今でも生き続ける松は、戦国の秘話を今に伝えている。

県道58号「袋井春野線」から林道 白山線へ

古道は、一部集落を抜けます。

秋葉燈

大府川の永代橋の袂に秋葉燈

大正 御即位記念と彫られています。 この先、三要橋まで戻り終了しました。

 

 

 

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