円満寺(掛川城 蕗の門)・静岡県掛川市掛川




円満寺(掛川城 蕗の門)・静岡県掛川市掛川

静岡県掛川市掛川にある浄土真宗大谷派の寺院「法輪山 円満寺」です。

御本尊は本尊「阿弥陀如来」

円満寺の創建は天正年間(1573~1593年)、

法道(本願寺11世顕如上人の高弟)によって開かれたのが始まりとされます。

創建当初は他所にありましたが、慶長3年(1598)、

当時の掛川城の城主 山内一豊により現在地に移されています。

本堂には慶長10年(1605)に山内一豊が死去した際に制作された位牌

(戒名:大通院殿心峯宗伝大居士)が安置されています。

当地は東海道の宿場町である掛川宿の西端にあたる重要地だった事から、

東側の天然寺と共に朝鮮通信使の宿所として利用されました。

また、円満寺山門は「蕗の門」の別称があり、

これは当時掛川城の内堀(蓮池)畔にあった四脚門で、

廃城後の明治5年(1872年)円満寺に移築されたものと伝わります。

東海道の宿場町「掛川宿」、街道沿いの西端に円満寺の境内があります。

旧宿場町の景観に配慮した建物が多く、歩いていて楽しいです。

由来 

天正十八年 掛川城主であった 山内一豊、千代夫人を浮彫刻にした。若き日の一豊が名馬を欲したところ、千代夫人が秘かに蓄えた黄金をもって願いを叶えさせたと云う内助の功が美談として伝えられている。
後日 土佐高知城主として明治維新の山内容堂 に至るまで、連綿として城主としての家系を保った。
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円満寺 山門(掛川城蕗の門 

掛川市指定文化財

掛川城蕗の門 
種別 有形文化財建造物
所在地 掛川市掛川四五九
所有者 円満寺

この門は、掛川城 の内堀(蓮池)のほとりに建てられていた四脚門である。大手門や仁藤門などから本丸、二之丸などの城の要所にいたる道筋にあり、小さいが重要な門であった。
廃城後の明治五年(一八七二)に円満寺が買い受けて、現在地に移築した。
その時に、柱の下を二尺五寸(約七十六センチ)切り取って山門にしたといわれている。
昭和三十五年五月三十一日指定

掛川城 蕗の門

蕗の門は江戸時代末期の安政元年(1854)の発生した安政東海地震で倒壊した後に建てられたもので、掛川城の大手筋の三ノ丸に入る手前に当たる位置に配された門です。

向かって右側には内堀となる蓮堀、門を入った正面右斜めには三ノ丸に設けられた鉄砲櫓が控え、直角の道筋沿い正面には櫓門の玄関下門(現在、油山寺の山門として移築。)が配されていました。大手門は掛川城の象徴的な存在であると共に町人町と武家町を区切る要素が強く、武家町と城内は蕗の門によって区切られていた事から重要視されていたと思われます。掛川城は明治2年(1869)に廃城になった為、多くの建物は払い下げとなり、明治5年(1872)に円満寺が山門として買受て現在地に移築されました。

形式は切妻、桟瓦葺、一間一戸、四脚門。

円満寺 本堂

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