第44代 元正天皇(奈保山西陵)・奈良県奈良市奈良阪町
奈良県奈良市奈良阪町
第44代 元正天皇(げんしょうてんのう)
奈保山西陵(なほやまのにしのみささぎ)、宮内庁上の形式は「山形」(円墳状)
母親である、元明天皇 陵(奈保山東陵)と同じ丘陵上に立地していますが、
現在は丘陵の真ん中を通る道路によって分断されています。
元明天皇陵が江戸時代、現在地に治定された後に、この地が元正天皇陵とされ、
幕末に修陵されました。
平城遷都した奈良時代最初の天皇、元明天皇の娘で(女系での譲位はこの時のみ)
日本の女帝としては5人目、生涯独身でした。
715年に即位し、724年に皇太子(聖武天皇)に譲位。
在位中、養老4年(720年)には「日本書紀」が完成しています。
第44代 元正天皇
別名 日本根子高瑞浄足姫天皇
諱 氷高・日高(ひだか) 新家(にいのみ)
誕生 天武天皇9年(680年)
崩御 天平20年4月21日 (748年5月22日)
在位 15年10月3日 – 724年3月3日 (霊亀元年9月2日 – 養老8年2月4日)
続柄 (父)草壁皇子(天武天皇皇子)(母)元明天皇
元明天皇 来歴
天武天皇の皇太子であった草壁皇子の長女として生まれる。母は阿閇皇女(のちの元明天皇)。天皇の嫡孫女として重んじられたようで、天武天皇11年(682年)8月28日に、氷高皇女の病により、罪人198人が恩赦された。天武天皇12年(683年)、3歳下の同母弟の珂瑠(のちの文武天皇)が誕生。
父の草壁皇子は即位に到らず持統天皇3年(689年)に薨去し、祖母の持統天皇の即位の後、同母弟の珂瑠皇子が文武天皇元年(697年)に持統天皇から譲位されて天皇の位に即いた。当時氷高皇女は18歳であり、天皇の同母姉という立場が非婚に影響したものと思われる。
慶雲4年(707年)に文武天皇が崩御し、その遺児である首皇子(のちの聖武天皇)がまだ幼かったため、母の阿閇皇女が即位、元明天皇となった。和銅3年(710年)、平城京に遷都。和銅7年(714年)1月20日、二品氷高内親王に食封一千戸が与えられる。和銅8年/霊亀元年(715年)1月10日に一品に昇叙。
霊亀元年9月2日、皇太子である甥の首親王(聖武天皇)がまだ若いため、母の元明天皇から譲位を受け即位。「続日本紀」にある元明天皇譲位の際の詔には「天の縦せる寛仁、沈静婉レン(女偏に「戀」)にして、華夏載せ佇り(慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美しい)」と記されている。
養老元年(717年)から藤原不比等らが中心となって養老律令の編纂を始める。
養老4年(720年)に、日本書紀が完成した。またこの年、藤原不比等が病に倒れ亡くなった。翌年長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任される。長屋王は元正天皇のいとこにあたり、また妹の吉備内親王の夫であった。不比等の長男の武智麻呂は中納言、次男の房前は、未だ参議(その後内臣になる)であった。
養老7年(723年)、田地の不足を解消するために三世一身法が制定された。これにより律令制は崩れ始めていく。
養老8年/神亀元年(724年)2月4日、皇太子(聖武天皇)に譲位し、太上天皇となる。譲位の詔では新帝を「我子」と呼んで、譲位後も後見人としての立場で聖武天皇を補佐した。
天平15年(743年)、聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、上皇は改めて「我子」と呼んで天皇を擁護する詔を出し、翌年には病気の天皇の名代として難波京遷都の勅を発している。晩年期の上皇は、病気がちで政務が行えずに仏教信仰に傾きがちであった聖武天皇に代わって、橘諸兄・藤原仲麻呂らと政務を遂行していたと見られている。