陸奥国一宮 都々古別神社(馬場)・福島県東白川郡棚倉町棚倉馬場




陸奥国一宮 都々古別神社(馬場)・福島県東白川郡棚倉町棚倉馬場

福島県東白川郡棚倉町棚倉馬場に鎮座する「馬場 都々古別神社(つつこわけじんじゃ)

延喜式では式内社(名神大社)にして「陸奥国一宮」、旧社格は 国幣中社です。

都々古別神社「別称 都都古別神社・都都古和気神社・都々古和気神社」は、

「延喜式神名帳」において、陸奥国白河郡に「都都古和気神社 名神大」と記載された

式内社(名神大社)で、同じく福島県東白川郡棚倉町内に鎮座する

「八槻 都々古別神社」の2社との間で論社とされています。

両社は共に「味耜高彦根命(アヂスキタカヒコネ)」・「日本武尊」を御祭神とし、

それぞれ古社として知られ、中世以降は共に陸奥国の一宮とも称されている。

いずれが「延喜式」に載る神社であるかや、本社・分社の関係などについては

現在までに明らかとはされていませんが、

馬場社を上宮(上社)・八槻社を中宮(中社)

そして近津神社(茨城県久慈郡大子町下野宮)を下宮(下社)として

「近津三社」をなしたともいわれています。

棚倉町周辺には「都々古別」や「近津」を社名に持つ神社や、

馬場社・八槻社、同様に味耜高彦根命を祭神とする神社など、

分祀社が多数みられることから、古くから南陸奥地方で広い信仰圏を営んだ神社といえます。

ニの鳥居

略沿革

延喜式神祇巻第十神名帳に、陸奥國白河郡名神大一座「都都古和氣神社」とある御社で、凡そ二千年前、人皇十二代景行天皇御宇、日本武尊が東奥鎮撫の折、関東奥羽の味耜高彦根命を地主神として、都々古山(現在西白河郡表郷村。一名を建鉾山と称す。)に鉾を建て御親祭せられたのが創始であり、古代祭祀場たる磐境であることが立証されている。(大場磐雄・亀井正道両博士による。)

人皇五十一代平城天皇大同二年(八〇七)坂上田村麻呂は、伊野荘(現棚倉城趾)に奉遷、社殿奉造し日本武尊を相殿に配祀し奉る。

寛永元年(一六二四)丹羽五郎左衛門長重公は、幕命により棚倉築城に際し、現在の地(馬場)に景勝の替地を奉り、更に社領を添加し、旧社殿を解体移築の上、同二年遷宮し奉る。

造営、神領寄進等は、坂上田村麻呂・源頼義・源義家等をはじめ、足利義満・白河城主・豊臣秀吉等、作事奉行を定め奉造の事が伝えられ、現本殿は、文禄年間(一五九二~一五九五)秀吉の命により、佐竹義宣奉造にかかるもので、桃山時代の手法がよく出ている。

中世、天災や兵火によって社殿焼亡又は大破した事もあるが、その時毎に、直ちに造営せられている。

神位、神階等奉授については、仁明天皇・清和天皇・陽成天皇・後冷泉天皇等各御宇に行なわれている。平安中期から久慈川、社川、阿武隈川流域の人々の絶大なる信仰の対象であり、北郷二十四ヶ村にわたった神領地もその一証である。

徳川幕府は代々、先規により神領朱印状を奉っていた。

明治四年太政官達し、同六年三月七日、国幣中社に列格した。

宮司 西郷頼母

西郷頼母近悳は、会津藩松平家の家老を代々勤める家柄であり、戊辰戦争では恭順を唱えるものの聞きいれられず、会津藩の白河口総督として戦った。しかし、伊地知正治が率いる新政府軍による総攻撃を受けて敗北した。

会津での戦いの後、箱館での戦いにも参戦したが、敗れて幽閉され、釈放後伊豆に漢学舎を開いた。

明治八年(一八七五)八月、内務省の発令により、保科近悳の名前でここ馬場都都古和氣神社の宮司を約三年間務めた。

明治一三年(一八八〇)に旧藩主である松平容保が日光東照宮の宮司となり、頼母は禰宜となって落城後の再開を果たしている。

社務所

現在、社務所に宮司さんは居られません。

御朱印等は、二の鳥居の右手にある宮司さんの宅で拝受可能です。

ご自宅なので、事前に連絡入れた方が無難かと思います。

公式には駐車場は無いことになっていますが、

拝殿横に数2~3台程の駐車スペースがあります。

その際、拝殿横へ続く極細のダート道を進むことになりますので、

参拝の際には棚倉町役場北側駐車場の利用をお勧めします。

都々古別神社(馬場)

〒963-6131
福島県東白川郡棚倉町大字棚倉字馬場39
【電話番号】0247-33-7219

【駐車場】無  ※棚倉町役場北側駐車場をご利用ください。(徒歩6分)

【最寄り駅】JR水郡線およびJRバス関東 磐城棚倉駅(いわきたなぐらえき)下車→徒歩17分(約1.1km)タクシー4分

手水舎

隋神門

文化財

重要文化財(国指定)

本殿(建造物)

桃山時代。平成26年12月10日指定。

長覆輪太刀 中身無銘(工芸品)

白河集古苑に所在。鎌倉時代末期。全長118.1センチメートル。大正10年4月30日指定。

長覆輪太刀 中身無銘(工芸品)

白河集古苑に所在。鎌倉時代。大正10年4月30日指定。

赤絲威鎧残闕(附 二十五間四方白星兜鉢1頭)(工芸品)

白河集古苑に所在。鎌倉時代前期。奥州に残る甲冑では最古。昭和32年2月19日指定、附(つけたり)指定の兜鉢は昭和34年6月27日追加指定。

福島県指定文化財

馬場都々古別神社御正体 4面(工芸品) – 昭和57年3月30日指定。

鉾型祭具 3本(工芸品) – 平成15年3月25日指定。

馬場都々古別神社文書等 22点(古文書) – 平成17年4月

参道

寅卯神社

社殿並びに境内社は玉垣によって囲まれています。

なお、本殿後背には「馬場古墳」と称される古墳もあります。

拝殿

社記(文禄3年(1549年)の社蔵縁起)によると、

第12代景行天皇の皇子「日本武尊」が奥羽に至り、

都々古山「建鉾山」(福島県白河市表郷三森)に鉾を立てて、

味耜高彦根命」を地主神として祀ったのを創祀とします。

その後、大同2年(807年)に「坂上田村麻呂」が現在の「棚倉城跡」の地に社殿を造営し、

日本武尊を相殿に配祀しました。

寛永2年(1625年)、現在地に遷座したと伝わります。

創祀地とされる「建鉾山」は5世紀代の東北有数の祭祀遺跡として知られています。

本殿

国の重要文化財に指定されている御本殿は、

文禄3年(1594年)の佐竹義宣による再建とされています。

寛永2年(1625年)の神社遷座の際に、元々の棚倉城の地から移築されたといいます。

三間社流造で南面し、屋根は銅板葺。

彫刻がないなど全体に簡素な造りになるほか、

東北地方では数少ない桃山期の本殿建築とされます。

案内板

国指定重要文化財

都々古別神社本殿

都々古別神社は平安時代に編さんされた「延喜式」にも記載され、陸奥一宮として崇敬されてきた古社です。

本殿は文禄3年(1594)に佐竹義宣が造営したとみられています。もとは棚倉城の地にありましたが、寛永2年(1625)に現在地へ移されました。

形式は本格的な三間社流造でありますが、柱の上の組物を出三斗とし、彫刻を用いないなど、簡素なつくりとしています。反りのある垂木、庇に架けた水平に近い梁などが中世的な要素です。

都々古別神社本殿は、東北地方において数少ない桃山期の本殿建築として、高い価値を有しています。細部や技法には中世的な要素が残っており、中世から近世への転換期における様式や技法を知る上で、貴重な存在です。

神明宮・鹿島神社

厳島神社

稲荷神社・甲山天満宮

境内

御朱印

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