小笠神社(おがさじんじゃ)多聞天神社・静岡県掛川市入山瀬
小笠神社 – Wikipedia
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静岡県掛川市と袋井市に聳える小笠山の山頂近くに鎮座する
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拝殿
本殿
小笠神社
小笠神社(おがさじんじゃ)は、静岡県掛川市、小笠山にある神社。
近代社格では郷社。
第42代文武天皇の命により、飛鳥時代末期の大宝元年(701年)9月に
熊野三山を勧請して創建された。
御祭神は事解男尊、伊弉册尊、速玉男尊の3柱。
同時に創建された掛川市の三熊野神社、御前崎市の高松神社とともに
「遠州の熊野三山」と称される。
三熊野神社による伝えによれば、当社は熊野那智大社に相当する。
参道には樹高が20メートルほどのスギがあり、樹齢が400年以上と推定されることから、
平成2年(1990年)に小笠郡大東町により天然記念物として文化財指定されている。
11月には「矢矧祭」(やはぎさい)と呼ばれる神事が行われている。
五穀豊穣、家内安全、安産を祈願する神事であり、
創建以来1300年以上続く祭礼とされている。
神職が桑で作られた弓で、竹の破魔矢を8本放ち、
氏子たちが競って取り合い、その矢を近隣の多聞天神社に奉納する。
多聞天神社は隣接しており、関係が深い。
多聞天神社が現在の地に創建された理由について、
伝承によれば、小笠山に天狗が住んでおり、
近隣の住民が天狗を多聞天として祀ったからとされている。
由緒
小笠神社
御祭神
事解男尊(ことさかおのみこと)
伊弉册尊(いさなのみこと)
速玉男尊(はやたまおのみこと)小笠神社
当神社は人皇第42代文武天皇の御勅願により
大宝2(703)年3月18日紀州熊野三社を勧請した。
その由来は、藤原鎌足公の孫の宮子姫が御后になられたが、
御子なきを歎き遊はされ紀州熊野社に詣で、
皇子誕生ましまさは東国に三宇の社を建てまさんと御祈願あらせられ、
無事皇子を誕生なされた。後の聖武天皇である。
御祈願成就により、公家奥野惟吉郷を東国に遣し宮地を檢分せしめられ、
横須賀を本宮の地高松を新宮小笠獄を那智の宮地小笠神社と定めて
御遷宮あらせられた。
社務所
矢矧祭(やはぎさい)
多聞神社境内 毎年11月3日に小笠神社で行われる矢矧祭は、
大宝2年(702年)文武天皇が神社を勧請し建てた年に始まったとされ
1300年余の歴史があります。
矢矧(矢を作る)神事では、五穀豊穣、家内安全、安産を祈願し
神主が桑で作られた8本の破魔矢を放ち氏子たちが競って取り合います。
矢は多聞神社に奉納されます。
多聞神社奉納には神輿行列が行われ、
古式に法り稚児が舞う御神楽の奉納などが伝統の祭を華やかに彩り、
静かな小笠山もこの日は大勢の人で賑わいます。
多聞天神社
多聞神社の伝説
昔むかし、江戸時代の始め浅羽村芝の河村平馬の子で
小太夫(こだいふ)という少年がおり、笛を吹くことが上手で近所でも評判でした。
彼は十五の時に小笠山に登り行方が分からなくなり母親が心配していたところ、
夢に現れこの山の多聞天となることを告げました。
彼は、病人がいると夢に現れ薬を教え効き目もあったので、
人々はその御礼としてここに祀ったと言われます。
小笠山砦
小笠山山塊の中心部が小笠山砦で、掛川・袋井両市と大東町との境に位置する。
小笠山砦は、徳川家康が高天神城包囲攻撃のため構えた六砦の一つであり、
『小笠郡誌』小笠神社の項に、家康がここに陣を数旬にわたって布いたことから、
村民が離散し、社も大いに荒らされ、古文書や旧記などすべて亡失したと伝えている。
現在、曲輪・堀切などの遺構をよく残しており、
小笠神社西側尾根続きの東南から北西に、約100mの細長い地域を砦域とし、
本郭ともいうべき部分は笹ヶ峰御殿跡に相当し南北の幅は約17-20m、東西60mで、
南北両側は垂直に切り立つ崖となっている。
最高部は物見台を思わせ、堀切・腰曲輪を付けて守られ、
その西側には若干の平場を設けて兵士の駐屯を可能にし、
さらにその平場の西側尾根続きにある高所「芝神童笛吹丘」、
「多聞神社」のある地点も物見台として用い、笠ヶ峰の死角を補ったものと推測される。
小笠山砦
高天神城跡より北方約4㎞の掛川市入山瀬に所在する、
標高約250mの小笠山山頂付近に築かれた。
徳川家康が永禄11(1568)年に掛川城の今川氏真を攻めた時に陣をおき
笹ヶ峰御殿という名も残されており、高天神城攻めに際しては再びここに砦を築いた。
ここは、北には東海道と掛川城、東から南には牧之原台地から
遠州灘まで一望することができる。
遺構は、各曲輪や横堀・土塁などが残存している。
現在は小笠神社等が建てられており、
また、野鳥の観察やハイキングコースにもなっている。