三熊野神社・静岡県掛川市西大渕




三熊野神社・静岡県掛川市西大渕

静岡県掛川市西大渕、「三熊野神社」へ

文武天皇の命により大宝年間(7世紀初頭)に創建されたとされている。

祭神は伊邪那美命・速玉男命・事解男命の3柱で、

熊野三山から勧請されたとされている。

同じく文武天皇により創建された御前崎市の「高松神社」

掛川市、小笠山の「小笠神社」とともに「遠州の熊野三山」とも称されています。

三熊野神社

文武天王の皇后に由来する荘厳なたたずまいの神社です。その後数百年を経て横須賀城が築城されると、歴代城主、家臣、近隣の人々の深い信仰を集めました。災難除、子授け、安産、縁結びにご利益があるといわれています。
本殿は県の文化財に、天狗の面とこま犬は市の文化財に指定されています。
毎年4月第1金曜日・土曜日・日曜日に、満開の桜の下行われる三熊野神社大祭は見るものを圧倒する迫力です。
祭りで披露される「三社祭礼囃子」「地固め舞」「田遊びの舞」は県の無形民俗文化財に指定されています。 掛川市H.P

三熊野神社
(通俗は総社及び三社様)

御祭神 伊邪那美命・早玉男命・事解男命

「当神社は、大宝元年(西暦七〇一年)九月九日、第四十二第文武天皇の御勅願により、紀州熊野三社を勧請した。文武天皇の后宮子(藤原不比等の娘)は、ご懐妊を願って「安産で皇子が誕生したら、東に三つの社を建て、勧請して日夜敬い申し挙げます」と、幼時より深く信仰している熊野神社に祈願した。真心込めた願いはやがて天に通じ、無事に皇子が誕生(後の聖武天皇)。天皇も后も大変間隙なされ、お願いが成就したからにはと、急いで東の国に社を建てる事にした。幸いな事には、東に貢物を納入してくる鎮国の遠江国があるので。勅命で司宮奥野左衛門是吉を派遣し、場所を探させた。是吉が当地に来てみると、南は大海原で渚も清く、北は山また山の続く地形なので「本宮の境内に異ならず」と、当初に本宮、三里(十二キロ)東の高松に新宮、北の小笠山に那智と三社の宮地を決め、萱(かや)を刈り、玉串を立てて帰洛(きらく)(京都に帰ること)した。天皇は是吉を熊野へ遣わし、勅幣を捧げて祈り「梛(な)木(ぎ)の木」で「みくら」を調べ、御正体と補佐五伴の神をまつり、八重の注連(しめなわ)、榊で飾った船に神輿を移し、牟(む)呂(ろ)の津より大海原をお渡りになって、大宝元年(701)八月四日の夕べ、当町雨垂の浜に御着岸、翌五日に仮殿にお移し申した。この時、里人は初作りの粟飯を神前にお供えした。
新築なった御正殿に鎮座されたのは、九月九日である。以来今日に至るまで、神徳霊験あらたかな三社大明神と崇められている。
当神社は、災難除・子授け・安産縁結びの守り神として信仰が厚い。

御例祭日
大祭 四月第一土曜日・日曜日(三社まつり)
神事・地固めの舞・田遊び・神輿渡御・神子抱き十三町山車引き回し
中祭 十月八日・九日
信心神楽奉納

境内社
諏訪神社 祭神大国主命(福の神)建御名方命(農耕神)
天神社  祭神菅原道真(文教の神)
熊野神社 祭神奥野左衛門是吉

大須賀町 境内案内板

社務所

三熊野神社について

当神社は、文武天皇の皇后紀州熊野大社ヘ「安産にて皇子誕生せば、東に三つのお社を建てまつり、日夜敬い申し上げる」と神前に誓われ、無事御安産(後の聖 武天皇)あらせられ、そのお誓いにより大宝元年(西暦七〇一年、今より凡そ一三〇〇年余り前)熊野三社即ち熊野本宮大社を当横須賀の地に、熊野那智大社を 小笠山(現小笠神社)、熊野速玉大社即ち新宮を高松(現高松神社)の地に遷座された宮にて、御鎮座と共に朝廷より神領として笠原の庄を賜って居ります。
建武二年(西暦一三三五年)元旦には新田義貞(にったよしさだ)公が戦勝祈願のために参拝され楠木正成(くすのきまさしげ)公の鈴を奉納。さらに中世戦乱 の受難時代を経て、天正六年(西暦一五七八年)徳川家康公により当地に横須賀城築城後は歴代城主・家臣並びに城下近郷挙げて信仰を寄せ呼び、以来現在に至 る迄厚い信仰を集め、災難除、子授け、安産、縁結びの守神として、神々の恵み深い御神徳のあるお宮として尊崇されて居ります。
大祭は毎年四月第一土曜・日曜に、地固めの舞・田遊びの舞の奉納、神輿の渡御、山車(祢里)十三台の供奉が行われ、中祭では、十月八日、九日に神楽の奉納が行われます。 三熊野神社H.P

拝殿

神子抱き神事(子授け神事)

「おねんねこさま」と申し上げ古記によれば、文武天皇の皇后御祈願成就・皇子(後の聖武天皇)御出産の霊験顕たかなお宮にて、古来より子授けの神として広く伝えられて居ります。四月の大祭二日目に、御神前及び渡御行列に供奉し、神輿お旅所の折、神子抱き祈願すれば子宝を授かるとして、近隣は勿論、東京、大阪、神戸等、各方面より多数の参拝をいただいて居ります。

<由来>

今から1,300年余り昔(西暦700年・大宝元年)、信仰心の厚い文武天皇のお后は紀州熊野三社に「無事に男の子が生まれますように」と願いをかけ、そのかいあって元気な皇子(後の聖武天皇)が誕生されました。お后は大変お喜びになり、遠州のこの地に熊野本宮大社の御分霊をお祀りになりました。
当神社は熊野本宮大社の御分霊が祀られ御鎮座1300有余年の歴史と由緒ある神社で特に「子授け」「安産」の守り神として各地から参拝者が絶えません。

三熊野神社H.P

拝殿内

三社祭礼囃子

大祭で神輿に供奉する山車(祢里)のお囃子が即ち三社祭礼囃子であります。このお囃子は亨保(西暦一七一六年~一七三五年)の始め横須賀十四代城主西 尾隠岐守忠尚(にしおおきのかみただなお)公が、幕府筆頭老中として江戸に在勤中、家臣が当時江戸で風靡していた江戸囃子に新手を加えた、御家人囃子を習 い当地横須賀に広めたのが始まりとされております。昭和三十年静岡県無形民族文化財第一号に指定されています。 三熊野神社H.P

三熊野神社本殿

三熊野神社本殿(みくまのじんじゃほんでん)

指定区分   指定種別県指定/有形文化財

建造物指定日 1996/11/18

員数1棟

所在地    掛川市西大渕5631-1

電話番号   0537-48-2739

一般公開有無 無

【指定資料】

桁行3間梁間3間。入母屋造、妻入。銅板葺(元柿葺)。

向拝1間、軒唐破風。桁行4.365m、梁間3.939m、総高約7.5m

嘉永7(1854)に棟梁立川昌敬によって建造されたもので、多彩な彫刻はこの流派の特徴をよく示している。本県における立川流の建築は静岡浅間神社に代表されるが、本建築は素木のものとして貴重である。

境内社 諏訪神社

諏訪神社

一、ご祭神

建御名方神・大国主神

建御名方神は古事記の国譲りの段に現れた大国主神の子で、日本第一大軍神で信濃地方の守り神として水を司り恵を与え給う尊き神であります。

大国主神は須佐之男命と櫛名田比売の御子神であり、天の下造らしし大神(創造神)又霊界を主宰する神であります。

二、ご鎮座

天保年間 年号不詳

明治二十三年(一八九〇年)本殿再建

三、ご神徳

建御名方神

水徳(水の恵)豊作、農耕守護

大国主神

五穀豊穣、縁結び、商売繁盛

境内社 天満大自在天神社(左)奥野神社(右)

天満大自在天神社

御祭神 菅原道真公

ご鎮座 元和三年(千六百十七年)

ご由緒

大正十三年三月に再建されて以来、老朽化が進み地元の篤志家による建築費ご献納により、当社の宮司が社務の傍ら長い年月をかけ設計から建築まで行い社殿の再建をする。

ご神徳

学業成就・合格成就・農業守護・病気平癒

新社殿

冷和二年十二月二十三日 竣工

社殿完成奉祝祭を行う

奥野神社

ご祭神

奥野左衛門是吉郷(初代三熊野神社宮司)

奈良時代、文武天皇の勅令により、奥野左衛門是吉郷は、熊野本宮大社の御分霊を祀るためこの地に赴き神社建立の宮地を定め大宝元年に三熊野神社が創建されました。

天平四年(七三二年)十一月五日に生涯をとじました。

ご鎮座

奥野神社の創建年月日は不詳なれど、十束家に隣接して祀られ昭和十年頃迄、沖神社といわれておりました。

その後荒廃し社もなくなりましたが、当社氏子総代松浦勝次郎様のご奉賛により再興され、沖神社改め奥野神社と改称されました。

昭和四十年十一月五日 鎮座祭を執り行う

御朱印

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