大江広元・毛利季光・島津忠久 三公の墓




大江広元・毛利季光・島津忠久 三公の墓

大江広元 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/大江広元

源頼朝公墓がある法華堂跡の敷地内に

大江広元・毛利季光・島津忠久、三公の墓があります。

頼朝公の墓を少し歩いと所に墓所への入り口があります。

国指定史跡 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)

この平場は、鎌倉幕府第2代執権の北条義時の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。
北条義時は、父の時政や姉の政子らとともに源頼朝による幕府の開創を助けました。
承久3年(1221)の承久の乱においては後鳥羽上皇方を破り、これ以降、鎌倉幕府は全国
的な政権としてより強固なものとなりました。
義時は貞応3年(1224)に62歳で没しました。『吾妻鏡』には、源頼朝の法華堂の東の山
上を墳墓の地とし、そこに新法華堂(義時の法華堂)を建てたことが記されています。
義時の法華堂は鎌倉時代の終わりには途絶えたようですが、平成17年(2005)に行われた
発掘調査により、8.4m四方の平面正方形の建物跡が確認され、『吾妻鏡』の記述が裏付けられま
した。


大江広元 公の墓

三公墓。左から毛利季光、大江広元、島津忠久の墓が並んでいる。


毛利季光 公の墓

大江広元の4男で長州毛利氏の祖、毛利季光の墓は一番左


島津忠久 公の墓

薩摩島津氏の祖であり、源頼朝の庶子とされる島津忠久の墓。

こうして薩摩・長州の祖が並んで祀られています。

三公(大江広元、毛利季光、島津忠久)墓

鎌倉西御門の法華堂跡(源頼朝墓)に隣接する山の麓に、
三公(大江広元、毛利季光、島津忠久)の墓が並んでいる。
大江広元と島津忠久は鎌倉幕府草創期に頼朝を共に支えたことで
お互いに同士意識があり、墓が並んで造られたようだ。
島津忠久(薩摩島津氏の祖、源頼朝の庶子とされる)の墓は
江戸時代10代将軍徳川家治の頃(安永8年(1779年))にその子孫の
島津重豪(しげひで)によって建立されたものだ。
同時に、源頼朝の墓(多層塔)も建立し、山腹の参道も整備した。
参道上の源頼朝の墓側に大江広元の墓と伝わる供養塔が並んでいる。
こちらは江戸時代に長州藩によって建てられたもので、
長州藩家老村田清風が鎌倉に来て行った。
毛利季光(長州毛利氏の祖、大江広元の4男)の墓は
この時には大江広元墓横(源頼朝の墓側)には建てられていなかったようだ。
墓横に建つ「故正四位下陸奥守大江公碑」(大江広元)と
「故藏人従五位下大江公碑」(毛利季光)は、
いずれも文政6年(1823年)に建立された。
墓も古墳時代の横穴墓を再利用するかたちで同時に建立されたとされるが、
中世のやぐらを再加工しているようにしか見えない。
ただし、毛利季光墓は鶴岡八幡宮西の鶯ヶ谷(志一稲荷の近く)にあった。
「故藏人従五位下大江公碑」の石碑は重いので内部を切削し、
空洞にして大正10年(1921年)に移されたと伝えられる。
石碑の傷や四隅が欠けているのは運搬時のものだという。
確かに傷は多いが、中が空洞であるかはちょっと解からない。
表に文政6年(1823年)、横(谷側)に大正10年(1921年)と刻まれてある。
毛利季光、大江広元、島津忠久の3公の墓が並び、平行する2本の参道石段のうち、
広元の参道前に鳥居が立っているのを見つけた。
薩長中心の明治政府では長州毛利氏や薩摩島津氏の先祖のお墓を
荒らすことなどできないことであるから、鳥居は残るのも当然であろう。
なお、江戸時代には参道は1本であったようだ。
島津忠久公の墓の参道は真っ直ぐに伸びているが、
北条義時法華堂跡が見付かった平地から下る坂道は石段となっているようだが
草木が茂って通るのは大変だ。
この島津忠久公の墓の参道登り口に村田清風句碑が建っている。
そのときに詠んだ俳句が大石本陣に残っており、それを記念して、
島津忠久公の墓の参道登り口には村田清風句碑
「鎌倉の御事蹟を探り探りて清風 むかし語り きくきくむしる 尾花哉」
(明治23年(1890年)建立)が建てられた。
長州藩でも薩摩本陣といわれた大石本陣に宿泊していたのであろう。
薩長は同宿のよしみというべきだろうか。
一方、大江広元公の墓の参道は弧を描いて石段の上へと続いている。
この石段の上下の石燈籠には安政5年(1858年)と彫られており、
相模国へ海防の任で来ていた長州藩士が墓前を整備したとある。
石段の上の向かって右には大江広元公、左には毛利季光公の名が刻まれ、
対のはずの石燈籠は石段の上のものだけが親子で分け合っている。
この参道登り口に村田清風句碑がないのもおかしなものだ。
また、北条義時法華堂跡を囲んで参道が整備されていることから、
江戸時代にも北条義時法華堂跡があったことは知られていたのだろう。
おそらくは、直線に参道を確保できる場所に島津忠久の墓が造られ、
40年余り経ってから大江広元の墓が造られた。
毛利家が墓を造るのには南西側の毛利季光の墓と源頼朝の墓との間に山腹を削って
南向きにも造れそうなものだが、敢えて島津忠久の墓に並べて、
源頼朝の墓に近い場所を譲ったのであろう。
そのために、大江広元の墓参道は北条義時法華堂跡を避けるように山筋に着いたのであろう。
このときに、北条義時法華堂参道跡を利用していたのであろうが、
安政5年(1858年)になって整備されたのであろう。
島津忠久の墓と大江広元(毛利季光の父)の墓が並んでいるのを見ると
江戸中・後期には毛利家と島津家は仲が良いことが伺える。
幕末、蛤御門の変以降に不仲になっても最後は薩長同盟を結べた理由が垣間見られる。
なお、法華堂跡の石碑によれば丘にある源頼朝の墓(多層塔)も
安永8年(1779年)に島津重豪が建立したものだ。
また、源頼朝の墓前に石碑がある。
さらに、墓横の石碑によれば忠久公墓所までの参道も安永8年(1779年)に重豪が整備したとある。
その上に、島津忠久の墓前にも碑がある。

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