権現山古墳群 権現山(68m)・愛知県豊橋市石巻本町北入田




権現山古墳群 権現山(68m)・愛知県豊橋市石巻本町北入田

権現山(68m)は、豊川市と豊橋市の境に位置し、

山頂付近にある大きな貯水タンクが目印の山です。

権現山の尾根線上には愛知県指定史跡に指定されている

前方後円墳2基からなる権現山古墳群があり、散策路が整備されています。

山頂付近の貯水タンク ここまで車で来れます。(駐車場無し)

山頂は右奥ですが私有地のため立ち入り禁止です。

最高点には寄りませんでしたが、タンクの左奥にあるそうです。

「権現山古墳群」は愛知県指定史跡で、貯水タンクの横から散策路が整備されています。

3世紀後半・4世紀初と古墳時代でもかなり早い時期の前方後円墳2基があります。

権現山古墳

権現山古墳は2基の前方後円墳の指定名称で、「権現山古墳群」とも呼ばれています。 古墳は通称「権現山」と呼ばれる独立丘陵(標高68メートル)の尾根線上にあります。1号墳は 尾根の先端にあり、全長は38メートルです。墳丘の側面は葺石で覆われ、墳丘上には底に穴をあけた二重口縁壺が並べられていたようです。また主体部は天井石に石灰岩を使用した竪穴式石槨でした。一方、2号墳は1号墳よりも高いところに築かれており、全長は33メートルです。葺石や埴輪はありませんが、墳丘の裾から3世紀代の土師器の高坏が出土しています。 権現山古墳からは、豊川の下流域を広く望むことができたようです。葬られた人々は恐らく、豊川下流域を支配した古墳時代前期の有力首長だったと考えられます。

権現山2号墳

全長 33 メートルの前方後円墳で、前方部が短い特殊なかたちをしています。古墳の主の遺体を納めた埋葬施設(主体部)は、調査されていません。 古墳の北側の裾から3世紀後葉の土器が出土しており、東海地方ではかなり古い前方後円墳となる可能性があります。

2号墳の後円部

2号墳の後円部は平面が楕円形に近い形をしています。葺石や埴輪はなく、中心にあるはずの遺体をおさめた施設もはっきりとはわかりませんでした。 なお、後円部の北ぼ裾から3世紀後ごろの土師器の高杯1点が出土しました。

2号墳の前方部

2号墳の前方部は、後円部にくらべてかなり小さく、墳丘の立ち上がりもわかりにくいものです。1号墳の前方部よりもあいまいで、未発達な印象を受けます。立地とあわせて2号墳が1号墳よりも古い可能性をしめす特徴といえます。

権現山1号墳

全長 38.4 メートルの前方後円墳です。 小規模ですが、残存状態が良く、墳丘の形がとてもわかりやすい古墳です。 墳丘の全面は、権現山の角礫や豊川の円礫が使われ、後者は後円部の上半部や前方部の前面のみに見られるなど、石材を使い分けています。後円部には主体部の竪穴式石室があり、蓋石に白い石灰岩 が使われていることが分かっています。 なお、墳丘には埴輪の前身である二重口縁壺が立て並べられていたようです。

1号墳のくびれ部

1号墳の後円部と前方部の境界にあるくびれ部は、葺石に角礫を使用しており、一部に大きな石材が使用されているなど、ほかの部分の葺石とは様相ことなります。 また、石で囲った時期不明の小型埋葬施設が1基見つかっています。

1号墳の前方部

1号墳の前方部は、斜面に葺石がふかれ、上には底に孔があいた壺型土器が並べられていたようです。 前方部は本来、通路でありマツリを行う場所でした。しかし発掘調査ではこの付近で祭祀にかかわるものは出土していません。

1号墳前方部の広場

1号墳前方部の南西側にあたる尾根は、平坦に加工されて広場のようになっています。 前方部の葺石は基本的に角礫が使用されていますが、広場に面したところは、丸い河原石が使われており、この広場が特別な場所であったことを推定させます。

1号墳の後円部

1号墳の後円部は斜面に葺石がふかれ、上には底に孔があいた壺型土器が並べられていたようです。また、遺体をおさめた主体部は、竪穴式石槨と判明しています。 東三河地方で竪穴式石槨が確認されたのは、この古墳だけです。

砲台跡

権現山には第二次世界大戦中に、豊川海軍工場を防衛する目的で砲台の建設が進められました。しかし、未完成のまま終戦を迎えました。ここにある丸い池は砲台跡のひつです。このほか、権現山には道路跡や兵舎予定地跡など、戦時中の遺構がいくつか残されています。

貯水タンクの脇を通り権現やの山頂付近へ

私有地のためここまで。

山頂付近より 湖西連峰から伸びる尾根、

石灰石を採掘する長楽鉱山が見えます

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