平泉寺白山神社(越前禅定道)・福井県勝山市平泉寺町平泉寺




平泉寺白山神社(越前禅定道)・福井県勝山市平泉寺町平泉寺

平泉寺白山神社 Wikipedia

平泉寺白山神社は霊峰白山(2702m)の越前側の登拝口(越前禅定道)に位置した

山岳寺院で、養老元年(717)に泰澄大師によって開山されました。

古代から中世後期にかけては、白山信仰を背景に強大な宗教勢力を誇りましたが、

天正2年(1574)に、一向一揆の攻撃を受けて全山を焼失、

その後一旦は再興へ向かいますが、境内は10分の1までに縮小しました。

さらに明治の神仏分離令では寺号を廃止、白山神社となり現在に至っております。

*現在の名称「平泉寺白山神社」の平泉寺は地名となります。

かつての境内全域は「白山平泉寺旧境内」として国の史跡に指定、

石畳参道は「日本の道100選」にも撰定されています。

ま梅雨から夏にかけては敷地内一面が美しい苔で埋めつくされることでも有名です。

平泉寺白山神社

福井、石川、岐阜の三県にまたがる白山(標高2702m)、古くから信仰の山として、富士山や立山と共に日本の三名山と仰がれました。 そして白山は、福井県が生んだ偉大な宗教家泰澄大師によって開かれ、 ここ平泉寺白山神社も、大師によって養老元年(717)に創立されました。

以来、平泉寺は、白山の表参道として、更に中世には、48社36堂6000坊が建ち並び、 多くの僧兵を擁して大いに栄え、この時代には福井県(当時の越前)の宗教、文化、武力、の中心として、 強大な勢力を誇っていたと伝えられています。 ところが、天正2年(1574)に加賀の一向一揆の乱入によって、全山ことごとく焼失してしまいましたが、 豊太閤の時に再興され、尚白山を管理していましたが、 明治4年(1871)に白山は、加賀に編入され、同時に神仏分離の命令によって寺号を棄てて白山神社となって今日に至っています。 しかも今猶大社の面目を残し、全盛時代を物語る参道の石畳、本社前の大石垣、大拝殿当時の礎石をはじめとして、老木が左右に立ち並んでいます。 更に600年前に建てられた楠木正成公の墓塔や、永平寺奉納の石燈籠など、数多くの史跡に富み、 平泉寺城址として国の文化財に指定をされています。 また、この境内には慶長年間に造られたといわれる旧玄成院庭園があり、国の文化財に指定されています。 このように境内がそのまま史跡であり、数多くの文化財が保存されている所は、他には見当たりません。

白山平泉寺散策マップ

白山信仰の歴史

霊峰白山は、古くは「しらやま」と呼ばれ、神聖な存在として信仰されてきました。加賀・越前・飛騨・美濃の4ヶ国にまたがって聳え、河川の水源である白山を御神体として仰いだもので、農業に従事する人にとっては、農耕に不可欠な水を供給する神の山ところから水神・龍神や祖霊が こもる山として、また漁業に従事する人や日本海を行き来する船に従事する人にとっては海上の指標となる事などから航海の神さまとして信仰していました。
白山の神に対する山岳信仰が起こると、修験道の発展により、立山などとともに、北陸の修験道の一大聖地となり、登拝する者も沢山現れました。白山を開山した泰澄は、白鳳11年(682)に越前福井の麻生津(現在の福井市38社町の泰澄寺の辺り)で生まれたと言われています。子供の頃より信仰が厚く、14歳で越智山で修行を重ね、そのため若いころから法力によって石や物を飛ばしたり、自分自身も自由に飛行したり瞬間移動することができたという伝説めいた人物でもあります。泰澄大師は、養老元年(717)に妙理大菩薩を感得して、養老3年(719)に白山妙理大権現と称して祀ったのが、霊峰白山を神仏混交的な菩薩信仰の対象として崇めることの始まりといわれています。
その参詣登山道は禅定(標高2,702mの御前峰の山頂のこと)道とよばれ、天長9年(832)に加賀・越前・美濃の3ケ所に馬場(登山口)が設けられたといいます。馬場は、白山登山道の拠点であるだけでなく、里宮・遥拝所の所在地でもありました。各馬場には、白山を祀る寺社がそれぞれにあり、加賀には白山比咩神社、美濃には長龍寺、越前には平泉寺がありました。
三馬場は江戸記以降、木山取権(木を伐り出す権利)なども絡み勢力争いを激化させ、禅定の祠の造営を巡り、寺社奉行に訴えるなどたびたびもめたようです。そこで、幕府は寛政8年(1688)、白山麓18ヶ村を天領とし、山頂一帯を平泉寺のものと裁定を下しました。
明治になると、廃藩置県が行われ、白山麓18ヶ村は石川県と組み込まれ、神仏分離により白山比咩神社は寺号を廃して延喜式神名帳に記載された社名である現社名に社に改称し、越前馬場は白山神社と平泉寺に、美濃馬場は長滝白山神社と長滝寺に分離されました。それまで白山信仰の三大中心地であった加賀・越前・美濃の馬場は、勧請元ということでは、むしろ美濃が最も多く、加賀は2番目でしたが、3社のうちで延喜式神名帳に記載されているのは加賀の白山比咩神社のみであるということから、ここが全国の白山神社の総本社とされ、越前・美濃はその下に位置する地方の白山神社のうちの一つということにされ、越前・美濃の白山神社より勧請を受けた他の白山神社も、加賀の白山比咩神社の分霊社というように由諸を書き換えました。
第二次大戦後は、越前平泉寺・美濃長滝の両白山神社もそれぞれ「白山神社の総本社」を名乗っています。

常夜灯

寛永4年に建てられた常夜灯には、

梅田治右衛門・柳町助右衛門・原藤蔵の名前が残る

泰澄大師廟

泰澄大師廟

平泉寺白山神社を開かれた泰澄大師のお墓です。室町時代に作られたもので、高さは1メートル47センチあり、その時代のお墓としては、たいへん大きなものでした。丹生郡越前町の大谷寺にも泰澄大師のお墓がありますが、泰澄の一番の大きな仕事がこの平泉寺を開かれたことであったので、こちらにもお墓が建てられました。

鎌倉時代の初めには、源頼朝に追われた源義経主従が、

山伏に姿を変えて奥州に落ちる途中で平泉寺に立ち寄ったといわれ、

義経や弁慶に関する伝説も残っている

顕海寺

顕海寺

1574年(天正2年)一向一揆により全山が焼失しました。難を逃れた賢聖院の住職顕海和尚は9年後二人の弟子と共にもどられ平泉寺を再興されました。後に顕海は玄成院を弟子の専海に譲り、自ら寺を建てます。その寺が顕海寺です。寺のご本尊は阿弥陀如来坐像です。一向一揆の時に境内の池に沈められていたものを9年後にひきあげて安置されたそうです。同じく安置されている地蔵菩薩立像は鎌倉時代の作と言われています。二つは共に福井県の文化財に指定されており平泉寺の最盛期の数少ない遺品です。

精進坂

精進坂

昔はこの坂より上には魚の持ち込みは禁止されていました。菩提をもとめて煩悩を断じ身を清め心を慎むということで、精進坂と呼ばれています。またこの坂は昔は52段あり、1段の高さが高くてのぼるのが大変でした。現在は84段となりのぼりやすくなっています。

一の鳥居

白山神社

福井県勝山市平泉寺町鎮座

御祭神

本社

伊弉尊(いざなみのみこと)

別山社

天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)

越南知社(おおなむちしゃ)

大己貴尊(おおなしちのみこと)(大国主命)

創建

養老元年(717)

由緒

当社は白山の開祖・泰澄大師の創建にかかる。 大師は白山登拝の途中林泉(今の御手洗池)を発見され、そこで白山の神の託宣をうけられ、 当地が神明遊止の聖地なのを知り、社を建てて、白山の神を奉斎されたのに始まる。

白山信仰の中心地で、古くは白山平泉寺と呼ばれ、後世一般に平泉寺の名で知られたため、 寺院であるかのようにおもわれてきたが、本来神社である。 平安時代以降白山登拝の拠点である白山三馬場の一つとして隆盛を極めた。

鎌倉時代のはじめ、兄頼朝に追われた源義経が奥州平泉に落ち延びる途中、 当社に詣でたことが『義経記』に見え、鎌倉末の後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒に呼応して、 当社の僧兵が大野郡牛ヶ原の地頭を攻め、滅ぼしたことも『太平記』に見え、著名なことである。

中世の最盛期には、社領9万石、48社・36堂・6000坊とうたわれ、 戦国時代には一乗谷の朝倉氏とともに越前における一大勢力であった。 平泉寺出身の三光坊(さんこうぼう)は、能面師の祖と仰がれている。

このような当社であったが、惜しくも天正2年(1574)折から係争中の一向一揆のため放火せられ、 全山一時に灰燼に帰した。 その後約10年にして再興せられ、豊臣秀吉をはじめ、江戸時代に入ると、越前藩主松平家の篤い崇敬をうけ、 やがて明治維新に際し、政府の神仏分離令により長年の神仏習合の姿を脱し、 本来の白山社に復し今日に至っている。

旧玄成院庭園

旧玄成院庭園

ここは現在、社務所になっていますが、一向一揆で平泉寺が焼失した時、難を逃れた顕海和尚が9年後戻ってきて再興したのがこの玄成院です。ここのある庭園は国の名勝に指定されていて、1530年頃室町幕府の管領細川高国によってつくられたと言われています。自然石を利用した枯山水は見事なものです。お時間がございましたら、ぜひお立ち寄り下さい。入園料は50円です。

旧玄成院(げんじょういん)庭園

昭和5年10月に国の名勝に指定された本庭園は、 享禄年間(約460年前)に室町幕府の管領・細川武蔵守高国により作庭されたと伝えられ、 現存する庭園としては北陸で一番古い庭である。 様式は枯山水。築山の正面高い所に一際高く立っている石が本尊石で、この石を中心に渦巻状に石が配置されている。

池の左手奥は滝を模した石組で、池の右に鶴島、左に亀島を配し、亀島の近くには石橋も架けられ、 池の前には宝船に形どった一位の木があり、蓬莱の趣を示している。

なお庭の左隅の五重の石塔には永享6年(1434)の銘があり、沙羅双樹とともに好古の客の喜ぶところである。

境内社 八幡神社

御手洗池

御手洗池みたらしのいけ 平清水

この池の中央にある岩は、影向岩と言います。泰澄大師がこの岩に向かってお参りしていると、一人の女神が現れ、「今、私は権現である」と言われました。これが神仏習合のはじまりです。また、「私の本当の姿は、白山の頂上にある。早く登ってきなさい」と言われ、泰澄大師はその女神の導きにより白山の頂上を極めることができたそうです。この池は昔、平清水と呼ばれており、平泉寺の名前の由来はここからきています。

二の鳥居

二の鳥居

この鳥居は権現造といい、鳥居の中央に屋根がついている神仏習合の時代の独特なものです。おそらく日本にはここにしかないと思われます。当時の鳥居は一向一揆で消滅しましたが、1778年(安永6年)に再建されたものです。白山三所大権現の大額は、中御門天皇の皇子天台座主公遵法親王がおかきになられたものです。三所とは白山の御前峰、大汝、別山を言います。

境内社 開山社

境内社 稲荷社

境内社 今宮神社

境内社 貴船神社

境内社 鎮守宮

境内社 池尾明神

拝殿

拝殿

現在の拝殿は、江戸時代につくられた寄棟檜皮葺で、平安時代の風情をよく残しています。1574年(天正2年)の一向一揆で全焼する前の拝殿は、46間(およそ83メートル)あったと言われており、京都の三十三間堂より大きな建物だったそうです。左右に点在する礎石が当時の大きさを物語っています。拝殿の中には十数面の絵馬があり福井藩主松平家の奉納品が多く、ほとんどが勝山市の文化財に指定されています。その中でも、1598年の絵馬がもっとも古いものとされています。

拝殿 安政6年(1859)の造営

天正2年(1574)兵火にかかって焼失する以前は、正面45間という我が国最大の拝殿であった。 今も左右に残る巨大な礎石が規模の雄大さを物語っている。

その中央部に再建された現在の拝殿は、江戸時代の寄棟造榑葺(くれぶき)の簡素な建物ではあるが、 天平時代の風情を良く残していると言われる。

正面入口にかかっている「中宮平泉寺」の額は一品天眞親王(いっぽんてんしんしんのう)の筆。 拝殿内の絵馬は越前藩主松平家以下の奉納にかかり、桃山以降の逸品である。

大汝社

別山社

別山社・大汝社

本殿に向かって右の社を別山社といい、天忍穂耳尊をお祀りしています。左の社は大汝社といい、大己貴尊をお祀りしています。本殿とこの二つの社は白山を構成している三つの山をあらわしています。

本社

本社

この本社は1795年(寛政7年)に第12代福井藩主松平重富により再建されたものです。総欅造で外観は白木造ですが、内部は美しく彩られています。またこの本社の龍の彫刻をご覧下さい。大変すばらしいものですね。この本社の扉は33年に一度しかあけられません。次に扉が開けられるのは、2025年(平成37年)です。

御本社  寛政7年(1795)の造営

御祭神 伊弉冊尊(いざなみのみこと)。

現社殿は越前藩主松平重富公による再建で総欅(けやき)の入母屋榑葺(くれぶき)。 昇り竜・降り竜の丸彫、壁面の浮彫などの彫刻も秀逸で、奥越には珍しい華麗な建築である。

御本社を中心に右に別山社、左に越南知社(おおなむちしゃ)を配するのは、 白山山頂の三山のそれぞれの神を祀っているからであり、 このように白山三社の神々を勧進することは当社創建以来の姿と思われる。 今は失われているが、中世から近世には、さらに金剱(かなつるぎ)社と加宝社が加えられ、 五社が整然と立ち並ぶさまは壮観であったと思われる。

三宮 参道

三宮・越前禅定道 登拝口へ続く参道

楠木正成の供養塔

楠木正成の供養塔

昔ここは三之宮の拝殿があったところです。楠木公の甥の恵秀律師が拝殿で行をしていると正成が鎧甲の武者姿であらわれました。不思議に思い調べてみると、この日に正成が湊川で戦死していたことがわかりました。そこで石塔をたてて、正成を供養したのです。
1574年の一向一揆の時に拝殿は焼失し、石塔も一部失われましたが、寛文8年に福井藩主松平光通がこれを補修し、周囲に石の柵をもうけました。1336年(延元元年)の作で、歴史上非常に重要なものです。

三宮

三宮・白山禅定道

三宮は1597年(慶長2年)に建立されました。現在の建物は明治22年に改築されたものです。祀られているのは、栲幡千々姫尊で安産の神様としての信仰があつくお産が軽くなるというのでお参りの帰りに社務所によって腹帯を買って帰る方もいます。また、ここからは泰澄大師が開いたといわれる白山への登山道となっていて、この道を白山禅定道といいます。平成8年11月には、歴史の道100選に選定されました。

越前禅定道 登拝口

「越前禅定道」と呼ばれるこの道は、現在の白山神社の三宮裏手を起点に、

三頭山(777m)・稚児堂(児卒都婆跡)・法音寺跡(法恩寺山頂)(1337m)

小原峠・三ツ谷・市ノ瀬などを経て、現在の観光新道に近いルートを通り、

室堂から白山頂上に達したようです。

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