浪合神社(なみあいじんじゃ)尹良親王墓・長野県下伊那郡阿智村浪合




浪合神社(なみあいじんじゃ)尹良親王墓・長野県下伊那郡阿智村浪合

浪合神社 Wikipedia

長野県下伊那郡阿智村浪合に鎮座する浪合神社(なみあいじんじゃ)です。

後醍醐天皇の皇孫である尹良親王を祭神として祀る神社で、

延宝年間(1673年 – 1681年)に造営されたと伝わる。

南朝の征夷大将軍であった親王は上野国から三河国へ向かう途中、

1424年(応永31年)にこの地で北朝側の襲撃を受け命を落としたそうです。

境内の西側には 尹良親王の御首を埋めたとされる墓所があります。

境内には他にも宮内大臣渡辺千秋による「尹良親王御旧跡の碑」や、

親王の事蹟調査のために明治天皇の勅使として

藤原公業が当地を訪れたことを記念する「勅使参向の碑」などがあります。

宮の原 案内板

杉並木の参道

浪合神社

由緒

この正面約600m上がったところに浪合神社があります。
ご祭神は、後醍醐天皇の皇子宗良親王第二皇子尹良親王です。御母は伊那城(現静岡県引佐町)城主井伊介道政の娘です。
親王は南北朝(1336~1392)動乱の時代、南朝勢力の挽回に奔走されましたが、応永31年(1424)8月上野国(いまの群馬県)から三河国に赴くためこの地にさしかかった時、北朝方の土賊に襲われ戦死されたと伝えられています。神社手前左側の丘には、親王の御首を埋め奉ったといわれる宮内庁所轄の御墓があります。神社は今から約320年前延宝年間に造営されたものと推定されます。境内には老杉巨樹を擁して神殿拝殿をはじめ、明治天皇の勅使として派遣された藤原公業卿の勅使参向の碑などが、また付近には親王と共に戦死した新田一族を葬った陪塚(宮内庁所轄で三箇所)、日本剣道の始祖といわれる慈念の長福寺、墓(通称「念墓」)、公園があります。
例祭は4月24日と10月24日春秋2回で応永甲辰囃、念流太鼓などの伝統芸能が賑やかに繰り広げられ、村をあげての年中行事となっています。
明治42年、村内にあった八幡社と諏訪社を合祀しています。

四の鳥居

集落の下から続く参道、

境内入口に立つ四の鳥居(台輪鳥居)

尹良親王御旧迹の碑

社務所

手水舎

境内

境内には妻入りの拝殿と入母屋造の本殿、神饌殿が建立され、

周囲には境内社が点在

拝殿

浪合神社

阿智村浪合宮の原の浪合神社は、室町時代に、この地で戦死した尹良親王の霊を祀ったことがはじまりであるとされています。
尹良親王は、第96代後醍醐天皇の孫にあたり、父は大河原(現在の大鹿村)を30年間にわたり拠点として北朝打倒に尽くした宗良親王(むねながしんのう)です
尹良親王は、南北朝(1336~1392)動乱の時代に、父親の宗良親王と共に東国までも遠征して、南朝の再興に奔走しました。
応永三十一年(1424)8月上野国(現在の群馬県)から三河国に赴くためこの地にさしかかった時、北朝方の土賊に襲われ戦死されたと伝えられています。
神社手前左側の丘には「尹良親王の御首を埋め奉った場所」として親王墓が築かれています。
この親王墓は明治14年2月14日より宮内省(現宮内庁)の管轄となり、県内では唯一の場所です。
明治時代に親王墓として公認されたのには、多くの人の尽力がありました。
明治13年(1880年)6月に明治天皇西巡の際に、天皇からの勅命をうけて飯田に来た品川弥二郎に対し、浪合の増田平八郎らが資料を携行して親王墓の公認を陳情しました。
この陳情は一旦退けられましたが、品川弥二郎と旧知の松尾多勢子に仲介を頼んで更に懇願したところ、品川は心を動かされ明治天皇に奏上しました。
天皇は直ちに西四辻公業(にしよつつじきんなり)を勅使として浪合に派遣し、親王の事績を調査させ、その結果翌14年(1881年)2月、宮内省によって現墓が治定されました。
境内には、藤原公業卿の勅使参向の碑、宮内大臣渡辺千秋撰文の「尹良親王後旧迹」(ゆきよししんのうごきゅうせき)の碑、神社復興の功労者富岡鉄斎の書、親王慰霊の宝篋印塔(ほうきょういんとう)などがあります。
また浪合神社のある宮の原地区は、剣道諸流の祖である念流を編み出した慈念和尚の伝説も残っていて、さらに関連した史跡・文化財が点在していて、阿智村では、宮の原一帯を認定地域資源「浪合宮の原歴史の里」としています。

本殿

神饌殿

勅使参向の碑

阿智村有形文化財 勅使参向の碑 案内板

境内社

1909年(明治42年)に村内にあった八幡社と諏訪社を合祀している。

尹良親王 御墓

南朝の征夷大将軍であった尹良親王は上野国から三河国へ向かう途中、

1424年(応永31年)にこの地で北朝側の襲撃を受け命を落としたと伝わります。

明治14年(1881)になって正式に親王墓と比定されたため、

宮内庁の管理地として立ち入りが制限されています。

尹良親王 (ただよし・ゆきよし しんのう)

生年不詳  応永31年8月15日(1424年9月7日)

南北朝時代・室町時代の皇族で宗良親王の第2皇子、後醍醐天皇の皇孫にあたる。

出生地については諸説あり、父宗良親王が長年拠点とした信濃国大河原(現、長野県大鹿村)や、遠州に漂着後しばらく滞在した遠江国井伊谷(現、静岡県浜松市引佐町井伊谷)であったとされ、それに付随して母も知久氏の女や井伊道政(徳川家康の重臣井伊直政の祖)の娘と諸説ある。

元中3年(1386年)南朝より源朝臣を賜姓(後醍醐源氏)され、征夷大将軍右近衛大将となって各地を転戦するが、応永31年(1424年)上野国から三河国に向かう途中、信濃国浪合村(長野県下伊那郡阿智村)の山麓で敵軍(北朝側の土豪・地侍)に囲まれ、自害したという。

尹良親王や子の良王親王(尹重)の事跡については、宝永6年(1709年)に天野信景(尾張藩士。江戸中期の国学者)が書写した著本の『波合記』という軍記物が残されている。
しかし、この書は史料としての信憑性については異論(1386年説・1424年説など)も多く、詳しい事績については不明なままとなっている。

次子の良新親王は津島神社の神職となり、子孫は社領のある尾張国中島郡氷室村から氷室を称して明治に至ったとされる。

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