尹良親王 御墓(浪合神社)・長野県下伊那郡阿智村浪合




尹良親王 御墓(浪合神社)・長野県下伊那郡阿智村浪合

尹良親王 Wikipedia

尹良親王(ゆきよし・これなが・ただなが)

第96代後醍醐天皇の孫にあたり、父は宗良親王(むねながしんのう)

母は井伊道政の女とされます。

南北朝動乱の時代(1336~1392)に、父親の宗良親王と共に東国までも遠征して、

南朝の再興に奔走しました。

応永三十一年(1424)上野国から三河国に赴くためこの地にさしかかった時、

北朝方のに襲われ戦死されたと伝えられています。

延宝年間(1673年 – 1681年)に造営されたと伝わる浪合神社では

御祭神として尹良親王を祀り、手前左側の丘には親王墓がある。

尹良親王 御墓

1424年(応永31年)8月、南朝の征夷大将軍であった尹良親王は

上野国(現在の群馬県)から三河国に赴くためこの地にさしかかった時、

北朝方の土賊の襲撃を受け命を落としたと伝わります。

明治14年(1881)2月14日 正式に親王墓と比定されたため、

宮内庁の管理地として立ち入りが制限されています。

尹良親王墓

長野県下伊那郡阿智村浪合字宮の原に所在する円墳に治定されており、陪塚3基とともに宮内庁の管理下にある。親王の首を埋めた場所と伝えられ、その隣接する地に建立された浪合神社は親王を祀る。

天保年間には既に親王碑建立の企てもあったが、実現に至らないまま明治時代を迎えた。ところが、明治13年(1880年)6月明治天皇西巡の際、供奉先発の勅命を奉じて飯田に来た品川弥二郎に対し、浪合の増田平八郎らが資料を携行して親王墓の公認を懇請した。品川は使命が民情視察にあるとしてこれを一旦斥けたが、増田らは品川と旧知の松尾多勢子に仲介を頼んで更に懇願したところ、心を動かされた品川は木曽福島の行在所にて委曲を奏上した。天皇は直ちに侍従西四辻公業を勅使として浪合に派遣し、親王の事績を調査させた。その結果、翌14年(1881年)2月宮内省によって現墓が治定されて諸陵寮の管轄となり、昭和の改修を経て、現在に至っている。

なお、陪塚は「千人塚」と呼ばれ、世良田義秋・羽河景庸など、親王に殉じて討死した者らを葬った所と伝えられる。

ユキヨシ様

親王の名は信用すべき同時代史料に見えないばかりか、まとまった伝記である『浪合記』・『信濃宮伝』も内容に矛盾や時代錯誤が多く、近世前期成立の偽書と推定されていることから、学界では親王の実在性そのものが疑われている現状にある。

しかし、『鎌倉大草紙』によって弘和頃に南朝の某宮(守永親王とも)が浪合で戦死したことは史実と思われ、また、伊那谷から北三河・北遠江にかけての国境地帯には「ユキヨシ様」を祀る習俗が広く分布しており、親王伝説を単なる机上の創作とは切り捨てられない。もっとも、知久氏の伝記によれば、浪合合戦で戦死したのは足利直義の落胤之義(ゆきよし)であり、その年月日を応永3年3月24日(1396年5月2日)と伝える他、延宝から正徳頃までの浪合神社の棟札には、祭神を行義権現と記しているものがあるなど、「ユキヨシ様」信仰の展開が一元的ではないことも確かであろう。

この「ユキヨシ様」信仰に関して、民俗学の側面から着目したのが柳田國男であった。柳田は「東国古道記」の中で、およそ次のように述べている。「かつて中部山岳地帯と海岸を結び付ける道は秋葉街道だけであったが、やがて浪合を通り飯田・根羽に連なる三州街道(飯田街道)が開けてきて、その段階で津島神社の御師たちが入り込み、土着的な山路の神『ユキヨシ様』を旅人の道中安全を守る守護神(一種の道祖神)へと変化させて山間に広く分布していった。これに加えて、浪合で戦死した南朝某宮に対する御霊信仰の要素が結合して尹良親王なるものが出現し、さらに津島神社や三河武士・徳川氏の起源伝承として存在意義が認められ、地元の口碑がその欲求に合うように内容まで多様に変型させられたのではなかろうか」。

柳田の見解は伝説の史実化の過程を考える上で示唆するところが多く、特に津島信仰の絡み合いについては、柳田の洞察力が遺憾なく発揮されていると言えよう。「ユキヨシ様」は、近世の地方における南朝史受容の一コマを現代に語り伝えているのである。

長野県下伊那郡阿智村浪合に鎮座する浪合神社(なみあいじんじゃ)です。 後醍醐天皇の皇孫である尹良親王を祭神として祀る神社で、延宝年間(1673年 – 1681年)に造営されたと伝わる。

浪合神社 四の鳥居

浪合神社

阿智村浪合宮の原の浪合神社は、室町時代に、この地で戦死した尹良親王の霊を祀ったことがはじまりであるとされています。
尹良親王は、第96代後醍醐天皇の孫にあたり、父は大河原(現在の大鹿村)を30年間にわたり拠点として北朝打倒に尽くした宗良親王(むねながしんのう)です
尹良親王は、南北朝(1336~1392)動乱の時代に、父親の宗良親王と共に東国までも遠征して、南朝の再興に奔走しました。
応永三十一年(1424)8月上野国(現在の群馬県)から三河国に赴くためこの地にさしかかった時、北朝方の土賊に襲われ戦死されたと伝えられています。
神社手前左側の丘には「尹良親王の御首を埋め奉った場所」として親王墓が築かれています。
この親王墓は明治14年2月14日より宮内省(現宮内庁)の管轄となり、県内では唯一の場所です。
明治時代に親王墓として公認されたのには、多くの人の尽力がありました。
明治13年(1880年)6月に明治天皇西巡の際に、天皇からの勅命をうけて飯田に来た品川弥二郎に対し、浪合の増田平八郎らが資料を携行して親王墓の公認を陳情しました。
この陳情は一旦退けられましたが、品川弥二郎と旧知の松尾多勢子に仲介を頼んで更に懇願したところ、品川は心を動かされ明治天皇に奏上しました。
天皇は直ちに西四辻公業(にしよつつじきんなり)を勅使として浪合に派遣し、親王の事績を調査させ、その結果翌14年(1881年)2月、宮内省によって現墓が治定されました。
境内には、藤原公業卿の勅使参向の碑、宮内大臣渡辺千秋撰文の「尹良親王後旧迹」(ゆきよししんのうごきゅうせき)の碑、神社復興の功労者富岡鉄斎の書、親王慰霊の宝篋印塔(ほうきょういんとう)などがあります。
また浪合神社のある宮の原地区は、剣道諸流の祖である念流を編み出した慈念和尚の伝説も残っていて、さらに関連した史跡・文化財が点在していて、阿智村では、宮の原一帯を認定地域資源「浪合宮の原歴史の里」としています。

尹良親王御旧迹の碑

拝殿

浪合神社

由緒

この正面約600m上がったところに浪合神社があります。
ご祭神は、後醍醐天皇の皇子宗良親王第二皇子尹良親王です。御母は伊那城(現静岡県引佐町)城主井伊介道政の娘です。
親王は南北朝(1336~1392)動乱の時代、南朝勢力の挽回に奔走されましたが、応永31年(1424)8月上野国(いまの群馬県)から三河国に赴くためこの地にさしかかった時、北朝方の土賊に襲われ戦死されたと伝えられています。神社手前左側の丘には、親王の御首を埋め奉ったといわれる宮内庁所轄の御墓があります。神社は今から約320年前延宝年間に造営されたものと推定されます。境内には老杉巨樹を擁して神殿拝殿をはじめ、明治天皇の勅使として派遣された藤原公業卿の勅使参向の碑などが、また付近には親王と共に戦死した新田一族を葬った陪塚(宮内庁所轄で三箇所)、日本剣道の始祖といわれる慈念の長福寺、墓(通称「念墓」)、公園があります。
例祭は4月24日と10月24日春秋2回で応永甲辰囃、念流太鼓などの伝統芸能が賑やかに繰り広げられ、村をあげての年中行事となっています。
明治42年、村内にあった八幡社と諏訪社を合祀しています。

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