第34代 舒明天皇(押坂内陵)・奈良県桜井市大字忍阪




第34代 舒明天皇(押坂内陵)・奈良県桜井市大字忍阪

奈良県桜井市大字忍阪

第34代 舒明天皇(じょめいてんのう)「和風諡号は息長足日広額天皇」

押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)(駐車場有り)

628年推古天皇の没後、蘇我蝦夷に擁立されて即位、宮居は大和の飛鳥岡本宮。

遺跡名は「段ノ塚古墳」、下方部は一辺約105メートルを測り、

上円部の基礎は実際には八角形をなす上八角下方墳とされる。

舒明天皇陵(段ノ塚古墳)は外鎌山の山麓より南に延びる尾根の先端に築かれた上八角下方墳です。現在は「舒明天皇陵」として宮内庁により管理されています。後背部を切断し左右を尾根が囲ういわゆる「三方山囲み」の立地に造られ、南斜面を台形状に名前の由来にもなった3段築成の方形壇の上に、平面が八角形で2段築成の墳丘を造っています。

全体の大きさは南北で約80m、東西で約110mで、八角墳丘部の対辺間の距離は約42m、高さは約12mで、当時としては最大級の規模を誇ります。方形段の裾には自然石の花崗岩の列石を並べ、八角墳丘部の基底部には榛原石を小口積みに、墳丘斜面は榛原石を平積みにして墳丘を飾っていたと思われます。飛鳥時代の大王、天皇の墓制として、この段ノ塚古墳を始まりとして、舒明の曾孫の文武天皇まで八角墳が作られ続けます。

石室の詳細な内部構造、規模については明らかではありませんが、文久年間(1861~64)の「山陵考」に八角墳の南面が崩壊し石室が露出した際、密かに中を確かめたところ石室内に石棺が2基あり、奥の石棺は横に、前の石棺は縦に置いてあったという村人の話が伝わっています。

宮内庁としては大変珍しい例だと思われますが、陵墓調査室で墳丘外形調査が1992~1997年にかけて断続的に行われています、その結果、上円部南半分で八角墳の隅角が発見され正面の隅角に当たる部分は隅切りになっており(辺長は4.3m)その部分に羨道部の天井石が有ることも確認され、横穴式石室の開口部にあたる場所と推定され、方形段の3段目に開口すると仮定すると、全長24m前後の超大型横穴式石室が備わることになります。ちなみに飛鳥の石舞台古墳は約19mです。これらの事から従来、上円部は正しくは変形8角形(9角形ともいえる)と言えます(宮内庁は、この古墳は上円下方墳という立場です)

舒明天皇は日本書紀によると、舒明13年(641年)に崩御され、翌々年の皇極2年(643年)に「押坂内陵」に改葬されたとあり、母親の田村皇女は天智3年(664年)に亡くなった事が記されていますが、墓の所在は明らかにされていません。平安時代に書かれた『延喜式』では、田村皇女は舒明天皇陵内とされている事から合葬されている可能性があり、先ほどの文久年間に村人が見た2基の石棺が見えたという話と符合するのです。忍阪周辺には同時代の有力な古墳は舒明天皇陵をおいて他になく、研究者の間でも被葬者は舒明天皇と母親の田村皇女の可能性が高いと言われています。

奈良県 桜井市観光協会公式ホームページ

第34代 舒明天皇

諱  田村

異称 息長足日広額天皇

誕生 593年

崩御 641年11月17日

在位 629年2月2日 – 641年11月17日

舒明天皇元年1月4日 – 舒明天皇13年10月9日

続柄 (父)押坂彦人大兄皇子(母)糠手姫皇女

舒明天皇は名を田村皇子といい、父は敏達天皇の子の押坂彦人大兄皇子。
母は糠手姫皇女(田村皇女ともいう)。
推古天皇の崩御後、皇嗣を定めていなかったことから皇位をめぐり争いが起きた。
大臣の蘇我蝦夷は田村皇子を推し、一方、聖徳太子の子の山背大兄王も皇位を望み許勢臣大麻呂らに推挙された。
結果は蘇我蝦夷が山背大兄王方の一人で蝦夷の叔父である境部摩理勢を殺害することによって決着がついた。
田村皇子は即位して舒明天皇となり、飛鳥岡本に宮を移した(630年)。
舒明は姪にあたる宝皇女(後の皇極天皇・斉明天皇)を皇后として、葛城皇子(後の天智天皇)、間人皇女(孝徳天皇皇后)、大海人皇子(後の天武天皇)をもうけ、さらに蘇我馬子の娘法提郎媛との間に古人大兄皇子をもうけた。
舒明の時代の事績としては630年の第一回遣唐使の派遣があげられる。
舒明が没する前年640年に聖徳太子によって遣隋使として派遣されていた南淵請安、高向玄理が唐(隋から唐に変わった)から帰国する。
30年余学んだ大陸の文化等を日本国に伝えた。

593-641 飛鳥(あすか)時代,第34代天皇。在位629-641。
推古天皇元年生まれ。彦人大兄(ひこひとのおおえの)皇子の王子。母は糠手姫(ぬかてひめの)皇女(田村皇女)。推古天皇の没後,山背大兄(やましろのおおえの)王と皇位をあらそい,蘇我蝦夷(そがの-えみし)に推され即位。皇后は宝皇女(のち皇極・斉明天皇)。犬上御田鍬(いぬかみの-みたすき),薬師恵日(くすしの-えにち)らを第1回遣唐使として派遣。百済(くだら),新羅(しらぎ)とも関係をふかめた。舒明天皇13年10月9日死去。49歳。墓所は押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)(奈良県桜井市)。諱(いみな)は田村。別名に息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと),高市天皇,岡本天皇。

舒明天皇(押坂内陵)

代数
第34代
天皇名
舒明天皇(じょめいてんのう)
御父
押坂彦人大兄皇子
御母
妃糠手姫皇女
御陵名

押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)
陵形
上円下方
所在地
奈良県桜井市大字忍阪

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