石上神宮[いそのかみじんぐう]公式サイト
http://www.isonokami.jp
奈良県天理市にある石上神宮(いそのかみじんぐう)へ参拝しました。
歴史
石上神宮は、大和盆地の中央東寄り、龍王山(りゅうおうざん)の西の麓、
布留山(ふるやま・標高266メートル)の北西麓の高台に鎮座し、境内はうっそうとした常緑樹に囲まれ、
神さびた自然の姿を今に残しています。北方には布留川が流れ、周辺は古墳密集地帯として知られています。
当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として
古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として
信仰されてきました。総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰がれる御祭神は、
第10代崇神天皇7年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られました。古典には「石上神宮」「石上振神宮(いそのかみふるじんぐう)」
「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)」等と記され、
この他「石上社」「布留社」とも呼ばれていました。平安時代後期、白河天皇は当神宮を殊に崇敬され、
現在の拝殿(国宝)は天皇が宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝えています。中世に入ると、興福寺の荘園拡大・守護権力の強大化により、
布留川を挟み南北二郷からなる布留郷を中心とした氏人は、同寺とたびたび抗争しました。戦国時代に至り、織田尾張勢の乱入により社頭は破却され、
壱千石と称した神領も没収され衰微していきました。しかし、氏人たちの力強い信仰に支えられて明治を迎え、神祇の国家管理が行われるに伴い、
明治4年官幣大社に列し、同16年には神宮号復称が許されました。当神宮にはかつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地(きんそくち)を御本地(ごほんち)と称し、
その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されていました。明治7年菅政友(かんまさとも)大宮司により禁足地が発掘され、
御神体の出御を仰ぎ、大正2年御本殿が造営されました。禁足地は現在も「布留社」と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれ、昔の佇まいを残しています。
石上神宮[いそのかみじんぐう]公式サイト
石上神宮は『古事記』や『日本書紀』にも登場する日本最古の神社の一社つです。
祭神として祀るのは人ではなく神剣・布都御魂を祀っています。
また古代豪族で有名な物部氏の総氏神であり大和朝廷期の武器庫でありました。
百済国王から送られた七支刀(しちしとう)を所有していることでも有名。
石上神宮(いそのかみじんぐう)
式内社 大和國山邊郡 石上坐布都御魂神社 名神大 月次相嘗新嘗 旧官幣大社
御祭神 布都御魂大神・布留御魂大神・布都斯魂大神
配祀 宇麻志麻治命・五十瓊敷命・白河天皇・市川臣命
境内摂社式内社 大和國山邊郡・出雲建雄神社・境内摂社出雲建雄神社・出雲建雄神
県道51号線添いにも社号標(しゃごうひょう)がある。
今回は大鳥居横の第一駐車場から参拝した。
参道の入口に建つ高さ7メートル大鳥居、
現在の大鳥居は、昭和3年の昭和天皇の御大典を記念して建立されました。
鳥居扁額には「布都御魂大神」と記されています。
当神宮の境内には『万葉集』に石上布留の神杉 神びにし われやさらさら 恋に逢ひにける
(柿本人麻呂歌集)と詠われる神杉が古くは数多く繁茂していました。
現在も樹齢300年を越える杉が数本あり、神杉と呼ばれています。
東側神杉は幹囲り3.4メートル、樹齢は350年を越え、高さ約30メートル。
なんと明日は「ふるまつり」と言われる石上神宮の年間最大の祭典
「例祭」が執り行われます。
駐車場を探し間違って入った市街でも軒先に提灯を掲げお祭り準備です。
社務所前には神領く(かみうしはく)と言われる例祭当日の早朝、
神様のお乗りになる御鳳輦(ごほうれん)が占める場
西側神杉は幹囲り4.1メートル、樹齢は400年前後、高さ約35メートルです。
境内にはニワトリ、よく懐いてます。
遅い時間だったので境内に参拝客の姿もまばら、
祭典の準備がされています。
休憩所の割には趣がありすぎると思い調べたら
この建物は、古くは拝殿前にあった舞殿で、
昭和15年(1940)にこの場所に移築されたのもらしい。
棟木に記されている墨書によると、鎌倉時代末期、
第96代後醍醐(ごだいご)天皇の文保2年(1318)に建立されたことが知られ、
重要文化財に指定されています。往古は鐘楼門として上層に鐘を吊るしていましたが、
明治初年の「神仏分離令」により取り外され売却されました。二重の正面に掲げてある木額の「萬古猶新(ばんこゆうしん)」の字は、
明治・大正の元老として有名な山縣有朋(やまがたありとも)の筆によるものです。
社殿のある境内から。
廻廊は楼門を中心に拝殿前の斎庭を取り囲むように建てられています。
授与所・祈祷受付所では神符・御守をはじめおみくじ、御朱印が頂ける。
大祭に用いられる御太刀、御弓、御矢、御鉾、御楯など
神宝(じんぽう)類が回廊脇に奉安されていました。
当神宮への御崇敬が厚かった第72代白河天皇が、
当神宮の鎮魂祭(ちんこんさい)のために、永保元年(1081)に
宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝えられています。建築様式の区分では鎌倉時代初期の建立と考えられます。
いずれにしても拝殿としては現存する最古のものであり、国宝に指定されています。
なお、文明2年修復、貞享元年上葺、享保18年修補、元文5年上葺、寛政10年修復、安政6年屋根替、
計6枚の棟札が現存しています。
国宝に指定されている最古の拝殿の割に奇麗な印象
落ち着いた雰囲気のある拝殿です。
本殿
当神宮の御神体である神剣「韴霊(ふつのみたま)」が
禁足地の土中深くに祀られているという伝承があったため、
明治7年8月に当時の大宮司 菅政友(かんまさとも)が官許を得て調査したところ、
多くの玉類・剣・矛などが出土すると共に神剣「韴霊」が顕現され、伝承が正しかったことが証明されました。その後、明治43年から大正2年にかけて神剣「韴霊」を奉安するために本殿を建立し、
この折に禁足地を北側に拡張、そして当時拝殿西隣にあった神庫(ほくら)を禁足地内の南西の隅に移築して、
現在の状態に整えられました。神剣「韴霊」が顕現された地点は本殿と拝殿との間で、現在大きな石を置いて標示してあります。
また、神剣と共に出土した玉類などは、その多くが重要文化財に指定されています。
拝殿奥に少しだけ見える建物が本殿。
右の木々が生い茂る場所が禁足地です。
元々、石上神宮は本殿は無く瑞垣内の禁足地を祭祀の対象としてきました。
元来は内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)の鎮守の住吉社の拝殿でしたが、
大正3年に現在地に移築されました。内山永久寺は鳥羽(とば)天皇の永久年間(1113~18)に創建された大寺院でしたが、
神仏分離令により明治9年に廃絶しました。その後も鎮守社の住吉社は残されましたが、その住吉社の本殿も明治23年に放火によって焼失し、
拝殿だけが荒廃したまま残されていましたので、当神宮摂社の出雲建雄神社の拝殿として移築しました。従ってこの建物は内山永久寺の建物の遺構として貴重なもので、国宝に指定されています。
建立年代については、はじめは保延3(1137)年に建立され、
その後13・14世紀に2回の改築により現在の構造・形式になったと考えられています。
楼門を眺めるように手前階段をあがった所の右手に
摂社 出雲建雄神社拝殿(せっしゃ いずもたけおじんじゃはいでん)があります。
左が草薙剣(くさなぎのつるぎ)の荒魂(あらみたま)である
出雲建雄神(いずもたけおのかみ)をお祀りしている 摂社 出雲建雄神社。
右が末社 猿田彦神社、 配祀神として
底筒男神(そこつつのおのかみ)中筒男神(なかつつのおのかみ)
上筒男神(うわつつのおのかみ)息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)
高靇神(たかおかみのかみ)をお祀りしています。
天神社は、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・神皇産霊神(かみむすびのかみ)の二座。
七座社は、生産霊神(いくむすびのかみ)・足産霊神(たるむすびのかみ)
魂留産霊神(たまつめむすびのかみ)・大宮能売神(おおみやのめのかみ)
御膳都神(みけつかみ)・辞代主神(ことしろぬしのかみ)・大直日神(おおなおびのかみ)
の七座をお祀りしています。
時間の関係でゆっくりと参拝出来ず残念だったが
明日の大祭の前日のため普段見れない数々な物をお目にかかれた。
また本殿・摂社との参拝中には数々の神官と関係者と思しき人が正装の中
参拝する道中を一緒にさせて頂くことができた。