清水寺(音羽山清水寺)・ 静岡県静岡市葵区音羽町




清水寺(音羽山清水寺)・ 静岡県静岡市葵区音羽町

静岡県静岡市葵区音羽町、谷津山の西麓にある真言宗の寺院音羽山清水寺

御本尊は徳川家康公により奉納されたと伝わる千手観音菩薩です。

永禄二年(1559年)に今川氏輝公の遺命により、

今川義元公指示のもと建立されたと伝えられています。

また家康公とも所縁があり、観音堂の寄進や三つ葉葵の御紋の使用を認め、

家康公が駿府城在城の時には度々参詣されたそうです。

京都東山の山並みに似ていることから「音羽山清水寺」と称するようになりました。

それ以来「きよみずさん」の愛称で親しまれて来ています。

観音堂1棟と観音堂厨子1基が、静岡県指定有形文化財(建造物)

鉄筋本堂と鐘楼と庫裏が国の登録有形文化財に登録されています。

清水寺 (音羽山清水寺) 

清水寺は、永正年中(一五〇四~)、印隔法印が開いた檀林(学問所)古地に、当時今川八代守護大名氏輝の遺命によって永禄二年(一五五九)家臣の朝比奈丹波守元永が創建したものである。開山は、京都から迎えられた尊寿院大僧正道因と伝えられている。この地の眺望がすばらしく、京都の音羽山清水寺に似ていたので、その名がつけられた。
境内には、慶長七年(一六〇二)徳川家康 が建立した観音堂をはじめ、薬師堂、聖天堂・霊牌、金比羅神社、熊野神社などがある。観音堂の中には、同じ頃に建立されたと思われる禅宗様の宮殿型厨子が安置されている。いずれも安土桃山時代の建築様式を伝え、昭和三十一年五月に県の文化財に指定されている。
また、清水寺境内は文学碑の宝庫でもある。初夏の駿河路を吟じた松尾芭蕉 の有名な句である“駿河路や はなたちばなも 茶のにほい”の句碑をはじめ、山村月巣、小林文母らの句碑が数多くある。樹木におおわれ、苔むした句碑が静寂な境内にひっそりとたてられており、いっそう歴史の重みを感じさせている。
なお、当寺は規律の厳しい寺であるため、観音堂、薬師堂など、殿堂の一般公開はしていない。 「案内板より」
昭和五十八年十月 静岡市

本堂

昭和6年に再建された本堂は当時では珍しい鉄筋コンクリート造りです。

先の住職たちが日中文化交流に貢献し、別称として日華親善殿とも呼ばれています。

薬師堂

薬師堂は建築年代は不明ですが、神仏習合の時代に浅間神社に建てられた護摩堂になります。

神仏分離とともに清水寺に移転されました。

清水寺 (音羽山清水寺)

清水寺(きよみずでら)は、静岡市葵区にある高野山真言宗の寺院。山号は音羽山。

清水寺は千手観音菩薩を本尊とする、静岡県内では数少ない真言宗の寺院。谷津山の西麓にあり、観音堂1棟と観音堂厨子1基が、静岡県指定有形文化財(建造物)で、鉄筋本堂と鐘楼と庫裏が国の登録有形文化財となっている。

今川氏と清水寺

駿河の守護大名・今川氏輝は1513年(永正10年)に、8代今川氏当主・氏親の嫡男として生まれ、13歳で元服した。その翌年に氏親が死亡したため家督を継いだが、このとき氏輝はわずか14歳の若年であったため、氏親の正室・中御門氏が髪をおろし、寿桂尼と名乗って補佐役となっている。その後、1536年(天文5年)に氏輝が24歳で死亡したときに、清水寺の開創を遺命したとされる。「今川記」によれば、氏輝は当時より臨済宗を信仰していたとされているため、遺命でなぜ真言宗の寺院を開創させたのかは謎であるが、寿桂尼が京都出身であり、観音信仰を持っていたからである可能性がある。

また、氏輝が死亡したのと同日に弟・彦五郎も死亡し、後に家督を巡る争い(花倉の乱)が引き起こされている。そのためか、漸く1559年(永禄2年)になって氏輝の遺命が実行され、今川家臣・朝比奈丹波守元長が当寺を建立した。その際、地形が京都の清水寺と似ているため、この寺名が付けられた。

徳川氏と清水寺

開創された清水寺は、堂宇が整うまでもなく1568年(永禄11年)には武田氏の駿河侵攻によって焼失してしまう。しかし、徳川家康が、1582年(天正10年)に駿府を領有して以降はしばしば当寺を参拝し、自らの念持仏の千手観音(伝・恵心僧都作)を奉納するなどした。

また、家康が将軍として江戸城にあった1602年(慶長7年)には高10石の朱印地を与え、この朱印をもって供養田と山林を寄進するとともに、三つ葉葵の使用を許した。そして、大御所として駿府にあった最晩年の1616年(元和2年)には本堂の再建を行った。

その後も当寺は、たびたび災害にあっているが、その都度幕府によって修理が施されている。だが、文化年間には整っていた伽藍が明治初めの絵図に描かれていないのは、安政の大地震によってその大部分が崩壊して以来修理をされていなかったからである。したがって、長い間、幕府の加護を受けてきた当寺もたびかさなる災害により、幕末には衰退の道を歩んでいたことが分かる。

明治維新後、徳川慶喜や徳川家達が静岡にいた際、何度か当寺を訪れ若干の寄進を行った。

清水観音大祭

清水祭と呼ばれるこの祭りは7月9日に行われ、夏を知らせる合図として今でもたくさんの人が訪れる。7月9日は、四万八千功徳日(しまんはっせんくどくにち)に当たる日で、この日に参拝すれば一生分の幸福がもらえるといわれている。また、浅草の浅草寺などでは、四万八千功徳日ではなく、四万六千功徳日となっている。これは一升の升(ます)に米をいっぱいに入れると、米が46000粒から48000粒入ることから、一升と一生をかけて、一生分の幸福が得られるとなったためである。

家康が千手観音を寄進した際に、この観音にあやかるため厄除け開運の大祈願を行い、瓦職人たちが花火を上げたのが始まりといわれている。

文化財

静岡県指定有形文化財

観音堂

国の登録有形文化財
本堂(1931年、古宇田實 設計)RC造、中華風のデザインを加味している
鐘楼
庫裏
Wikipediaより

聖天堂

このお堂は昭和55年に完成しました。

聖天さまをおまつりしています。

鐘楼堂

鐘楼堂は大正8年に建てられました。

静岡市から明治44年に鐘を奉納されましたが戦争時に供出し

現在の梵鐘は昭和25年に復興されました。

観音堂

徳川家康公寄進造営の観音堂、公自身の持念仏である千手観音菩薩を納めたと伝えられます。

平成4年に解体・復元修理がされました。

御開帳は三十三年に一度、現在観音堂は県の重要文化財に指定されています。

清水寺 (音羽山清水寺)

この寺は永禄2年(1559)今川氏第8代氏輝の遺命を受けて、家臣朝比奈元長(あさひなもとなが)が創建した真言宗の寺である。本尊は千手観音菩薩であり、寺の名前は開山第一世の道因大僧正が京都清水寺から招かれて入寺したことから故郷を偲んで音羽山清水寺と名付けなれたといわれる。後に徳川家康公はしばしば当寺へ参詣し、公自身の持念仏である千手観音菩薩を納めたと伝えられる。この観音堂は木造瓦葦四柱造(寄棟造ともいわれる屋根形式で、奈良東大寺大仏殿など重要建築物の屋根に多くみられる)廻縁付で内部は剥げ落ちているが、極彩色であって桃山時代の特徴がうかがわれる。なお、境内には昭和7年に建てられた江戸時代の俳人松尾芭蕉の句碑が建てられている。「案内板より」(静岡市)
駿河路やはなたちばなも茶のにおい

熊野神社

音羽山 清水寺

住所 〒420-0834 静岡県静岡市葵区音羽町27-8
TEL  054-246-9333

アクセス

静岡鉄道音羽町駅を出て、北へ約2分(電車)

東名高速静岡インターチェンジから5km(自動車)

駐車場 2台

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