松山観音堂(聖観音菩薩) 馬頭観音堂(馬頭観世音菩薩像)




松山観音堂(まつやまかんのんどう) 聖観音菩薩(せいかんのんぼさつ)

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いだいら観音の里 観光案内
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井平氏居館跡のすぐ隣に松山観音堂への参拝道があります。

階段を登ってすぐの石段はかなり痛んでいます。

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すぐ、階段と二手に道が分かれます。

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かなり急な階段

山王権現(山の神)は階段脇にあります。

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山王権現(山の神)

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山王権現(山の神)

松山の南側参道より、急勾配な階段を登ると、中断の左側に小さな祠がある。
そこに山の神様(山王権現)が奉られている。
文化10年(1813年)建立。
山の木々の繁殖と山仕事に従事する村人達の安全と繁栄、そして健康、
幸せを祈願したものと思われる。
毎年、年の始めに、近所に住民たちが集まり、香花、お洗米、お酒、
さかなを奉納して参拝する。
また当日は「山の講」と称して、美味しい山菜料理を持ち寄り、
楽しい会食をした。

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四国八十八所弘法大師像

四国八十八所弘法大師像

明治22年、当時、奥山方広寺の今井東明和尚を中心とした村人たちが寄進したもの。
弘法大師像であるがほとんどの石仏の首が折損、紛失しており、痛々しい。
石仏の背裏面にはそれぞれの寄進者の名前が刻まれている。
作成 NPO法人 いーら・いだいら

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馬頭観音堂

馬頭観音堂の中に馬頭観世音菩薩像

享和3年(1803)観音講中が寄進したもの。

馬の守護神として信仰されている。

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馬頭観世音菩薩像

御仏の頭上に馬の頭が刻まれており、蓮華座の上に優しい端正な
お顔をして立っている。しかも大きな蓮の花を両手に抱えており、
慈愛に満ちたお姿をしている。
享和三年(1803年)建立
*馬頭観音さまは、六観音の1ツであり、観音菩薩の化身で
一切の煩悩を打ち砕く威力を示す。
人身馬頭あるいは人頭に馬頭をいただくものもあり、三面八臂・四面臂など、
その形態はさまざまである。
民間では、広く馬の守護神として信仰され、全国各地にその碑が建てられている。
伊平の初午(2月17日)には、近郷よりきれいに飾りたてたジャンシャン馬が
群れに集まり、この松山の馬頭観音堂の周りを廻る。
午後になって馬数も増えると一斉に山を降りて、小学校の西側の道と、
今の国道257号線をつなぐロの字形の道を周る。
今のように体育館、農協、若松屋さん、辻屋さんもなく、
建物は秋葉堂だけであり、一面の水田を囲んでシャン、シャン、シャンと
軽快な音を響かせながら、飼い主に手綱をとられ、或は着物を羽織った馬主
をのせて廻る。
初午は、伊平の住民にとっては年に一回の大イベントの一つであった。

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松山観音堂 聖観世音菩薩像

寛文11年(1671)金指近藤家、家老今正武が寄進した。

肌部には金箔が施されており、町内屈指の石仏である。

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松山観音

この松山は旧小学校とは標高差50メートルほどであるが、
西側、南側そして東側にかけて45度以上の勾配がある山で、
北側は、さらに一段高い井平城のあった城址に続いている。
この地は、城址から南東に向かって半島状に突き出した先端部にあたり、
松を中心に雑木に覆われていた。
松山の名もこのあたりから付けられたのあろう。
(現在は松食い虫の被害を受けて、松は殆ど無い)
南側、正面の参道は急勾配の道と急な石積階段の二通りあるが、
現在は参拝者も少なく、木の根や枯葉に覆われている。
この松山の山頂に通称『松山の観音堂』と呼ばれるお堂と、
その前に小さなお堂がある。
観音堂の裏側には三十三体の石仏(西国三十三所観音)が立ち並び、
また小堂の南側には八十八体の石仏(四国八十八弘法大師像)が点在している。

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聖観世音菩薩

堂内の正面には、現在、仏坂に観音堂で奉られている十一面観音が安置されていたが、
今は林森神社で安置されていた十一面観世音菩薩があり、
向かって右側に奉られているのが聖観世音菩薩の座像である。
聖観世音菩薩は、金指近藤家の家臣今泉兵左衛門正武でよって寄進されたもの。
行基菩薩ゆかりの霊地で、近藤氏の祈願所でもあった仏坂には、
十一面観世音が安置されていたが、戦火を避けるために清水(細江町)に移され、
肝心の仏が祀られていないことを知り、自分が奉安者となり、
寛文11年(1671年)この地に石仏を寄進した。
ところが、明治維新時の「廃仏毀釈」にともなって仏坂から長興寺に移され、
さらに松山の観音堂(明治12年建立)に移され現在に至っている。
*台座の銘文によると『国家の平和、作物の順調な育成、所病の完治、
君子和合、子孫繁栄』を願っている。
石仏を刻んだ石工は不明だが、近藤家の菩提寺、初山宝林寺の一連の
石仏と同時期であり、同じ石仏を刻んだ中国の石工と推察できる。
尊顔部分と両手には、黒漆を塗り、その上に金箔を施した菩薩形の石仏で、
頭は垂形で宝冠台がみられ、耳朶環状でほつれ毛となっており。
蓮弁は二重になっている。この界隈では珍しい石仏である。

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西国三十三所観世音菩薩像

西国三十三所観世音菩薩像

この石仏は明治(1889年)当時の方広寺管長の今井東明和尚を
中心とした人々の寄進である。
今井東明和尚は明治2年の32才の時、奥山蔵竜院に住み、
法友祖柔禅師と連れ立って、西国三十三所の霊場を巡歴した。
それを記して寄進したものと思われる。
作成 NPO法人 いーら・いだいら

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