無双連山(1083m) 高山(1094m) 徳山城址




無双連山(1083m) 高山(1094m) 徳山城址

川根本町H.P

大井川上流域の中川根徳山にある無双連山(むそれやま)から 、

そこから先のピーク高山まで。

南北に屏風のように連なる山嶺を成す無双連山は別名 本城山とも呼ばれ、

南北朝時代に南朝に組する土岐氏の徳山城跡がありました。

山中は人工的に切り拓かれた場所が多く、

城跡の遺構も数多く残っおり、登山とは別に興味深かったです。

無双連山(むそれやま)

標高 1083m 登山日 2019年6月16日
南北に切れ落ちた山頂部には南北朝時代の山城 徳山城跡が残る
所在地 静岡県榛原郡川根本町文沢

高山(たかやま)

標高 1094m 登山日 2019年6月16日
無双連山から林道沿いに延びる山道から深南部の絶景を望む
所在地 静岡県榛原郡川根本町文沢

難易度 ★★    オススメ ★★ 登山口(ナビ検索) 徳山城址
スタート(08:27)→無双連山P6→(09:15)→無双連山P5 (三角点峰)(09:25)→無双連山 電波反射板(09:28)→無双連山P4(09:35)→無双連山P3(09:39)→犬戻し(09:45)→高山(10:22)→ゴール地点(11:51) 所要時間 3時間22分 高低差 476m 累積標高 787m / 781m 距離 11.9m
■大井川上流域の中川根町徳山は、県指定民俗無形文化財に指定されている「鹿ん舞い」「徳山のぼんおどり」で知られている。この中心地大井川鉄道駿河徳山駅より東南東に位置する無双連山は、その歴史を南北朝に遡ることができる。「そのころの支配者、土岐(鴇)彦太郎は平時には徳山の森の段の居館に住み、事ある時には山城である徳山城(本城山)に入るといった生活であったが、足利尊氏の駿河の南朝勢力を一掃しようとした戦略により、駿河の今川範氏に一三五二年(正平八年・文和二年)にほろぼされる。」
■無双連山へは川根町笹間からのルートもあるようですが、中川根町の徳山から文沢林道を経て本城林道を経由して登るルートが一般的です。林道沿いに登山口があります。
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「静岡の百山」は、東部から西部、北部まで静岡県内の山が幅広く選ばれています。 叉、海岸近くの低山から南アルプスの3000mを越える山までバラエティーに富んでいます。 本自体は山名の由来、歴史など生活に密着した山の説明が中心で、登山のガイドブックではありません。 山の知識を深め、より楽しむための本です。

林道分岐の広いスペースより

無双連山 登山口

無双連山へは川根町笹間からのルートもあるようですが、

中川根町の徳山から文沢林道を経て本城林道を経由して登るルートが一般的

尾根をひたすら登って行きます

大木を過ぎ

山頂部へ、この辺は「蔵屋敷」があったとされる場所

無双連山(1083.3m)山頂

二等三角点

山頂に祀られた無双連神が山名の由来と言われています

現在は分沢集落に祀られています。

反射板(無線電波塔)

反射板前は開けており展望スポットになっています

反射板より

手間から智者山・天狗石山・七ツ峰・三ツ峰

本城山(1090m)山頂

無双連山は別名 本城山とも呼ばれ、

反射板裏にある最高所には 立派な登頂記念碑がある。

空壕

細い尾根に残る「空壕」

ここを境に本城と陣屋平を隔ているそう

徳山城址

この辺一帯、一番高い場所に殿屋敷(本丸)跡

帯郭から続く幅2mの土塁の下に腰郭跡が残る

徳山城址は南北朝時代に南朝側に組みした在地の豪族「土岐氏」によって築かれた山城です。同じく南朝側の安倍城主 狩野介貞長とともに、北朝側の今川範氏と戦いました。 安倍川と大井川の分水嶺である標高1083mの無双連山(むそれやま)の山頂付近に築かれた城で、南北に屏風のように連なる山嶺に数多くの遺構が残ります。

徳山城址見取図

徳山城址見取図

殿屋敷から蔵屋敷までを無双連山(むそれやま)と言い、3つのピークを持ち、長さ約800mの山嶺をなし、城址は壕をへだてて、本城と陣屋平に城郭がわかれている。陣屋平一帯は、開発された為と本城ナギの崩壊もいちじるしく、形状も判別困難となっている。

無双連山 P2

無双連山P2部には「無双連山 最高点」の看板

犬戻り

雰囲気ある細尾根「犬戻り」、天然の要塞です

突先山・高山(牛ヶ峰)方面

分岐

分岐を高山方面へ

徳山城の本城、支城、砦群の関係について

この関係図は、徳山城主 土岐氏の支配下を示す。土岐氏は河内の国の出身で、平安時代初期頃にこの地に来たと伝えられえている。

現在、徳山地区にある、徳山神社(八八八年)、八幡神社(一〇五五年)などを創建したと記述にある。その時代より、徳山神楽ヒーヤイ踊り等の文化を伝承され、豊かな地域を形成してきた。

土岐氏が統治して平和な時代が数百年続いたが、やがて南北朝の戦いに巻き込まれていった。京都大学所蔵の駿河伊達文書によると、一三五二年二月二十日、足利尊氏の命により、今川範氏は伊達景宗を従えて駿遠の南朝方を鎮定すべく駿河に入る。

一三五二年八月二十日~九月九日

島田 大津城(城主 土岐四郎左衛門)を攻撃し落城させた。

破れた難聴軍は徳山城(城主 土岐彦太郎)のもとに逃れた。

一三五三年二月十日

北朝軍が徳山城の攻撃を始める。

河内川方面よりの正面攻撃が攻を奏さなかったので、

搦め手の藁科口に転じ背後より迫る攻撃に出た。

十一日

萩多和城 陥落

十三日

護慶土城 陥落

十六日

朝日山陣馬 陥落

十八日

四伝多和場 陥落

二十五日

本城 陥落 と駿河伊達文書に記載がある。

その後、土岐氏は今川氏に属し、この地を治めたと言われている。

林道をひたすら高山へ

オフロードバイク数台とすれ違う

林道からは時より南アルプス方面の展望が望め気持ちの良い道

手前から藪へ

高山(1095m)山頂

三等三角点

展望は無しですが、 広々とした山頂部

無双連山 全景

途中の秋葉古道をショートカットして登山口まで

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