高塚山(660m) 春埜山(883.4m) 白山(658.29)・遠州修験道(春峯)白山〜春埜山




高塚山(660m) 春埜山(883.4m) 白山(658.29)・遠州修験道(春峯)白山〜春埜山

軌道繋ぎと、遠州修験道(春峯)の未踏区間「田能〜白山〜春埜山」を歩くため、

不動川沿いの平尾集落より周回して来ました。

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遠州修験道(春峯)の回峰道は、遠江一宮の本宮山や岩室寺を起点として、

「白山~春埜山~大日山~大尾山~粟ヶ岳~駒形神社~三熊野神社~

普門寺~小笠神社~法多山」へと続く、

遠州地方 東の霊山・寺社を巡るルートだったといわれています。

今回目指した春埜山ですが、表参道は森町大河内集落からの道になります。

当時、大光寺や太白坊権現へ向かう道者の多くは、秋葉街道を森町三倉地区まで向かい、

中村川沿いを大河内へ向かったといいます。

しかし、春峯の回峰ルートは田能集落から尾根沿いに「現在の林道 春埜線」

白山(658.3m)を経由して春埜山に向かいました。

実際は不明なこの区間ですが、数ヶ月前に秋葉街道を歩いた際に、

田能の分岐から春埜山までを歩いてみたいと思ったのが今回の山行の動機です。

一方、春埜山より北側の集落は現在、東海自然道として整備されている

大時集落からの参道を利用して来ました。

この北西側の尾根も、不動川の古い名前を受け継ぐ砂川集落の高塚山(660m)や、

標高513m地点に湧く神秘的な新宮池には、

養老年間(717〜724)創建の新宮神社などがあり、

古くから人が歩いていたのではないかと思います。

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高塚山(たかつかやま)

標高 660m 登山日 2023年6月10日
山頂には高塚不動尊  
所在地 静岡県浜松市天竜区春野町砂川

春埜山(はるのさん)

標高 2296.94m 登山日 2023年6月10日
春埜山 大光寺
所在地 静岡県浜松市天竜区春野町花島

白山(はくさん)

標高 2296.94m 登山日 2023年6月10日
山頂下に白山神社跡
所在地 静岡県周智郡森町三倉

難易度 ★★    オススメ ★★★ 登山口(ナビ検索) 若身橋交差点
スタート地点(08:42)→新宮池(09:52)→春埜山無線中継所(12:10)→春埜山(12:15)→大光寺(12:24~12:32)→春埜山無線中継所(12:43)→白山(14:02)→ゴール地点(15:55) 所要時間 7時間10分 累積標高 1800m / 1767m 距離 33.2m
■春野町と森町の境にある標高883mの山。山頂近くに行墓作の仏像を安置する古刹大光寺や樹齢1,300年余の大杉「春埜杉」(県指定天然記念物)が茂ります。天気のいい日には、北側に竜頭山やボンジ山、京丸山などが美しく見えます。■養老2年、僧行基によって開されたと伝えられ、境内には樹齢1,200年余の杉の大木(県指定天然記念物)が深山幽谷の気配を漂わせている。春野町の東端に位置し、「春ひらきし山を春埜山、秋ひらきし山を秋葉山と称す」と伝えられるように、町の両端にそびえる秋葉山とともに北遠霊山のひとつに数えられている。

「静岡の百山」は、東部から西部、北部まで静岡県内の山が幅広く選ばれています。 叉、海岸近くの低山から南アルプスの3000mを越える山までバラエティーに富んでいます。 本自体は山名の由来、歴史など生活に密着した山の説明が中心で、登山のガイドブックではありません。 山の知識を深め、より楽しむための本です。

東海自然歩道

国道362号 若身橋交差点を右折、

県道58号「袋井春野線」不動川沿いの平尾集落より

先ずは軌道繋ぎを兼ねて、東海自然歩道で春埜山を目指します。

東海自然道はここで県道から離れ 高森集落へ向けて登って行きます。

ちょうどこの日は「春野人めぐり」という、

一芸を持った方の自宅や工房を開放し、地域内外の住民を受け入れるという、

訪問型のイベントが行われていました。

高森集落

高森集落では茶摘みの最中

こんな林道を歩いて行きます

中谷集落

中村集落

中村集落の交差点へ

新宮池・東海自然歩道は左の「町道 新宮線」

右へ行くとショートカットして再び東海自然道に合流します。

少し登ると新宮神社の常夜塔が2基

新宮池(しんぐういけ)へ

前回は車でここまで来て、池の周りを一周して高塚山に登りました。

観光客の姿があるかと思いましたが、この日は貸し切りです。

新宮池

「新宮池」は春野町和泉平の標高513m地点にある池です。

池の畔には「新宮神社」が鎮座します。

新宮の名前の通り、御祭神は養老6年(723年)に熊野速玉大社より勧請されました。

周囲500m・4ヘクタール、数千年前から水を湛えている神秘的な池で、

大蛇伝説や湖底で諏訪湖と繋がっている?などの言い伝えが残っています。

新宮池の伝説

標高668mの山頂、新宮神社のほとり周囲五百米のこの池が新宮池で、幾千年前から満々と水を湛えている不思議なこの池には、古くからのこんな伝説があります。「昔。この地に大変乱暴な大蛇がすんでいて、度々畑や山を荒らし、美しい花に化けたたり若い公家に変身して村の長者に娘に危害を加えようともしましたので、村人たちは水際に大木を伐り倒してして投げ入れ古い鉄の鍋や釡を池の底に沈めてこらしめました。さすがの大蛇も、とうとう家山(榛原郡川根町)の池に逃げて行きました。」と語りつがれています。又、この新宮池は信州・諏訪湖の水が通ってるといわれます。が・・・ 池の水底より噴泉してやまない和泉を思うとき、その名を負う「和泉平の里」の遥かなる歴史の重さが感じられます。

池を覗いていると鯉が餌欲しさに近づいて来ます。

ここも新 浜松の自然100選に選ばれています。

新宮池

周囲500m。冬でも涸れることない湧水を源泉とする神秘的な新宮池には、諏訪湖との地底水路の言い伝えや竜蛇伝説があり、毎年夏に数多くの提灯を掲げた船屋台を湖面に浮かべる鮮やかな大祭が行われています。

新宮池夏祭り

毎年7月下旬には池に屋台舟を浮かべ、 夜には花火が打ち上げられる盛大な祭りが開催されます。

池の東に新宮神社が鎮座

新宮神社

新宮神社

御祭神 伊邪那岐命・伊邪那美命・瓊々杵命

御由緒

《創立年月日》養老6年(723)旧社格 村社

養老6年(723)6月紀伊の国熊野新宮神社の祭神を勧請し、延暦6年(787)9月社殿を創建する。永保3年(1083)9月再建の上社名を新宮神社と改称する。明治12年8月26日村社に加列する。〈例祭日〉7月24日

三等三角点(高塚山) 633.04m

新宮池からは東海自然道を一旦離れ、前回歩いた高塚山を経由します。

山頂手前のピークに三角点があります。

高塚山(660m)山頂

その尖った山容から「春野富士」の別名があります。

山頂周辺に以前あった山標は無くなっていました。

直ぐ下には八坂神社の奥宮 高塚不動尊の祠があります。

高塚不動尊

高塚山から東への道は参道として整備されています。

急坂を100m程下ると八坂神社の境内へ

八坂神社

江戸末期頃までは現在の不動川は砂川(いさがわ)と呼ばれていたそうです。

この八坂神社はその古い川の名を残す麓の砂川集落の氏神です。

林道の石仏

林道を歩いていると北側に展望が開けた所へ

左から、ボンジ山(1293.1m)・京丸山(1469.5m)・高塚山(1621.5m)

竜馬ヶ岳(1501.3m)・岩岳山(1369.6m)・入手山(1212m)

南アルプス深南部前衛の山々

再び東海自然道へ

春埜山への登山道がある大時集落が見えてきました。

大時集落

県道389号「水窪森線」と交差します。

ここを左へ行くと春埜山がある花島集落へ

ここ大時は森町大河内からの表参道に次ぐルートでした。

昔は花島から春埜山へ向かうことが出来なかったため、この道を利用していたそうです。

古い春埜山の看板

この看板につられ舗装路を登ってしまいましたが、

ここから東海自然道は昔の参道を登り「林道 春埜線」に合流します。

茶畑と高塚山

振り返ると中央に尖った高塚山

たおやかな三角点峰下の鞍部に新宮池があります。

春埜山参道

標高708mから再び東海自然道は林道をショートカット、

昔の参道の雰囲気が残る良い道です。

春埜山(883.4m) 二等三角点(春野山)

春埜山山頂付近の祠

後ろには樹齢200年の春埜山イチイガシ

春埜山大光寺へ

春埜山の額の掛かる立派な鳥居 曹洞宗の寺院 大光寺は、

余りにも人里離れていたため明治の宗教政策の網を掻い潜り、

魅力ある神仏混合の姿を今に残しています。

春埜山 大光寺・大白坊大権現

遠州は全国でも類を見ないほど天狗の話が沢山残っている地域です。

修験の盛んだった遠州の各霊山では「遠州の七天狗」と呼ばれる

名高い天狗達が祀られています。

「遠州七天狗」

秋葉山秋葉寺(三尺坊)・春埜山大光寺(太白坊)・光明山光明寺(笠鋒坊)・大日山金剛院(繁盛坊)・小笠山大乗院(三広坊)・奥山方広寺(半僧坊)・雲林寺(思案坊)

春埜山大光寺の石柱

春埜山は俗に春葉山とも呼ばれ、秋葉山とは対になった霊山です。

春埜山は養老2年(718年)の春に行基により開創、

秋葉山は同年秋にに同じく行基により開かれたために名付けられたといいます。

遠州修験の回峰道も春埜山は(春峯)、秋葉山は(新 秋峰)を経由するのも

こういった経緯からなのでしょう。

また、両山の1年前に開かれた光明山を加えた三山を「遠州三霊山」と呼びますが、

その中でも春埜山は不遇な寺運を辿ったといえます。

春埜山

由緒

開創は奈良時代の養老二年(718年)、行基が周北の山稜を巡錫したとき、この山の霊気にふれ、杉の大木をもって大梵天・帝釈天・閻魔大王の三体を刻み込め小堂を構えて安置したのがはじまりとされています。 行基よって秋葉山に霊場がひらかれたのと同じ年です。 奈良・平安・鎌倉時代の春埜山がどのような寺運を重ねたのか、史料が残されていないため判らないが、室町時代の頃には修験の吉祥院の別院になっていたようです。 江戸時代初期の慶長年間(1598〜1614)に春野町若身の瑞雲院が吉祥院の承諾を得て堂宇の修復を行い、大光寺という寺号を付けて、瑞雲院の末寺としました。本寺瑞雲院が曹洞宗であるため、この時から大光寺も真言宗から曹洞宗としての寺歴を重ねることになります。 こうして江戸時代に瑞雲院の末寺となった大光寺ですが、余りに避遠の寺であったため経営を維持することが出来なくなり、再び吉祥院の別当寺(神仏習合に基づいて置かれる神宮寺)に戻されてしまいます。 江戸時代中期の寛文年間(1661〜1672)には吉祥院が廃されてしまったため、再び瑞雲院の末寺となり今日に至っています。  「天竜川と秋葉街道」より

春埜山大光寺 境内

春埜山大光寺 本堂

春埜山大光寺

本尊 太梵尊天・帝釈尊天・閻魔尊天

守護神 太白坊大権現

地元の人たちから「お犬様」と呼び親しまれている大光寺は、曹洞宗 神仏混交の修験の山として知られています。 春埜山は秋葉山と対になり、奥の院である山住神社の里宮であったという説もあります。 大光寺の本堂前には、狼の狛犬が控えていて、ここが修験道の狼信仰の山であったことがうかがえます。 守護神の太白坊は春埜山に住む天狗であると言われ、本尊である三尊天を守護するとされています。 また、その眷属である狼を派遣し、信者の祈願成就を助けるとのことです。 大光寺の開山は、養老2年行基菩薩がこの山頂に庵を開いたことが始まりとされています。 境内には行基菩薩お手植えと伝えられる、樹齢1300年の春野杉があり、県の天然記念物に指定されています。 寛文年間には一時無人となったこともありましたが、江戸時代には復興し、明治の神仏分離令のときにも神仏習合を通し今日に至っています。

大光寺は明治時代の廃仏毀釈を免れ、神仏混淆の姿をとどめています。

社殿の造りなども本当に魅力的です。

御神殿の階段下には「福田講中」と書かれた灯篭があります。

灯篭等の銘文を見ると大正や昭和と比較的新しく、

清水や静岡など海岸沿いの寄進が多いことに気づきます。

これは幕末に流行したコレラを鎮めるのに御利益があるということで

当時一躍人気なったようで、意外にも海岸沿いに檀家が多いそうです。

大光寺は文政二年(1819)に不慮の災禍により焼失、

その後25年後の天保十五年(1844)に再建された堂宇も

慶応元年(1869)に焼失してしまいます。

現在の建物はその後に再建されたもになります。

山犬信仰

本堂の前には一対の山犬(狼)の狛犬が控えています。

近づいて見ると春埜山の山犬は痩せてあばら骨が浮きでていて少し怖い表情をしています。

同じく山犬信仰の聖地である山住神社を奥の院、春埜山は里宮であったという説もあります。

台座の銘文には大正九年、

駿河の信者達によって寄進されたとの銘が読めます。

寺務所

山門

今は通る人もいない苔生した階段が大河内からの参道です。

山門の左下に巨大な春埜杉がたっています。

「遠江古跡図絵」では春埜杉のことを鳥居杉と記しています。

もしかしたら対になる杉が右にあったのかもしれません。

山犬と太白坊のお札

山犬のお札は水窪町の山住神社の物が有名ですが、

春埜山の山犬はことのほか「狐つき」に御利益があるといいます。

今でも北遠における民間信仰としてこの山犬のお札をうけて、

家の軒下にはって魔除けとしている家も少なくありません。

春埜山の守護神とされる太白坊は、秋葉山の三尺坊と同様に修験者であり、

またくちばしをもった天狗とされ、不動明王の背に羽が生えたような立姿に

背後には火焔を背負っています。

太白坊が天を飛翔するとき、眷属(けんぞく)である狼(山犬)に乗って東奔西走し、

人々の願いを助けるという信仰がありました。

ここも当然 浜松の自然100選に選ばれています。

春埜杉

静岡県指定天然記念物(1952年4月1日指定)

行基菩薩が、春埜山大光寺の開山の際に植えられたものと伝えられています。 県の天然記念物に推定されています。

樹種 スギ

推定樹齢 1300年

樹高 44m

目通り幹囲 14m

技張り 31m

所在地の地名 静岡県浜松市天竜区春野町花島

春埜杉

度重なる大光寺の火災でも焼けず

おそらく幾度も雷が落ちたのでしょうが今も樹勢は盛んです。

大光寺 展望台より

残念ながら曇ってしまいました。

ここから白山経由で三倉の田能集落まで、遠州修験(春峯)の回峰道を歩きます。

土砂崩れ

一応ここからが今回のメインですが、歩けるよな尾根道は断続的にしか残っていません。

豪雨の後は歩きたくないので諦めて林道を行くことにしました。

この土砂崩れのため、林道 春埜線は現在通行止めです。

白山(658.29m) 三等三角点(便家)

2度目の登頂の白山、なかなか登る人もいない里山ですが、

名峰白山の名を冠した霊山で、回峰道はここを経由します。

白山神社

山頂直下には壊れた白山神社跡が残っています。

周智トンネルの上には廃車と四等三角点(天幡塚) 366.46m

三角点が見当たらないので撤去されたのかもしれません。

ここを左へ行くと三倉の田能集落へ

前回、秋葉街道を歩いた際に春埜山の道標があった場所に出るはずです。

田能集落の道標

秋葉山と春埜山の分岐に建つ田能集落の道標

田能小沢宿は、春埜山や大日山へ、秋葉山から常光山(山住)へと続く

回峰行(修行道)の宿として古くから栄えていたといわれます。

浅羽郷土資料館の【遠州の霊山と山岳信仰―その源流と系譜―】によれば、

遠江一宮の本宮山や岩室寺を起点とし、

(白山~春埜山~大日山~大尾山~粟ヶ岳~駒形神社~三熊野神社~普門寺~小笠神社~

法多山)へと続く遠州の東方の霊山・寺社をめぐる『春の入峯修行場』

また、(光明山~観音山~龍ヶ岩山~富幕山~石巻山~普門寺)へと至る

遠州の西方をめぐる『秋の入峯修行場』が存在しました。

中世後期には、秋葉山を起点に竜頭山、山住山(常光寺山)へと続く

南北の修行道『(新) 秋の入峯修行場』も開かれました。

これら回峰修行の道は密教の山岳寺院も組み込む形で、

鎌倉時代初期には形成されていたと考えられています。

小奈良安集落への分岐

来た道を戻り、 再び戻り周智トンネルまで下ります。

周智トンネル

右には今は使われなくなった「旧 周智隧道(周智トンネル)」

このトンネルが掘られる前は、森町乙丸から田能・静修(小奈良安)・平野を通り、

平尾の不動橋へ通じる道を木炭バスが走っていたそうです。

またそれ以前は秋葉街道(信州街道)の峠を越えていました。

青洞の岡展望台より城山(553m)

県道58号「袋井春野線」を戻ります。

ここでも道路が陥没しており一部片側通行になっていました。

「春野いきいき天狗村」に寄り道して終了

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