庚申寺・静岡県浜松市浜北区宮口




庚申寺・静岡県浜松市浜北区宮口

静岡県浜松市浜名区宮口にある臨済宗方広寺派の寺院「庚申寺(こうしんじ)」です。

古くから大阪の四天王寺と並び、遠州地方の庚申信仰の中心として栄え、

地元では「宮口の庚申様」と呼ばれて親しまれています。

寺伝によると神亀2年(725年)現在の境内地の北西に観音山光明寺として創建。

明徳元年(1390年)金剛山庚申寺として再興され、真言宗から臨済宗に改宗したと伝わります。

本尊は釈迦如来。

宮口の街並み

庚申寺の門前町・秋葉街道の宿場町として栄えた宮口宿の街並みです。

庚申寺を北の中心に置き、南に延びる門前通りの両側には間口が統一された家が並び、

その背後に用水が設けられるなど、計画的につくられた町です。

一部には石畳の舗装がなされ、花の舞酒造などの古い建造物が残っています。

花の舞酒造

庚申寺門前の石畳沿いに店を構える「花の舞酒造」は創業元治元年、

150余年の歴史を誇る老舗酒造会社です。

社名の「花の舞」は、天竜川系に古来より伝わる奉納おどり「花の舞」に由来しています。

宮口のむかしのまちなみ

庚申寺は、神亀二(七二五)年に開創され、明徳元(二三九〇)年にこの地へ移転したと伝えられています。そして、江戸代以降、庚申信仰の高まりや、五穀豊穣を祈る農家の信仰を集めるなどして、多くの人々が訪れるようになりました。 そうした中で、宮口は庚申寺の門前町として賑わい、また秋葉山や奥山方広寺への中継地、あるいは木材や茶、繭などの集散地として栄え、古くからまちなみが形成されていました。 江戸時代の絵図をみると、庚申寺の山門は現在地よりも三〇mほど南の交差点のところにあったようで、門前からまっすぐ延びる参道の両側に、間口をほぼ七間(約一二・六皿)に揃えた家々が整然と並び、西ノ谷池と蛭沢池から引いた水路が、まちなみの外側を囲むように流れている様子が描かれています。また、絵図には描かれていませんが、参道の側溝や、参道沿いの家々の中を縦貫する排水路が盤備されており、今も一部が利用されています。 現在、古い家並みは見られなくなりましたが、道筋や家の間口の広さ、わずかに残る古い建物などが往時をしのばせています。

庚申寺 山門

寛政8年(1796年)に建立の山門です。

以前はここより南に30m手前、現在の交差点の所にありました。

庚申信仰の寺院なだけあり、山門の棟瓦には十二支動物、

屋根の四隅に不見猿・不聞猿・不言猿の三猿と、宝珠猿(鬼門除けの猿)がのっています。

庚申寺 鐘楼 

境内の中央には、天保三年(1832年)建立の鐘楼が建ちます。

庚申寺 秋葉山常夜灯

庚申寺庫裡

庚申寺の創建は神亀2年(725年)、

現在の境内の北西に真言宗 観音山光明寺として創建されました。

その後、明徳元年(1390年)現在地に庚申堂を建立し、

臨済宗方広寺派の寺院「金剛山 庚申寺」に改宗します。

寛政4年(1792年)火災で焼失、現在の建物は 江戸時代の終わり頃に再建されたものです。

浜松市指定文化財

庚申寺

二十四考図絵馬 昭和五十七年五月二十二日指定

庚申寺は庚申信仰の拠点として、近世においては遠州地方一円の信仰を集めました。現在は金剛山庚申寺と言う臨済宗方広寺派の寺院となっています。寛政四年(1792)に火災にあったため、境内の建物のほとんどは江戸時代の終わり頃に再建されたものです。

庚申の庚は十二支の猿に当たり、山門の棟瓦には十二支の動物が彫り込まれ、四隅には瓦製の三猿(不見猿・不云猿・不聞猿)と鬼門避けの猿(宝珠猿)が乗っています。

また、内部に掛けられている二十四孝図絵馬は、尾野村の人々が元禄六年(1693)に雨乞いのために奉納したものです。

庚申堂拝堂 寛政八年建立 (一七九六年)

山門    寛政八年建立 (一七九六年)

鐘楼    天保三年建立 (一八三二年)

奥の院   天保十二年建立(一八四一年)

庚申堂拝堂

寛政八年(1876)建立の「庚申堂拝堂」です。

本地十一面観世音菩薩像・庚申尊天・脇立月懐長者・金剛童子を祀る。

正面にお願い猿(宝珠猿)、宝珠を3回撫でると願い事がかなうそうです。

拝堂内部

拝堂内部の正面中央には「請雨額」

左に「二十四孝図絵馬」・右に「源頼政の鵺退治の絵馬」が奉納されていいます。

二十四孝図絵馬は、尾野村の人々が元禄六年(1693)に雨乞いのために奉納したもので、

昭和五十七年五月二十二日に浜松市の文化財に指定されています。

庚申信仰

宮口は庚申信仰が強い地だったようで、中でも「庚申寺」はその拠点となる寺院でした。

庚申信仰とは、中国の道教思想に由来する禁忌信仰です。

60日毎にめぐってくる「庚申(かのえさる)」の日には、

人間の腹中にいる「三尸(さんし)」と呼ばれる虫が体内から抜け出し、

天帝に、その人の罪科を告げることによって、命が奪われるというので、

その夜は眠らず身を謹んでいなければならないという延命長寿の思想です。

今でも2ヶ月に1度「庚申請」が行われているところがあるとのことです。

宮口三十三観音(21〜23)

庚申寺の境内には宮口三十三観音のうち、

(二十一番~二十三番)三体の石仏が置かれています。

宮口三十三観音めぐり

観音菩薩は、現世や来世のしあわせを導いてくれると信じられ、平安時代から各地で建立されました。 文政四年、(1821)十月、中瀬村の清水源ハが「袖ヶ浦三十三札所」をつくり、この活動に刺激され、宮口でもさらに簡便な札所を作ろうとする行動が起こったと考えられます。 この宮口三十三観音菩薩像は、嘉永三年(1850)お釈迦様の誕生日にたる四月八日、西国三十三ヶ所の観音巡礼の霊場に倣い地元篤志家により宮口ハヶ所に安置され信仰されてきました。

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