相倉伝統産業館 相倉集落(あいのくらしゅうらく)世界遺産・富山県南砺市相倉




相倉伝統産業館 相倉集落(あいのくらしゅうらく)世界遺産・富山県南砺市相倉

白川郷・五箇山の合掌造り集落 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/白川郷・五箇山の合掌造り集落

ユネスコの世界文化遺産「白川郷・五箇山の合掌造り集落」の

構成資産「相倉集落」の一番奥、少し下った所に「相倉伝統産業館」があります。

南砺市相倉民俗館・相倉伝統産業館

沿革・概要
昭和44年7月7日開館。
相倉合掌造り集落が国の史跡に指定されたのを機に、当地方の民俗資料を収集し、
風土に培われた生活用具を展示公開する施設として設置された。
1号館と2号館があり、共に茅葺き合掌造りの古い家を利用している。

所在地
(民俗館)  〒939-1915 南砺市相倉352
(伝統産業館)〒939-1915 南砺市相倉204-2
電 話
0763-66-2732
開館時間
8時30分~17時
入館料
大人200円・高校生100円・小 中生50円 ・共通券350円
休館日
年中無休

五箇山和紙

その昔、約1200年前の正倉院宝物と平安時代の延喜式に、
朝廷へ和紙を納めたとして越中国が記されていおり、約400年前の江戸時代、
五箇山平地域で作った中折紙が、その当時の越中(富山県)を収めていた、
加賀百万石二代藩主、前田利長公に贈られたという記録が残っています。
以来、五箇山和紙は加賀藩の手厚い保護を受けながら発展し、
良質和紙の産地として今日に至っています。
奈良・正倉院文書に記述が残る「越中国和紙」。
古くから受け継がれてきた伝統の五箇山和紙は「越中和紙」と総称され、
国の伝統工芸品に指定されています。
一層優雅な風格をもつ生漉楮紙や加工品は全国の有名作家や
文人墨客の友として親しまれており、五箇山和紙の里では年に一度、
「全国和紙ちぎり絵展」も開催されています。

大雨で観光客もまばら、

解説員の方に一人で数時間じっくりお話を伺いました。

合掌造りの産業(塩硝)

五箇山の合掌づくりの家では藩政時代、
黒色火薬の原料である煙硝(えんしょう)が秘密裡に製造されていました。
(加賀藩では「塩硝」の字を使っていました。)
製造された塩硝は「塩硝の道」とよばれる険しい山道を人力や牛を使って輸送され、
全て殿様のお膝元である金沢へと届けられていたのです。
「塩硝の道」は地図にも書き記されない秘密の輸送ルートであったそうです。
五箇山そして白川郷の塩硝づくりは加賀藩が300年間以上にもわたって行ってきた
藩の直轄事業でした。
加賀の塩硝は「日本一良質である」とされていたそうです。
人里はなれて外界から隔離された山間の村は、
藩が主導する煙硝の密造には好都合の場所だったのです。
この塩硝づくり、山村生活の廃棄物と「発酵」の力をうまく利用したものです。

堆肥づくりの中に「化学」を見出し、
塩硝づくりの手法を完成された先人の知恵は感嘆するに余りあります。
他藩の塩硝づくりが「古い家の縁の下から自然発生したものを採集する」
というものであったのに対し、加賀藩では「人為的に塩硝を製造していた」のです。
明治中期に安価なチリ硝石が輸入されるようになって以来、
五箇山で塩硝づくりは消滅しましたが、
鉄砲伝来の時代に端を発するといわれる五箇山の塩硝づくりは、
加賀藩の発酵産業がいかに発達し、高いレベルにあったかを今に伝える記憶のひとつです。

堆積
いろりの炉端の両側に長さ2間(3.6メートル)、幅3尺(90センチ)、
深さ1間(1.8メートル)の溝が炉端に沿って掘ってある。
この溝に原料を入れる。
① カイコや鶏の糞を混ぜた土壌
② そば殻やヨモギ ・麻の葉を干したり蒸したりしたもの
③ ①の土壌
④ 人尿
⑤ 土
の順に何層にも積み重ねて床の間際まで積む。

貯蔵発酵
いろりの熱のもと、4・5年の長い年月をかけて発酵させる。
年に1度掘り起こし新しい空気に触れさせ、混ぜ合わせる。
①から④を足してまた土をかぶせて埋める。
これを繰り返しできたものを「塩硝土」という。

塩硝抽出
「塩硝土」を桶に入れ水をかけ、一昼夜おく。
塩硝の水溶液を抜取り塩硝釜で煮詰める。
草木灰を加え濾過。濾過液をさらに煮詰めて塩硝を凝縮していく。
最後に自然乾燥して結晶を得る。
これが「灰汁煮塩硝(あくにえんしょう)」。
塩硝は金沢に運ばれ硫黄・木炭と配合され黒色火薬が製造されていた。


麦や節

五箇山周辺は平家の落人伝説があります。

「麦や節」の勇壮な舞にはそんな経緯が残されています。

また陸の孤島であった五箇山は流布の地でもありました

この地に流された遊女 お小夜の芸事と現地の田遊びが結びつて

特有の五箇山民謡が誕生したとも言われています。

お小夜塚・五箇山民謡発祥の地(民謡の里)の記事

麦や節
めでた唄に秘められた思い

麦や節は、五箇山民謡の代表でもあり、全国的に知られています。
歌詞のうたい出しが「麦や菜種は……」だったことから、
「麦や節」と呼ばれるようになりました。
麦や節の由来についてはいろいろな説があり、平家の落人によって創られたとする説、
平家の落武者平紋弥(もんや)が教えたことから
「もんや節」と呼んだところから起こったとする説、
さらには「お小夜節」の主人公であるお小夜が教えたものとする説などさまざまです。
しかし、やはり五箇山が平家の隠れ里であったことや、歌詞の内容から、
麦や節と平家落人伝説を結びつけて伝承されてきたことがわかります。
かつて「平家にあらざるものは人にあらず」と豪語した
自分たちの悲しい運命を唄に託してうたい踊ったそうです。
麦や節の元となる民謡は、九州の馬渡(まだら)島で発祥した
「まだら」という漁師の唄でした。
それが日本海の海岸線を北上し、石川県能登半島にたどり着いて、
「輪島まだら」「七尾まだら」と呼ばれるようになりました。
まだらのうたい出しが「めでためでたの……」だったことから、
これらは「めでた節」とも呼ばれています。
明治の中ごろまでは宴席の祝儀唄としてうたわれていましたが、
それに振り付けをつけることで舞台芸能として登場し、
現代民謡のひとつの形を作り上げました。
黒の紋付袴で、白たすき、白足袋といういでたちで、
一尺五寸の杣(そま)刀を差し、笠を持って踊ります。
黒と白のシンプルな色づかいの中に緋色の杣刀が浮き上がり、
それらが作り出す色の対比が体や手足の動きをはっきりと映し出します。
また、笠を回転させたり、上下に動かしたりする中に一瞬の静止を入れることで、
静と動の対比を強調し、洗練された踊りとして目を奪います。
このように麦や節は、色の対比、動きの対比で、
視覚的に楽しめる洗練された踊りとなっています。
早いテンポの中に哀調ある歌詞。勇壮で力と活気に満ちた踊り。
「麦や節」の中にはさまざまな対比があり、そしてそれらが調和することによって、
心地よい緊張感ある空間を作り出します。


こきりこ節

「こきりこ」とは画像の衣装前にある二本の竹で作った簡素な楽器こと

合掌造りの室内で燻された竹は高く乾いた良い音を鳴らします。

また「ささら」と呼ばれる108の竹の板を束ねて作られた楽器を波打たせて鳴し

こきりこ節の伴奏を奏ます。

こきりこ節
日本最古の民謡

こきりこ節は日本で一番古い民謡です。
こきりこは田楽から派生し、田踊りとして発展しました。
田楽や田踊りは、五穀豊穣を祈り、百姓の労をねぎらうため、
田楽法師と呼ばれる職業芸能人たちが田植えや稲刈りの間に行った踊りでした。
こきりこが世に知られるきっかけとなったのは、
昭和5年に詩人の西条八十氏が五箇山を訪れたことでした。
このとき、すでに五箇山でこきりこ節をうたう人はなく、
伝承され続けてきた古謡がこのまま滅び去ってしまうのかと危惧されました。
しかし、こきりこ節最後の伝承者山崎しいさんを探し出すことができ、
伝承の糸を切らすことなく今日まで受け継がれてきました。
こきりこは、「筑子」、「小切子」とも書き、
二本の竹で作った簡素な楽器の名前に由来していると言われます。
これを手首を回転させながら打ち鳴らすと、軽やかな音を出します。
また、竹の板を束ねて半円に構えて波打たせて鳴らす
「ささら」の不思議な響きも耳に残ります。
鍬金(農耕用の鍬を打楽器として打ち鳴らすもの)や
太鼓も田楽のころから変わらずこきりこ節の伴奏を奏でています。
こきりこ節の特徴的なお囃子「デデレコデン」は、太鼓の音を表したものとされています。
こきりこ節はこれからも五箇山を代表する民謡として、
うたい踊り受け継がれていくことでしょう。

こきりこの竹は 七寸五分じゃ
長いは袖のかなかいじゃ
(まどのサンサもデデレコデン
はれのサンサもデデレコデン)
向かいの山に啼くひよどりは
啼いては下り 啼いては上り
朝草刈りの 眼をばさます
朝草刈りの 眼をさます
(まどのサンサもデデレコデン
はれのサンサもデデレコデン)
踊りたきゃ踊れ 泣く子をいこせ
ササラは窓の もとにある
(まどのサンサもデデレコデン
はれのサンサもデデレコデン)
向かいの山に光るもんは なんじゃいな
お星か螢か 黄金の虫か
(まどのサンサもデデレコデン
はれのサンサもデデレコデン)
今来る嫁の たいまつならば
さし上げてともしゃで やしゃおとこ
(まどのサンサもデデレコデン
はれのサンサもデデレコデン)

現在昔の生活用品が展示されている二階は

お蚕を飼っていました。

地下では「塩硝」二階では「養蚕」、「五箇山和紙」と

合掌造りの家は工場のような役割も合わせもっています。

チョンナバリと言う、雪深い急傾斜地のために根元が曲がって成長した

曲梁を使用しています。

また、合掌造り家屋の三角形の両辺、

屋根の部分を構成する「合掌材」は先端が細く削られ(合掌尻といいます)、

ウスバリの両端に明けた穴に差し込みます。

これは「ピン構造」といい、屋根からかかる重力を軸組部へ伝え、

家屋を安定させ、地震や雪荷重から守るしくみとなっています。

また1階部分は加賀宮大工が建て2階部分は集落の人々により建てられて来たそうです。

二階の窓より、その後 相倉民族間へ

相倉民俗館の記事

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