蜂前神社(はちさきじんじゃ)
宗教法人蜂前神社 H.P
http://hachisakijinja.or.jp
静岡県浜松市細江町にある蜂前神社(はちさきじんじゃ)へ
JR金指駅の南2Kmほどの中川に鎮座。
蜂前神社(はちさきじんじゃ)
直虎の花押が記された唯一の古文書「井伊直虎関口氏経連署状」を所蔵。
応神天皇の時代、八田毛止恵が勅命によって遠江国に下向して開墾し、
八ヶ前の地に本社勧請したのが始まりだといわれる。直虎書状は浜松市博物館に保管されている。
蜂前神社
神社の前に広がる平野もかつては今川家の家臣として井伊家の領地でした。
この一帯をかつては刑部郷といい、これは奈良時代からつづく古い地名です。
井伊直盛の代に今川義元に謀反を疑われた一族の直満・直義が殺害され、
直満の子・亀之丞は信州に身を隠し、許嫁だった直盛の娘も出家してしまいます。
弘治元年(1555)に帰還した亀之丞は名を直親と改め、神社のある祝田村(ほうだ)に
住みました。
桶狭間で主君・義元とともし直盛が戦死すると直親が家督を継ぎましたが、
今川家から徳川家への謀反を疑われて謀殺されます。
存亡の危機を迎えた井伊家は、出家していた直盛の娘を当主としました。
女性として井伊谷領主を継いだ井伊直虎に対して、永禄9年(1566)、
今川氏真は井伊谷及び祝田・都田の地域に徳政令(貸借関係の破棄)を命じました。
直虎は独自の判断で、徳政令の実施を2年間押しとどめています。
蜂前神社には、その時の経過がわかる古文書が残っています。
平成28年3月 非宅まちづくり推進課
蜂前神社の由来
祭神 本社 熯速日命
左脇宮 甕速日命
右脇宮 武甕槌命由緒
十五代應神天皇十一年庚子三月八日(西暦二七〇年)に
八田毛止惠と云う人が勅命によって遠江國に 下向して八田(祝田村の古名)四十五町
廣田(刑部村の古名)七十町
岩瀬(瀬戸村の古名)八町三反合計百二十三町余りを開墾して本社を八ケ前に勧請して
蜂前神社と斎き奉り子孫代々 祝部として奉仕しました。
脇宮二社は十九代允恭天皇の御代に勧請されその頃から社号は鳥飼神社、
羽鳥大明神と 稱へられ延長五年(西暦九二七年)蜂前神社と 改め古名に復しました
延喜式神名帳に記載されている式内社であり旧社格は郷社であります。
本殿には、熯速日命を祀る。
本殿の左右の脇宮祭神は、左脇宮が、甕速日命を主祭神に、
天忍穂耳命・蛭児命・大己貴命・少彦名命・天穂日命を合祀。
右脇宮が、武甕槌命を主祭神に、國狭槌命・石凝姥命・市杵島姫命・大山祇命を合祀。
拝殿横に社務所があります。
あいにく留守のため御朱印は頂けなかった。
社殿左手に並ぶ境内社は、
八幡社・玉津嶋明神社・若宮社・仲宮姫命社・豊受姫命社の5社。
天王宮は少し登った所、
本殿の真裏辺りにあります。