雛鶴神社(ひなずるじんじゃ)・山梨県都留市朝日曽雌




雛鶴神社(ひなずるじんじゃ)・山梨県都留市朝日曽雌

雛鶴神社 Wikipedia

雛鶴神社(ひなずるじんじゃ)は

南北朝時代、後醍醐天皇の皇子 大塔宮護良親王の側室 

雛鶴姫(ひなづるひめ)をお祀りしています。

雛鶴トンネルを挟み東と西に2社

こちらはトンネル西側、都留市朝日曽雌に鎮座する雛鶴神社になります。

雛鶴トンネル

南朝の後醍醐天皇の皇子護良親王は、

鎌倉二階堂谷の土牢(現 鎌倉宮)に幽閉された後、

首を打たれ無念の最期を遂げました。

護良親王の妃であった雛鶴姫は、打たれた首を葬らねばと、

首級を抱き鎌倉を抜けだしました。

このとき、姫は親王の御子を身ごもっていましたが、

山越えの途中で御子ともども命を落としました。

雛鶴トンネルを挟み東と西に2社、こちらはトンネル東側、秋山村無生野に鎮座する雛鶴神社になります。

県道35号沿い、雛鶴神社の案内板より徒歩で1km弱

雛鶴神社

雛鶴姫の墓

雛鶴姫の伝承

無生野の大念仏の起源、発祥の由来については、南北朝時代の、後醍醐天皇の皇子である、大塔宮護良親王の悲劇にまつわる雛鶴姫(ひなづるひめ)と、姫に仕えた人々の霊を慰めるために始まったものと伝えられており、無生野地区では以下のような伝承が古くから語り継がれている。建武2年7月23日(1335年8月12日)鎌倉将軍府にあった足利直義によって、鎌倉二階堂ガ谷の東光寺の牢に幽閉されていた護良親王は、直義に命じられた淵辺義博によって殺害されたが、無念さを隠しきれない親王は刺客となった淵辺義博の顔を死後もにらみつけていたため、その形相に恐れをなした義博は、その首級を周囲の竹薮に捨て逃走した。護良親王の寵愛を受けていた侍妃雛鶴姫は、親王の首級を竹薮から探し出すと、数人の従者と共にその首級を携え、ひそかに鎌倉を発った。相州(現:神奈川県)各地を転々とし、やがて甲斐(現:山梨県)秋山郷へと入り秋山川沿いを遡って行ったが、雛鶴姫はその頃、護良親王の子供を宿しており臨月の身重であった。秋山川上流部は当時人家も少なく、宿を乞う家も見当たらないまま雛鶴姫は産気づいてしまう。従者たちはやむなく、付近の木の葉を集めてしとねとし、そこを産所として皇子を出産したが、その日は師走の29日であったと言われ、真冬の寒さと飢えのため、雛鶴姫と生まれたばかりの皇子は他界してしまった。悲しんだ従者たちは、雛鶴姫と皇子の亡骸を手厚く葬り、護良親王の神霊とともにこの地に祀り、永久に冥福を祈るためにここに帰農した。雛鶴姫に同情した村人は、正月用に飾りつけておいた門松を取り払い、樒(しきみ)の枝を立てて冥福を祈ったという。無生野地区では今日でも正月に門松を立てず、松飾りを行わない風習が残されている。また、雛鶴姫が臨終の際に悲しみのあまり、ああ無情…と嘆いたことから、この地が無情の野と呼ばれるようになり、無情野、そして無生野という地名になったと伝えられている。それから約20年後、護良親王の王子である綴連王(つづれのおう)が戦乱の中を逃れ、この地にたどり着くと、無生野の人々から雛鶴姫の話を聞かされた。綴連王は無生野と自分との不思議な因縁を感じ、この地に住むようになり、一子五孫の繁栄を見て天寿を全うした。無生野の人々は、大塔宮護良親王、雛鶴姫、綴連王の3人を神に祀り、その供養のために大念仏を始めたと伝えられている。この綴連王は葛城宮とも言い、正史において陸良または興良親王に比定されているが、その後半生は行方不明とされている。また、雛鶴姫が生んだ皇子は死んでおらず、成長して綴連王となった等、諸説あるが、いずれにしても護良親王と雛鶴姫の悲劇の故事を発端として、無生野の大念仏は始まったと伝えられている。以上で述べた雛鶴姫の言い伝えは、あくまでも伝承であり、文献や資料の上でこれを実証することは困難である。しかし、この伝承が無生野の大念仏の保存・継承に果たした役割は大きく、無生野における伝統行事としての大念仏は雛鶴姫伝説と結びつくことによって、より神聖化され崇敬の念をもって、今日まで絶えることなく続いてきたものと考えられている。大塔宮護良親王、葛城綴連王、雛鶴姫の3名を祀った小さな祠が、無生野地区の西端、雛鶴峠の直下にあったが、この祠のあった場所に、1989年(平成元年)10月22日、雛鶴神社が建立されている。 Wikipedia

雛鶴神社の由来

雛鶴神社の由来

昔、建武乙庚年七月後醍醐天皇第一御子大塔宮護良親王は足利直義のた篠臣淵辺義博に殺害され竹藪に投棄せられたるを鎌倉に替在中の左近中将藤原宗忠朝臣菊地三女親王妃尾治滋子等が捨得して主従富士登山者に変装し鎌倉裏街道に入り相模の大山より津久井郡青根入り休養し甲斐国秋山神野峠を来り十日間休養するそれより山野を越えて無生野に来る。

時十二月三十日大晦日にて最寄の民家に休養せんとしが民家は戸毎にすけなく断りたるにより主従事はやむなく秋山峠の麓に達するや姫は間もなく葛城宮綴連王を出産ようやく山嶺に達し待つの枝に来り峠を越え朝日の側の麓ころ頃来病が悪化し遂に明けて正月元日姫は遂に死去なされたのである。之よき主従は従臣数人を残し社の守護に当らせたるも百日も過ぎ木枯太郎数人は姫を慕ひ殉死せし之の地に松を植え共の松と稱する。

そして綴連王は秋山村も杣勇庵の長男徳三郎の妻の乳にてせられ従臣一人を村添え之を守護し奉りしが正平元丙玄年十二月三十日母の忌日に秋山峠の麓に寄る綴連王の墓は今も残在しある之より秋山峠を雛鶴峠と言う尚姫みたる里を無情野と言う無情野部落一郷は今も正月にはシキビを門松の変わりに使う習慣があり今も残る此の資料は古文書道中日記及富士文庫より集録により後世に伝える為に之を書く

昭和五捨壱年九月十五日 瑞雪 附近の史蹟の跡

雛鶴神社 弘法大師 天の神のかたちをまねして造うたもの

祭神 空海作の天神の像

一、雛鶴姫の墓

一、共の松の根跡 従臣殉死の跡

一、大塔の原 かり寝の場所

共の松

共の松の由来

共の松の由来

今から六百七捨年前悲運の最後をとげられた姫の葬儀が行われた後 主従は従臣数人を残し社の守護に当らせたるも百ヶ日を過ぎ木枯太郎・馬場正国ら数人は姫を慕ひ殉死せられたとされる。

この時代の臣下の墓へは墓樹を植えたとされる姫に献身的に仕えた従臣の姿を松に託し死んでも尚姫の御霊を庇護して欲しいと言う人々の心根であったかと思われる。

二本の松の大樹は昭和六十年頃松喰い虫の被害に遇い手当の甲斐もなく遂に枯れてしまい根の部分だけが残っており残念である。

この松は人呼んで「共の松」と言われていた この伝説を後の世に伝える為 代わりに銀杏の木を植える。 直径一○センチ 高さ七メートル 平成十八年四月祭典の日 曽雌区 氏子

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