深巌山 竹馬寺(ちくまんじ) 十一面観音・仏坂観音堂
いだいら観音の里 観光案内
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仏坂古戦場(ほとけざかこせんじょう) 「ふろんぼ様」から先に進んだ先に
竹馬寺 仏坂観音堂があります。
国道257号沿いに看板があります。
観音堂近くの巨石には地域の人によってたてられた
夕やけ地蔵がかる。
国道257号から約1km 仏坂を進んだ先にあります。
観音堂へは裏口から。
初山寳林寺五代住職 「法源禅師」の碑があります。
法源禅師と御詠歌
法源禅師は慶安四年(一六五一)御水尾上皇の皇子として生まれた。
母は菅原氏、幼名を八十宮(やそみや)と云う。
十才で京都泉湧寺(せんゆうじ)で出家、江戸増上寺で修行をつみ、
初山寳林寺(宝林寺)を開いた中国よりの渡来僧独湛禅師に参究する。
のちに独湛禅師の命を受け初山寳林寺五代住職となった。
初山入山の折禅師の歌にゆく末はさもあらばあれ縁あらば。
今日初山に墨染の袖。当和讃は約三百年前金指近藤家領内三十三所の観音を
詠じたもので格調の高さがありその寺の由緒や沿革が詠み込まれている。
当所深巌山竹馬寺は三十番礼所であった。
禅師は造詣が深く特に和歌に堪能していた。
説教はわかり易く婦女子にも容易に理解出来多くの人が帰依したと伝う。
法源禅師の揮毫になる「観音山」の木額は町人文化財に指定されている。
佛坂十一面観音
佛坂の矢場と金的中楯
民俗古来の伝統を背景に、明治・大正・昭和の中期にかけて、
遠州地域では民衆の代表的な競技に一つとして弓道や相撲が盛んであった。
特に弓道は一人でも出来る心身鍛錬の方法として評価され、
伊佐地区では日置流弓道が浸透していた。
当井平区内にも幾つかの矢場が作られ、
有志により弓を使って二〜三十米先の的に矢を射当てる弓技が健全な趣味の
一つとして普及していた。
当仏坂観音堂東側の山林内にも、明治時代から矢場が作られ使用されていたが、
昭和三十年二月十六〜十八日の観音本開帳時には、
仏坂矢場としては最後の奉納弓道大会が実施されている。
この付近がその矢場の跡地である。
また、明治・大正時代の観音例祭の祈り、この矢場で見事金的を射止めた人が
奉納した木製記念楯(金的中)が本堂外周上部に五枚ほど掲示されており
当時の仏坂弓道大会の盛況ぶりを偲ぶことが出来る。
平成十九年四月 井平自治会第三部
表参道は仏坂が二手に分かれた右から行くことが出来るが、
今は通行止めとなっている。
途中、仏坂古戦場の地があります。